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問題意識のずれを考える

シカゴ・ブルースさんの「ソシュール的な「語の意義」と「語の価値」」というエントリーを読むと、そこにかなりの問題意識の違いを感じる。これは、違いを感じるからと言って、シカゴ・ブルースさんが書いていることに批判的であると言うことではない。シカゴ・ブルースさんが主張することについては大筋で同意する。つまり、問題意識が重なるところでは異論はないのだ。

辞書的な意味で、ある「語義」について、その概念と表現形式との結びつき全体を「語義」と考えれば、フランス語の mouton と英語の sheep とは、概念が違うのだから「語義」が違うと判断出来る。表現として同じ意味、つまりその表現からたどれる関係性を同じにするためには、「語義」が同じ言葉で表現しなければならない。生きている羊を意味する mouton ならば sheep の語を充てて、食肉としての羊を意味する mouton の場合には mutton を充てるのが正しいだろう。この場合には、語義の違いに特に注目する必要はない。語義の違いに対する問題意識は鮮明には現れてこない。

しかし、これが内田さんが語る「語義がかぶっている」と言うことに注目すると、そこに一つの問題意識が生まれてくるのだ。それは、「語義」が同じかどうかに注目しているのではないのだ。

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by ksyuumei | 2006-09-30 10:57 | 言語

「語義」と「価値」--語の意味

内田樹さんが『子どもは判ってくれない』の中で「語の「意味」には「語義」と「価値」の二つの種類がある」と書いている。これは、ソシュールが『一般言語学講義』で説いたもので、ソシュール的な視点からの「意味」の考察になっているそうだ。

三浦つとむさんは、言語を個別的な表現として捉えた。現実に語られたものを言語として考察の対象にした。言語は表現の一種であり、表現としての資格を持たないものは言語という対象からは外して考えた。それに対してソシュールは、個別的な表現ではなくて、社会的な存在である、共通認識としての言語規範を言語学の対象に選んだ。

そのソシュール的な発想から、内田さんが語る「語義」と「価値」という、意味の二つの側面を発見することが出来る。この二つの側面は、個別的な表現が持っている関係性としての「意味」ではない。言語規範という社会的存在が、個人を越えた性質として持っている側面としての「意味」だ。

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by ksyuumei | 2006-09-29 09:23 | 言語

言語の意味について

三浦つとむさんは、『日本語はどういう言語か』のなかで、言語の意味を関係として捉えて説明していた。言語にかかわらず表現というものは、形式と内容のずれ(矛盾)が存在する。同じ形式(外見=音声・文字の形など)であるにもかかわらず、それによって伝わるもの(内容)が違うという矛盾だ。同じ文章を読んでいるのに、まったく違う「意味」で読んでしまう人がいたりする。三浦さんは、これを形式と内容の対立物の統一として説明していた。

この矛盾はどのようにして解決するか。「同じ」と「違う」という正反対の性質が、そのまま無条件に成立すると考えると、これは形式論理に違反することになる。それは形式論理としてはあり得ないから、形式論理としての解決はどちらかを否定して矛盾を解消しなければならなくなる。その発想が、内容をある種の実体としてとらえる視点になる。内容を実体として固定してしまえば、ずれを読みとることが間違いだと言える。

内容を実体として捉えると、その実体は3つほど想像出来る。一つは表現を担う物質的存在である「物」という実体だ。言語の場合でいえば音声であったり文字がこれになる。彫刻や絵画であれば表現された物がそれに当たる。しかし、この発想は、表現された物と自然物との違いを示さない。表現されたものは、そのままでは伝わらない人間の頭の中にある「認識」と結びついていなければ、表現として機能しない。だから、これは「表現」の内容にはふさわしくないだろう。

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by ksyuumei | 2006-09-28 10:20 | 言語

杉浦法相が死刑を執行しなかったことの評価

ヤフーの「<杉浦法相>死刑執行せず 在任11カ月、命令書の署名拒む」というニュースによれば、杉浦法相が死刑執行命令書に署名しなかったことについて、正反対の評価がされているようだ。報道では、


「◇慎重な姿勢、評価 
 ▽石塚伸一・龍谷大教授(刑事法)の話 刑事訴訟法が死刑の執行命令を法相に委ねたのは、特に慎重な配慮を求めたからで、時代状況に応じた法相のリーダーシップを期待したとも考えられる。死刑を減らしていくことは世界の潮流で、杉浦氏が執行に慎重姿勢を示したことは評価したい。
 ◇職責果たしてない 
 ▽渥美東洋・中央大名誉教授(刑事法)の話 死刑の執行は法相が命令すると刑事訴訟法で定められている以上、従うのが当然。命令しないのであれば法相の職責を果たしていないことになり、首相が罷免すべきだ。杉浦氏は弁護士、法律家でもあるのだから、死刑を命じないのなら法相を引き受けるべきでなかった。」


と書かれていて、二人の学者の評価が伝えられている。これは学者の評価である以上、恣意的な感情から生まれたものではなく、論理的な考察の結果として出てきたものだと思われる。正反対の結論が、どのようにして論理的に導かれるのかを考えてみたい。これは正反対ではあるけれども、どちらかが排除されるものではなく、視点の違いを認めることで両立しうる主張だと考えられる。その視点の違いを探し求めたいと思う。

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by ksyuumei | 2006-09-27 09:52 | 論理

「イズム(主義)」の論理--イデオロギーに支配された思考

何とか主義による思考の展開は、マルクス主義の崩壊とともにかなり薄れてきたように感じるのだが、それが論理的な誤りがあったという認識はなかなか難しいのではないかと思う。本人は意識していなくても、「愛国主義」「道徳主義」のようなものが基礎にあってものを考えているのではないかと思えるようなものはたくさんある。

これらの主義が、その論理的帰結の正しさを保証するものではなく、自らの行動の指針として、実践的な基礎にあるのだという自覚が必要なのではないかと思う。「愛国主義」を抱いている人間が、自らの行動を愛国的なものとして、愛国の本義に反しないようにしようと意識するのは正しい。しかし、それが普遍的な正しさを持っていると思うのは勘違いだろうと思う。

これは、一見普遍的な価値を持っていると思われる「平和主義」などにも言えることだ。自らの行動を、平和を目的とするものとして、平和と齟齬を起こさないように律する、倫理的な基準として立てるのは正しいだろう。世界平和を願っている人間が、近隣の人間とトラブルばかり起こしていれば、それは主義に反するのではないかと思う。

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by ksyuumei | 2006-09-26 10:24 | 論理

植草一秀さんの小泉内閣経済政策批判

マル激の中で語られていた植草さんの、小泉内閣経済政策批判を論理的に理解する努力をしてみようかと思う。僕は経済学を専門的に勉強したことはないので、これが正しいかどうかという評価は出来ない。あくまでも論理的な整合性という面でのみこれを理解していきたいと思う。

経済学の難しさは、現実の複雑な現象を捉えることの難しさでもあるだろう。複雑な現象は、どの視点からそれを眺めるかでまったく違う姿を見てしまう。正反対の判断も生まれてくるだろう。それが現実の弁証法性だ。その時に、自分の視点が正しいという確信がどこから得られるのか。

植草さんの視点からの見方に論理的整合性があることを考え、その批判に一理があることを確認したいと思う。そして、他の視点というものを出来る限り探し求めて、その視点の正しさ(論理的整合性)も考えてみたい。そして、他の論理的整合性のある視点と、植草さんの視点に両立可能性があるかどうかを考えたいと思う。

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by ksyuumei | 2006-09-25 10:02 | 政治

林道義さんの善意 2

林さんのホームページ「フェミニズム批判」の中から、林さんの善意を感じる部分を探してみようと思う。ここにはかなりの量の文章がおいてある。まずは「1 なぜフェミニズムを批判するのか」という文章から探してみよう。そこには


「私憤・公憤という言葉を使うなら、私のフェミニズム批判はほとんど百パーセント公憤から出たものである。」


と書かれている。これはおそらく本当のことだろうと思う。むしろ、林さんの怒りは個人的な感情を越えた怒りだからこそ、正義として極限にまで走ってしまうのだと思う。このような公憤は善意の大きさを物語るものだと思う。

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by ksyuumei | 2006-09-25 08:27 | 雑文

国会議員と大臣の違い

竹中大臣が、小泉政権の終わりとともに、参議院議員も辞職をしたいということを表明したのは15日のことだった。「<竹中総務相>議員辞職表明…「安倍政権」居場所なく」という報道によれば


「「小泉路線」の象徴的存在だった竹中平蔵総務相が15日、政権交代ともに参院議員を辞職する考えを表明した。後継が確実視される安倍晋三官房長官が格差是正など小泉改革の修正を志向する中、新政権下で活用される居場所はないとみられ、自ら見切りをつけたのが実情だった。小泉改革と同様に実績の評価は激しく分かれる。民間閣僚として起用され、選挙で72万票を集めバッジをつけた同氏の転身を疑問視する見方も与党内に出ている。
 「政治の世界での役割はあくまで小泉首相を支えることだった。小泉内閣の終焉(えん)をもって、政治の世界における私の役割は終わる」
 竹中氏は15日、閣議後の記者会見で辞職の理由をこう語った。首相官邸に小泉純一郎首相を訪ね、当初はその日のうちに議員を辞職する考えを伝えた。首相は「ご苦労さん」と了承したが、時期については「(26日の)首相指名選挙が終わってからの方がいい」と助言、竹中氏も受け入れた。」


とされている。これに対して、河野太郎さんがかなり強い口調で「ふざけるんじゃねえ」という批判を提出した。僕も、大臣の仕事が終わるからそのついでに国会議員も辞めるというように見えることに違和感を感じていたので、河野さんの批判に共感し、直感的にそれに賛成する気持ちが生まれてきた。

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by ksyuumei | 2006-09-24 21:44 | 政治

国旗・国歌に対する「強要の論理」と「拒否の論理」

東京都教育委員会が都立高校の教員に対して、卒業式・入学式等での「国旗への起立や国歌斉唱」を強制していたことが、思想・信条の自由を保障した憲法に反するという違憲判決が出た。これは画期的な判決だが、よく考えてみればごく当たり前のことを述べているようにも見える。

この判決が画期的に見えるのは、世間の受け取り方という解釈に、論理的なずれがあるからではないかと感じる。判決は何を違憲と判断したのか。それを論理的に理解して、「強要が間違い」であり「拒否が正しい(自由・権利の正しい使用)」ことを理解したい。

まずは判決の内容の正確な理解を考えるために、「社説=国旗・国歌 「強要しない」原点踏まえ(信濃毎日新聞)」を見てみよう。そこには

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by ksyuumei | 2006-09-24 16:35 | 論理

林道義さんの善意 1

内田さんが『私家版・ユダヤ文化論』で反ユダヤ主義者たちに対して次のような感想を語っていた。


「しかし、私が反ユダヤ主義者の著作を繙読して知ったのは、この著者たちは必ずしも邪悪な人間や利己的な人間ばかりではないということであった。むしろ、信仰に篤く、博識で、公正で、不義を激しく憎み、机上の空論を嫌い、戦いの現場に赴き、その拳に思想の全重量をかけることをためらわない「オス度」の高い人間がしばしば最悪の反ユダヤ主義者になった。」


反ユダヤ主義者は善意にあふれる人間であり、その善意の正しさを全く疑わない強い人間だと言うことだ。その代表格がドリュモンであり、ドリュモンは多くの点で優れていて正しい人であったにもかかわらず、総体として間違った思考である反ユダヤ主義に陥った。

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by ksyuumei | 2006-09-24 10:40 | 雑文