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瓜田に沓を納れず、李下に冠を正さず

『期間限定の思想(おじさん的思考2)』(晶文社)の中で内田樹さんがタイトルのような古諺を使って面白い公人論を語っている。政治家を始めとする「公人」は、どのような存在でなければならないのか、それを実に分かりやすく直感的に理解出来るように語っている。

タイトルの古諺の意味は次のようなものである。


「瓜田に沓を納れず李下に冠を正さず
(かでんにくつをいれずりかにかんむりをたださず)

 疑惑を招くような行為は避けた方がよいということ。瓜の畑で靴を履き直せば、瓜を盗んでいるのではないかと疑われ、李(すもも)の木の下で手をあげて冠の曲がったのを直すと、李を盗んでいるのではないかと疑われるというたとえから、疑わしい言動を戒める。」

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by ksyuumei | 2006-09-23 18:29 | 内田樹

竹中大臣の議員辞職の直感的理解と論理的理解 その3

河野太郎衆議院議員の「ふざけるんじゃねえ」という文章の論理的理解というものを考えている。論理的理解というのは、前提と結論の間に論理の飛躍が感じられず、その結びつきに納得出来るような理解をしようというものだ。

竹中大臣の議員辞職には何かおかしいというような直感を感じる。その直感が、よく考えた上でもやはりおかしいと思えるのか、それともおかしいと感じたのは自分の勘違いであり、ある種の思い込みから生まれた間違った判断であるのか、それを確かめるために論理的な理解というものを考える。

河野さんが提出する批判の論理的な理解は、任期途中で仕事を離れるのは、竹中大臣に一票を投じた人々の期待を裏切ることであり、責任を放棄するものだということだ。これは、論理的にはそのようなことが成立すると思う。仕事を全うしないことに対する責任は免れないだろうと思う。

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by ksyuumei | 2006-09-23 12:52 | 論理

竹中大臣の議員辞職の直感的理解と論理的理解 その2

河野太郎衆議院議員の「ふざけるんじゃねえ」という文章では、竹中大臣の議員辞職について

・国会議員として選挙で選ばれたことと小泉総理に大臣として任命されたことには違いがある。
・6年の任期があることは最初から分かっていたのだから、任期を全うすべき。
・国会議員を辞することについて、小泉さんにそれを承認する権限はない。

ということを理由にそれを批判していた。これは論理的には整合性があるように感じる。一つ一つの主張は、事実においても間違いはないと思われるし、論理的な判断においても間違いはないと思われる。

竹中大臣を批判すると言うことの直感的理解としては、上のことを確認すればいいだろうと思う。だが、これをより論理的に深く理解しようとすれば、他の視点からもこの問題を捉えて、直感的理解の段階では「無視」していた視点を、「捨象」出来ると確認することで論理的理解の段階まで高める必要があるだろう。

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by ksyuumei | 2006-09-22 09:18 | 論理

竹中大臣の議員辞職の直感的理解と論理的理解

河野太郎衆議院議員の「ふざけるんじゃねえ」という文章が賛否両論を呼んでいるらしい。この文章は、竹中大臣の議員辞職を批判したものだが、これを材料にして、そのことの正否に対する直感的理解と論理的理解について考えてみたいと思う。

竹中大臣の辞職が間違っていると直感的に理解すると言うことはどういうことになるだろうか。それは、まず感覚的にそうだと感じると言うことだ。その理由は後から考えられるかも知れないが、最初の印象としては、これは間違えていると感じることが直感的な理解になるだろう。

ではなぜ、理由を考える前にそう感じてしまうのだろうか。理由を充分に考えた後に結論を出すのなら、それは論理的理解と言うことになるだろう。理由をよく考えずにそうだと思ってしまうのは、単なる思い込みと言うことになるのだろうか。直感が間違えていた場合は、それは単なる思い込みであると言える場合が多い。だが、直感的に理解したことが結果的に正しかったと言うこともある。この場合は、たまたま運良く正しいことと重なっただけだと解釈する方がいいのだろうか。

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by ksyuumei | 2006-09-21 09:34 | 論理

直感的理解と証明(論理的理解)

数学における初等幾何において、最初の証明といわれているのが二等辺三角形の二つの底角が等しいというものだ。これは三角形の合同を用いて証明する。二等辺三角形は、裏返しても同じものになるのでもとの三角形に重なる。これを合同というのだが、重なるので二つの底角は等しいと言うことが論理的に証明されると考えるわけだ。

これは、証明としてはごく簡単なものだが、なぜ証明が必要なのかと言うことを理解するのは難しい。両底角が等しいことなど、ちょっと正確に作図してしまえば、見て分かるじゃないかと感じるからだ。見て分かるというのは、直感的にそれが分かると言うことだが、直感的に分かるものをなぜわざわざ論理的に証明するかというのは、問題を難しくするだけで面倒だと感じるのではないだろうか。

なぜ証明が必要なのかということに対する一つの解答は、直感は間違えるときがあるからだと言うことだ。真理としての信頼性を高めるために証明をするということだ。これは実際に直感が間違えているときには有効な発想になる。例えば、地球が平らに見えるのは直感から来る理解だが、これは人間の視覚の範囲に対して地球があまりにも大きいために、それが球体であることが直感では見えないということが原因している。

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by ksyuumei | 2006-09-19 09:24 | 論理

科学における定義について

三浦つとむさんは、ソシュールの「言語」の定義が、実際に表現された具体的な言葉としてのものではなく、頭の中の認識である規範になっているという批判を行っていた。これは、「言語」の定義としてはふさわしくないと言う批判だ。これは、具体的なコミュニケーションの場で使われる「言語」について解明しようとする三浦さんとしては、その理論の展開からすれば当然すぎる批判だろうと思う。規範はコミュニケーションの道具ではあってもコミュニケーションそのものではないからだ。

しかしソシュールは具体的なコミュニケーションを分析しようとしたのではないように僕には見える。ソシュールは、そもそもは様々な具体的な言語の成立と変遷の歴史を研究していたように見える。ソシュールにとっての関心は、具体的なコミュニケーションの場で使われる言語ではなく、まさに規範としての言語がどのような歴史を持っているかと言うことだったのではないだろうか。

僕はソシュールの「一般言語学」という言い方がとても気になっていた。これは「一般の」「言語学」なのか、「一般言語」の「学」なのかということだ。「一般」という言葉には、普遍性や抽象性というものがあるように感じる。「一般の」「言語学」であれば、すでに確立された「言語学」がいくつかあって、それに共通な要素を抽出して一般化するというようなニュアンスを感じる。ソシュール以前には、比較言語学というものがあったようだが、いくつも言語学が確立されていたのではないようだ。むしろソシュールによって初めて言語学が確立されたように言われている。

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by ksyuumei | 2006-09-18 12:13 | 言語

内田樹的言説と宮台真司的言説

内田樹さんは『ためらいの倫理学』の中で「私は宮台真司という人の書いたものを読んで共感したことが一度もない。どうしてなのか知らないけれど、どこかで必ず違和感のあるフレーズに出くわすのである」と書いている。僕は、内田さんにも宮台氏にも共感し、リスペクト(尊敬)する感情を抱いているだけに、その感覚の違いに興味を覚える。

僕は内田さんには「さん」をつけて、宮台氏には「氏」をつけて記述している。これは年齢的なものから来る感覚がある。内田さんは僕より少し年上なので、何となく敬意を込めて「さん」をつけたくなる。宮台氏は僕より3つほど年下と言うこともあり、こちらも敬意を込めて「氏」と呼んでいるような所がある。

同じように年下の仲正さんは、「さん」と言ったり「氏」と言ったり統一はしていない。「さん」をつけるのは親しみを感じたときで、「氏」をつけるのは、その言説に敬意を込めたいときに「氏」を使うような感じがする。

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by ksyuumei | 2006-09-17 12:57 | 内田樹

内田樹的言説と宮台真司的言説

内田樹さんは『ためらいの倫理学』の中で「私は宮台真司という人の書いたものを読んで共感したことが一度もない。どうしてなのか知らないけれど、どこかで必ず違和感のあるフレーズに出くわすのである」と書いている。僕は、内田さんにも宮台氏にも共感し、リスペクト(尊敬)する感情を抱いているだけに、その感覚の違いに興味を覚える。

僕は内田さんには「さん」をつけて、宮台氏には「氏」をつけて記述している。これは年齢的なものから来る感覚がある。内田さんは僕より少し年上なので、何となく敬意を込めて「さん」をつけたくなる。宮台氏は僕より3つほど年下と言うこともあり、こちらも敬意を込めて「氏」と呼んでいるような所がある。

同じように年下の仲正さんは、「さん」と言ったり「氏」と言ったり統一はしていない。「さん」をつけるのは親しみを感じたときで、「氏」をつけるのは、その言説に敬意を込めたいときに「氏」を使うような感じがする。

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by ksyuumei | 2006-09-17 12:56 | 内田樹

正義と真理

正義と真理とは重なるようなイメージがあるものの、それはまったく違うものだと僕は感じる。正義であることが必ずしも真理ではないし、真理を認識したからといって、そこから正義の行動が出てくるわけではない。むしろ正義と真理はしばしばその結論が対立する場合さえある。正義を主張したい事柄の真理性は証明されないことが多い。

何かが「正義である」という判断と「真理である」という判断は、その基準に違いがあると思う。僕の判断基準は、正義に対しては「利害関係」であり、真理に対しては「論理関係」というものになる。ある立場にとって利益になることは、その立場にとっては正義であるというのが僕の判断だ。

真理については仮言命題の論理的整合性がまずは必要条件になる。ある前提を立てたときに、その前提から導かれる結論の間に正当な論理関係があるということが必要条件だ。そして、その前提が現実存在との整合性を持っていることが確認出来たとき、その命題は真理としての資格を確認する。

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by ksyuumei | 2006-09-16 10:58 | 論理

植草一秀さんの事件について

植草一秀さんが痴漢行為で逮捕されたというニュースがあった。僕は、このニュースにかなり大きな違和感を感じている。ある意味では、つじつまのあわなさを、この「物語」に感じているのだ。逮捕されたというのは「事実」ではあるが、痴漢行為をしたというのはまだ確認されてはいない。それはまだ「事実」の段階に至っていないのだが、マスコミ報道などを見ると、それがあたかも「事実」のように取り扱われているのにまず違和感を感じる。

その傾向が顕著に表れているのは、日刊スポーツの見出しに書かれている「懲りない植草教授、今度は痴漢で逮捕」というような言葉だろう。「懲りない」という表現には、前回の事件も、今回の事件も、明らかに植草さんが犯罪を行ったという前提の下にこの記事を書いていることがうかがえる。

しかし、僕は植草さんが前回の事件においても犯罪行為を行ったというふうに思えないところに、今回の事件のつじつまのあわなさを感じてしまう。前回の事件にも事実におけるつじつまのあわなさを感じていたので、今回また唐突に痴漢行為で逮捕されるという事件が起こると言うことに、なぜだろうという疑問がかなりわいてくる。

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by ksyuumei | 2006-09-15 12:15 | 雑文