<   2006年 07月 ( 17 )   > この月の画像一覧

「北朝鮮」のミサイル発射を論理的に理解してみる 1

哲学の一部でもある論理学の応用として現実の出来事を整合的に理解する努力をしてみたいと思う。それは、論理的に可能な命題を考えられる限り探し出して、現実をその可能な場合のどれかだと考えるのがまず第一歩だ。それを決定するのは難しいと思うが、もっとも可能性が高いものが現実化したのだと受け止めることで、その事実を整合的に論理的に理解する道を見つけたいと思う。

まずは大前提として

1 「北朝鮮」は合理的に説明のつく行動をしている。

というものを置きたいと思う。この前提がないようなら、論理的に考えることも無意味になってしまうからだ。人間の行動は、理解しがたいと言うものがあるかも知れないが、まったく理屈に合わないメチャクチャなものというのはないという前提だ。たとえその理屈が間違えていても、行動する人間は、何らかの理屈に従って行動するというのを大前提に置いて考えたいと思う。それが間違えている理屈なら、その間違いも整合的に理解出来るという前提を取る。

More
[PR]
by ksyuumei | 2006-07-13 10:42 | 雑文

ウィトゲンシュタイン的世界と論理空間--哲学の応用について

学生の頃はさっぱり分からなかったウィトゲンシュタインの哲学が少し分かりかけてきた。これは、はてなダイアリーの方のわどさんのコメントをヒントにして気づいたのだが、年をとるとそれなりに経験を積むことが出来るので、見えるものが増えてきたことによって理解出来ることも増えてきたのではないかと感じた。同じようなことを内田樹さんも語っていたが、年をとると、それだけで分かることも出てくるような気がする。年をとると言うことはいいことだ。

若い頃は、ウィトゲンシュタインが語る「世界」というものが、まったく抽象的なイメージしかなく具体的な自分の周りの「世界」との結びつきがなかったので、たぶんウィトゲンシュタインが語る「世界」と僕が考えていた「世界」とに接点がなく、ウィトゲンシュタインが何を言っているのかさっぱり分からなかったのだと思う。

今ではそれが少し分かるようになったのは、その見ている対象が重なっていると感じているからだ、これはもしかしたら大いなる誤読かも知れない。しかし、誤読が出来ると言うことは、そこに書かれていることを、たとえ間違った理解であろうとも理解は出来たと言うことなので、全然理解出来ていない状態よりはいいのだと思う。誤読も正しい理解への第一歩に出来ればそれなりに役に立つだろう。

More
[PR]
by ksyuumei | 2006-07-12 09:56 | 哲学一般

真理とは何か

かつて数学少年だった頃、何故に数学だけにそれだけの愛着を感じたのかを考えてみると、数学だけが確かな真理を教えてくれると感じていたような気がする。数学以外の知識は、それが正しいものであるかを自分で判断することが出来そうになかった。教師の言うことをそのまま受け入れるしかないような知識を教えられているような感じがしていた。

英単語の意味が何であるかを自分で発見することは出来ない。たとえ教師に習わなくても辞書に書いてあることを信じるしかない。知識として与えられることは、元をたどると信頼性の高いものを結局は信じるしかないというふうに感じていた。だが数学だけは、教師に習うことがなくても、自分で、その考えたことが正しいかどうかを判断することが出来る唯一のものだった。

僕は知識をそのまま信じることが出来ない人間だったので丸暗記というものが出来なかった。人に何かを習うと言うことが恐ろしく下手な生徒になっていた。仕方がないのでほとんどすべてのことを独学で勉強することになった。大学の数学科へ進んだが、講義を聞いているのは自分で理解出来る範囲までで、理解出来ない事柄に話が及ぶようになると、自分で参考書を開いて勉強し直すようになった。だから、僕は学生でいた間はノートの類は一切取ったことがなかった。分かる間は話を聞くことに集中していたかったし、分からなくなってからはノートを取るよりも参考書で勉強した方がいいと思ったからだ。

More
[PR]
by ksyuumei | 2006-07-11 09:55 | 論理

ソシュールの言葉に対する解釈

シカゴ・ブルースさんから「幼児の頭の中は星雲のようなものか(修正版)」というトラックバックをもらった。ここでシカゴブルースさんは、ソシュールの次の言葉


「それだけを取ってみると、思考内容というのは、星雲のようなものだ。そこには何一つ輪郭の確かなものは無い。あらかじめ定立された観念はない。言語の出現以前には、判然としたものは何一つないのだ。」
(『一般言語学講義』)


に対して批判を展開している。これを見ると、視点の違いによって文章の読み方がまったく違うものになると言うことを感じる。「言語の出現以前」という言葉が何を意味するかという点で、僕はシカゴブルースさんとまったく違う受け取り方をした。シカゴ・ブルースさんは、これを文字通りまだ言語が話されていない、人間が言語能力を獲得する以前のこととして解釈したように感じる。

More
[PR]
by ksyuumei | 2006-07-08 10:38 | 言語

論理とは何か

僕が論理に関心を持ったのは、論理的に厳密さを求めた数学がさっぱり分からなくなったからだった。高校までの直感を基礎にした数学は分からなくなると言うことがなかった。対象がどんなものであるかが分かれば、そこで展開されている論理は整合的なものとして直感されたというふうに感じていた。

しかし、大学に入ってみて、直感で抜け落ちていた部分を論理で補うような議論を学んだとき、その論理が必ずしもすぐに腑に落ちると言うことがなかった。極限においても「限りなく近づく」というイメージは直感的につかめたが、任意の正の数でそれ以下に制限出来ることが極限の厳密な論理になると言うことはまったく直感出来なかった。

数学は論理的に考察を展開していくが、論理はあくまでも道具として利用するもので論理そのものを数学で語ってはいなかった。具体的な計算が正しい答を出すかどうかは、実際にその計算をしてみれば分かるのだが、数学の理論全体が正しいかどうかは、個別的な計算をいくら繰り返しても確証が得られない。それは無限の対象を扱っているからだ。

More
[PR]
by ksyuumei | 2006-07-07 09:45 | 論理

「ソシュール的な発想」ということで何を言いたかったのか

シカゴ・ブルースさんから「「言語なしの思考」」というトラックバックをもらった。それを読むと、なるほどと思えるところがたくさんあり、自分が考えていたことの曖昧さがよく分かると同時に、本当は何が言いたかったかということも少しずつ見えてきたような感じがする。言葉というのは多義性を持っていて、自分の中に生まれた考えを正確に伝えるのはとても難しいものだということを改めて実感する。

今僕は「言葉」という表現をしたのだが、これは「言語」と表現しても良いような感じもする。しかし、何となくニュアンス的に「言葉」と言いたい感じがしてそのように表現した。だが、このニュアンスを正確に伝えるのは難しい。「言語」と言ってしまうと、何か学術用語的で、きっちりとした定義の下に使わないとならない気がしてしまった。何気ない日常的な表現も含むというニュアンスを出すには、「言葉」という表現の方がふさわしいような気がした。

シカゴ・ブルースさんがトラックバックのエントリーで指摘している、僕が使った「言語」という表現も、実は「言葉」と言っておいた方がニュアンス的には良かったかも知れない。あの文章ではどうして「言語」という表現にしたのか、自分の心理を考えてみたいとも思う。

More
[PR]
by ksyuumei | 2006-07-06 10:09 | 言語

「無意識」は存在するのか

「無意識」という対象は、人間の心を解明する上で非常に重要な役割を果たしたものとして、その発見が賞讃されているものだ。人間の言い間違いや物忘れ、その他理解が難しい行動に対して、それが「無意識」というものを原因としていると解釈すると、合理的な理解が出来るようになる。フロイトは、この考えによって、精神疾患の治療にも効果を上げたといわれている。

「無意識」というものは、実際的な有効性を持った考え方ではあるが、これの存在を突き詰めて考えてみるとなかなか難しいものがあるのを感じる。「無意識」という対象を設定して、その作用として人間の行動が影響を受けると考えると、人間の行動をより深く理解出来るように見えるが、そう解釈することが出来ると言うことから「無意識という心の領域が存在する」と主張していいものかどうかに確信が持てない。それは「存在する」という判断の対象になるものではないのではないかという思いがわいてくる。

「存在する」という判断の対象が、物質的なものであればそれは反映という考え方で受け止めることが出来るだろう。何らかの過程を経て我々の五感に反映する物質的存在は「存在している」という判断が出来る。それは錯覚である場合もあるだろうが、「錯覚である」という場合が解明出来れば、「錯覚でない」反映を確認することで「存在している」という結論が導けるだろう。

More
[PR]
by ksyuumei | 2006-07-04 10:31 | 哲学一般