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「思考言語」という言い方について

「思考言語」という言葉を初めて聞いたのは、養護学校で障害児教育に携わっていたときだった。障害児の中には、言語を話す機能に障害があるため、表出される言語はないものの、こちらが話す言語はよく理解し、文字盤などを使って何らかの表現を引き出すことが出来る子どもたちがいた。

文字盤というのは、ひらがなの50音を書いたもので、どのひらがなを表現したいのかを一つずつ聞いていって、イエスかノーの表現をあらかじめ決めておいて、そのやりとりによって対話を行うものだ。文字盤を使った対話は、音声としては現れないが、表現としては外に出てくるので「言語」と呼ぶにふさわしいものになっていると思う。

このような対話が出来る子どもたちは、たとえ音声としての言語表現がなくても、言語の理解をしていることは分かるし、表現をしていないときでも表現の手前までの思考が頭の中で行われていることが分かる。この言語表現のための思考活動に使われる言語を「思考言語」と呼んでいるように僕は感じた。

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by ksyuumei | 2006-08-12 10:14 | 言語

長野県民は田中康夫さんの何を否定したのか

否定の論理構造という視点から長野県知事選の結果を考えてみたいと思う。田中さんは7万8000票差で破れたという。これを大差だと見る見方もあるが、田中さんには53万票くらいが入ったというから、決して否定されたわけではないという見方もあるだろう。

しかし結果的には選挙に敗れた。その事実の中に入っている、田中さんに票を入れなかった人々の「田中さんへの否定」というものがどこにあるのかを考えてみたいと思う。それは、ある意味では僕には事前には浮かんでこないものであるように感じるからだ。

否定の論理構造においては、可能性としての「事態」の予想を持っている人間が、その「事態」に反する「事実」を見たときに、「事態」の否定として否定の判断が生まれるというふうに見える。「事実」そのものをただ眺めているだけでは否定の認識が生まれてこない。何かが「赤い」と感じた人間が、実際にそれがそうでないことを見たとき「赤くない」という判断をするように。

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by ksyuumei | 2006-08-11 09:34 | 政治

否定の論理構造

野矢茂樹さんの『『論理哲学論考』を読む』という本の中の「否定詞は名ではない」という言葉が気にかかっている。「名」というのはウィトゲンシュタインの哲学において特別な意味を持っている用語なので、これの意味を正しく理解するのがまた難しいのだが、名詞と同義ではない。

もし「否定詞は名詞ではない」と言うことなら、これはごく当たり前のことを語っているものとして受け取れる。否定詞は名詞と違う機能を受け持つ言葉であり、違う品詞として分類されることに整合性がある。「名」というものは名詞だけを指すのではなく、もっと広い範囲の言葉を指すものだと思われるので、その範疇に否定詞が入っていないと言う判断が気にかかっている。

「名」というものを自分なりに解釈してみると次のようなものだと思われる。ウィトゲンシュタインにとって世界とは事実の総体だった。そして事実とは言語によって表現される事柄だった。これを命題と呼んでもいいように受け取れる。この命題を構成する要素としての言葉がすべて「名」と呼ばれているように感じる。野矢さんの説明では次のようになる。

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by ksyuumei | 2006-08-10 10:53 | 論理

「靖国問題」と「靖国参拝問題」

以前に高橋哲哉さんの『靖国問題』(ちくま新書)を参考にして「靖国問題」を考えてみた。高橋さんは哲学者なので、哲学者としての視点から「靖国問題」を捉えると、どのような論理展開になるかということがこの本を学びたいと思った大きな理由だった。

哲学者というのは非常に厳密な論理を構築する。普通の人ならあまり注意を払わないような細かいところまで、その論理の一貫性を保つようにこだわる人たちだ。だから、「靖国問題」というデリケートな問題に対して、とことん徹底的に論理的な考察をするとどうなるかと言うことをこの本から学ぼうと思った。

しかし、そのように徹底した論理展開をすると、一般的な結論としては予想出来るものがある。それは、簡単に結論は出せないと言うものだ。哲学は対象を徹底的に掘り下げるが、どんな対象であろうとも徹底的に掘り下げれば、判断が難しい面が必ずある。だから、結論としては「分からない」「客観的判断は下せない」というものになることが予想される。

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by ksyuumei | 2006-08-08 10:45 | 政治

言葉が現実を切り取って意味づけていくと言うことについて

亀田選手の世界戦については、その判定結果が問題になり、多くの人がそれに対して意見を語っていた。亀田選手を擁護する人は少なく、批判する人が多いというのが図式だったようだ。僕は、亀田選手の試合そのものよりも、その後の日本中の反応の方が面白かった。

この問題は、いろいろなことが複雑に絡み合っているので、なかなかどれが正しい判断かということを言うのが難しいだろうと思う。視点の違いによって様々な意見が出てくるのもやむを得ないことだと思う。だが、その様々な意見が、ある言葉から生まれてきたように見えるものがあるのは、言語と論理の関係に関心がある僕にとっては面白い現象だと思った。

「八百長」という言葉であの試合を語っている人が大勢いたのだが、この言葉の使い方に僕は違和感を感じた。八百長というのは、辞書的な意味は次のようになる。

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by ksyuumei | 2006-08-07 09:22 | 雑文

仲正さんの北田暁大氏批判 1

『ラディカリズムの果てに』の中に書かれている、仲正さんの北田暁光氏批判を考えてみたいと思う。これは、前提としては、仲正さんが記述する「事実」が正しいものとして考える。北田氏と仲正さんの間に何があったかは、仲正さんが語ることで知る以外に方法がない。直接の関係者であれば何か知りうることがあるかも知れないが、そうでない人間は、誰かが語ることを信じて、それを前提として論理を展開するしかない。

仲正さんが語ることが事実でないということになれば、そこから展開される論理は無意味ということになってしまう。それは、間違った前提から結論されることは、正しいか正しくないかは決定出来ないからだ。しかし、事実かどうかが確定出来ない状況では、それは仮言命題として受け取ると言うことになるだろう。もし、前提が正しいと仮定したら、そこから導かれる結論として、仲正さんが語る批判に正当性があるかどうかを考えてみたいと思う。

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by ksyuumei | 2006-08-03 09:56 | 雑文

抽象的な批判と具体的な批判

仲正昌樹さんは『ラディカリズムの果てに』(イプシロン出版企画)という本の中で「ラディカル」というものについて語っている。それは、「ラディカル」の批判を語っているのだが、「ラディカル」という抽象概念そのものの批判と、「ラディカル」を体現していると思われる具体的な人々に対する批判とを区別して捉えないとならないのではないかと思う。

まずは「ラディカル」という言葉の意味だが、仲正さんは次のように語っている。ちょっと長いが引用しておこう。


「昔左翼だった人がよく「ラディカル」ってことを強調していたし、今でもけっこう強調している人はいるけれど、この「ラディカル」という言葉には少なくとも二通りの意味があると思います。その二つのレベルが時としてごっちゃになって使われるので、どういうのが「ラディカル」なのかわかりにくくなっているような気がします。
 まず「ラディカル radical」の意味を英語の辞書で見ると、「根本的」とか「根元的」というのがあります。「根」と関係があるんですね。ラテン語で「根」のことを radix と言いますが、多分、radix にまで遡って「考える」とか、その遡った根元的思考に従って「行動する」というような文脈で「ラディカル」という言葉が使われるようになったんだと思います。そこで「思考」の面での「ラディカル」と、行動の面での「ラディカル」が出てくるわけですが、この二つのレベルはなかなか一致させるのが難しい。なぜ一致しにくいのか?
 当たり前のことですが、「根本に遡って考える」っていうのは、外から見てすごくわかりにくいんですね。「何が根本なのか?」ということそれ自体がそもそも問題なんだから、本人が「私は根本まで掘り下げて考えている」と自称しても、そう簡単には信用出来ません。キリスト教の信仰でいうところの「原罪」のようなものをイメージしているのか、初期マルクスの「疎外」のようなものなのか、それとも精神分析でいうところの父殺しのようなものなのか?自分が「根本」だと感じているのとは違うものを“根本”だと言われても納得出来ないでしょう。」

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by ksyuumei | 2006-08-01 11:00 | 雑文