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名探偵は謎解きの際にどのように「考えて」いるのか

内井惣七さんの『シャーロック・ホームズの推理学』(講談社現代新書)には、名探偵シャーロック・ホームズの推理を巡って興味深い記述がある。名探偵の推理くらい「考える」と呼ぶにふさわしい現象はないかも知れない。それは知っていることを語るのではなく、まさに未知なる謎を解明すると言うことになるので、「考える」と言うことにふさわしいものであるように見える。

僕は小学生の頃にシャーロック・ホームズの物語に夢中になってそればかり読んでいた時期がある。それが後になって数学の論理に関心を持つような素地を作ったのではないかと思う。尊敬する三浦つとむさんも探偵小説のファンだった。三浦さんはそこに弁証法の論理を見出し、探偵小説を楽しむことで弁証法論理の訓練にもなったと語っていた。

探偵小説の謎解きの面白さは、バラバラに提出された事実が、謎が解けて来るに従って見事に線となってつながってくることの合理性にあるように感じる。だから、この合理性が、ちょっと強引でご都合主義的に見えたりすると、謎解きの楽しみが半減してくるのを感じる。どのような謎解きが見事な合理性を持っているのかを考えてみたいと思う。そこに論理の面白さも発見出来るのではないかと思う。

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by ksyuumei | 2006-08-31 09:51 | 論理

政治は大衆運動だろうか?

「政治は大衆運動だろうか?」などと疑問文で書いたりすると、それは「そうではない」というような答を暗に主張しているようなものだ。こんなことを考え始めたのは、うるとびーずさんの「田中流選挙」という日記で紹介されていた、「戸田の分析:あえて勝利第1主義を採らなかった田中流選挙の美学と達観」という文章を見たからだ。

長野県知事選で田中康夫さんが落選したとき、僕は、政治的な主張としては田中さんの方が正しいだろうと感じていた。その田中さんが選ばれなかったのは、長野県民は選択において間違いをしたのではないかと思った。しかし、たとえそれが間違った選択であろうとも、現実にそのような選択がなされた以上、これが現実化したことの合理的な理由が求められるはずだと思っていた。何故に田中さんは知事選に敗れたのか。それを合理的に納得したいと思った。

直接の敗因は、かつて田中さんを支持した人たちが今度は対立候補の支持に回ったので、結果的に票を失ったというものだった。そこでは、信濃毎日を始めとするマスコミなどの攻撃が、田中さんに対する誤ったイメージを植え付けるのに成功したと言うことも語られていた。このことは、バックラッシュ現象の一つではないかと僕は解釈して、その方向で選挙結果を理解しようとした。

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by ksyuumei | 2006-08-31 00:20 | 政治

「考える」と言うことの本質を考える

野矢さんの『はじめて考えるときのように』(PHP文庫)をヒントに「考える」ということを考えてみたい。まずは次の命題から考えてみる。


「「考える」って言うのも、結局、ぜんぜん心の状態や心の働きなんかじゃないんだ。」


この命題は、現象として我々が感じているものと反対のことを言っているような気がする。何かを考えているとき、普通は頭を働かせていると感じているのではないだろうか。そして、その頭とは、心と呼べるようなもののような気もする。しかし、「考える」と言うことをよく考えてみると、それは「状態」や「働き」ではないということだ。これはどういう意味なのだろうか。

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by ksyuumei | 2006-08-30 09:56 | 論理

『下山事件(シモヤマ・ケース)』(森達也・著、新潮社)

ずいぶん前に買っておいた本だったが、昨日何気なく手にとって二日間で一気に読んでしまった。それくらい面白い本だった。面白さの要素はいろいろとあるけれど、推理小説的な謎解きの面白さも感じた。その部分はこれから読むかも知れない人に種明かしをするのは面白さを半減させてしまうだろうと思うので、この本の内容についてはあまり触れないことにする。

この本の内容以外の面で強く引きつけられたところを感想として記しておこうと思う。同じような面白さを感じた人に出会えたら嬉しいと思う。

まずは著者の森さんの人間的な魅力について感じたことを。森さんというのは、とても親しみを感じる人だ。宮台氏のように天才的な輝きを感じるという部分はない。だが、そのおかげで雲の上の遠くに住んでいる人間というような距離感を感じることなく、自分と同じように感じ・同じように考えて対話が出来る仲間のような親しみを感じる。

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by ksyuumei | 2006-08-29 16:56 | 読書

差別とバッシングのバックラッシュの論理、あるいは感情のロジック

内田樹さんの『私家版・ユダヤ文化論』では、それが不当であるにもかかわらず現実に発生しているユダヤ人への迫害というものを論じている。それが不当なものであることはほとんど全ての人が同意する。迫害をする人々の根拠となっている論理は、論理として間違っているのだ。しかし、たとえ論理として間違っていようと、感情では差別・バッシングをせずにはいられないと言うものがある。それはなぜかと言うことの解答を求めているのがこの本のテーマだ。

これが、迫害する人間が邪悪だからだという単純な理解が正しいのなら、その邪悪さを非難してそれがいかに間違っているかを理解すればこの迫害は終わるはずだ。しかし、人々がそのような理屈としての理解をしてもその迫害は終わらない。これは不当な差別がいけないことだと頭で理解しても、現実の差別が社会からなくならないという構造とよく似ている。

個人としての判断と社会の現象とが食い違うというのはよくあることだ。板倉聖宣さんは、この食い違いの認識から社会科学への探求が始まると言っていた。肉体的な目でいくら眺めても社会は見えてこない。ノーミソの目で眺めるとき、抽象された姿としての社会がようやく見えてくる。

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by ksyuumei | 2006-08-29 09:33 | 雑文

リベラルの側の失敗とバックラッシュ

今はやや下火になってきた感じがするが、ちょっと前の一時期にネット上での「サヨ叩き」というものが席巻した時があった。イラクでの人質事件に関連して、人質になった3人を叩く言説がその典型だっただろうか。

そのほとんどは、論理としては全く不当なもので、非難する理由のないところにまでけちをつけて文句を言うためにアラを探す、あるいはアラを作り出して捏造するという感じのものまで見えたものだった。自作自演だというような非難はその際たるものだったかも知れない。

イラク人質事件の3人は、いわゆる左翼系の人々だと言うことで、それだけを理由にして叩かれる対象になったとも考えられる。これは全く不当なことで、根拠ある正当な批判であれば議論をする価値もあるのだが、これらのバッシングはバックラッシュと呼ぶにふさわしい反動ではないかと感じたものだ。

これら根拠のない非難を浴びせる人間たちはかなりの多数に達したものの、彼らは間違っており、その論理的な誤りを指摘すれば、論理としての批判は終わってしまう。そして、根拠のない非難を浴びせるひどい奴らだと言うことで、そのことは片づけられてしまう。しかしそれで批判は全て終わったと決着をつけていいのだろうか。

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by ksyuumei | 2006-08-28 18:09 | 雑文

不当な差別・バッシングに合理的な理由はあるか

内田樹さんは『私家版・ユダヤ文化論』という本で「なぜ、ユダヤ人は迫害されるのか」ということを論じている。この問題に対する答は、「ユダヤ人迫害には根拠がない」と答えるのが「政治的に正しい解答」だという。つまりユダヤ人迫害は不当な差別・バッシングだということだ。

これはある意味では当然のことである。だから、この当然のことに疑問を差し挟むだけで、それは「ユダヤ人迫害には根拠がない」ということを否定しているように感じてしまう気分が生じる。つまり疑問を提出することが「根拠がある」と言っていることに等しいと受け取られてしまう。これは非常に危険な主張ではあるが、論理的には、疑問を提出することと対立する主張を否定することとは同じことではないはずだ。

疑問を提出することは、思想・信条の自由の表現として、それが学問的内容を持っていれば学問の自由として保障されるべきことだと思う。その主張に誤りがあれば批判されるのは当然であるが、疑問を提出したことそのものが間違いだと断罪されてはいけないと思う。

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by ksyuumei | 2006-08-28 09:01 | 内田樹

『はじめて考えるときのように』(PHP文庫)--野矢茂樹さんの『論理哲学論考』

僕が強くリスペクトを感じる学者に、もう一人哲学者の野矢茂樹さんがいる。野矢さんは専門が論理学であるという親しみも感じているのだが、なんといってもリスペクトに大きな要因として感じているのは、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を理解するための媒介としていろいろなことを学ぶことが出来たからだ。

いきなり結論を語るウィトゲンシュタインの言葉を、一つずつ丁寧に解きほぐして、どのような思考を重ね、どのような論理をつなげていけばその結論に達するかを野矢さんは教えてくれた。これは、野矢さんに教育者としての優れた資質があったからではないかと思う。学者としてのリスペクトとともに教育者としてもリスペクトするものである。

ウィトゲンシュタインの文章はとてつもなく難しいが、野矢さんの文章は易しく理解しやすいように配慮されて書かれている。その野矢さんが、野矢さんなりの『論理哲学論考』を書き直すとすればこれではないかと思ったのが『はじめて考えるときのように』という小さな本だった。この本はとても面白く、とても深い内容を持ったものだ。

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by ksyuumei | 2006-08-26 10:44 | 雑文

文章の易しさと難しさ

学生の頃ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を読んで、これほど難しい本はないと思った。書いてあることがさっぱり分からないという感覚を持ったものだった。年をとって、野矢茂樹さんを通じてこれを学び直したら、ようやくその文章が分かりかけてきた。なぜ分かってきたのかというのを自分なりに考えてみたいと思った。

ウィトゲンシュタインは、冒頭の文章で

「1 世界は成立している事柄の総体である。」

という文章を書いている。この文章を文法的に理解することは可能だ。つまり、言葉の形式としての枠組みを理解することは出来る。だが、この文章でウィトゲンシュタインが本当は何を言いたかったかという「内容」を理解することは難しい。文章における易しさと難しさは、その「内容」を受け取ることの易しさと難しさに関わっているように僕は感じる。

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by ksyuumei | 2006-08-25 09:49 | 雑文

感情のロジックと本当のロジック

今週のマル激を聞いていたら、宮台氏の言葉で「感情のロジック」というものが聞こえてきた。これは面白い表現だなと思った。感情を否定して、事実と事実のつながりの整合性を見るのがロジックのはずなのに、感情と直接結びついたロジックがあるという指摘なのだ。

ロジックによる判断は、その判断の理由というものが、論理的に説明出来る。小泉さんの靖国参拝が間違っているという判断は、サンフランシスコ講和条約とか靖国神社がもっている私的宗教としての属性とか、それらの事実を基にして間違っているという判断がなされる。ところが「感情のロジック」による判断は、これらの論理的整合性が全てなくなってしまう。

宮台氏によると、「感情のロジック」の判断基準は、「喜怒哀楽」と「快不快」というものだ。本当のロジックでは、その結論が論理的に正しいかどうかということが問題になるが、「感情のロジック」では、正しいかどうかは問題にならない。と言うよりも、そのような結論を出すことが出来ない。あえて言えば、「いいか悪いか」、それも気分的に「いいか悪いか」という判断をするものが「感情のロジック」だと思われる。

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by ksyuumei | 2006-08-24 14:53 | 論理