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言語なしの思考は出来るか

僕は、三浦つとむさんの言語論で言語について学んだこともあり、言語という対象はあくまでも表現されたものという前提を持っている。それは空気の振動による音声であったり、文字による表現であったり、形式は違うことはあるけれども、ある物質的存在を鏡として成立するもので、唯物論的に扱うことがふさわしいと思っていた。

だから、ソシュールが言語規範を対象にして言語を考えようとしているという批判を見たとき、表現ではない言語規範を言語として扱うことは間違いではないかと思ったものだ。しかし、言語の現象としての言語規範が言語学の対象として考察されるのはそれなりに理由があることだとも感じる。

三浦さんは言語学の前半で認識に対する考察に多くを費やしている。これは、言語の成立する基礎として認識というものが重要であるという判断からだ。認識そのものは言語ではないが、言語が表現する基になるものとして認識を解明しておかなければ、言語の本当の姿は分からない。

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by ksyuumei | 2006-06-30 10:18 | 論理

唯物論・観念論という哲学的考察と日常感覚との関係

唯物論・観念論というような高度に抽象的な対象について考えていると、それが日常感覚とは別世界のことを考えているような気がしてきてしまう。これを何とかごく普通の現象と結びつけて、哲学的な空想論として終わらせるのではなく、役に立つ知識として利用したいものだと思う。

僕はいままでも両者の概念を誤謬論に利用するという意識で考えていた。究極的には唯物論が正しく、観念論が間違っているという前提を持っていたので、ものの見方が唯物論的になるような視点を見つけ、すべてを唯物論で解釈するという方向を探していた。それが観念論的な間違いを避ける一つの方法だと思っていた。

しかし究極的な世界のとらえ方に対して、正しいとか間違っているとか言う判断は出来ないのではないかという気がしてきた。それは考えれば考えるほど分からなくなってくるもので、唯物論が正しいというのも、客観的な判断ではなく一つの解釈に過ぎないのではないかと思えてきた。つまり唯物論とか観念論とか言うものは、真理性を判断する対象にするのではなく、一つの発想法として利用する方が有効なのではないかと感じてきた。

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by ksyuumei | 2006-06-29 10:07 | 唯物論・観念論

「馬は動物である」という判断は唯物論的か

唯物論的な意味で認識というものを考えると、それは物質的存在が人間の脳に像として反映してその存在を捉えるというものになる。唯物論はまず物質的存在の方を第一義に考えるので、認識はその存在の反映というものとして捉える。決して、人間の方に何か認識能力というものがあって、その能力が働く作用としてそこに存在を作り出したということは考えない。

この反映というものを素朴に考えてしまうとそこにパラドックスが生じてしまうように感じる。だからこそ素朴な唯物論は観念論によって否定されるという歴史があったのだと思うが、素朴な唯物論を克服して、そのパラドックスを解決する道というのはなかなか難しいのではないかと思う。これをもう一度よく考えてみようと思う。

素朴な反映は我々の感覚を基礎にしている。それは、視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚など様々な感覚で捉えられるものがまず反映として捉えられる。例えば馬を見たとき、それが4本足であることは視覚によって捉えられる。馬の足が4本であるという属性は、馬という存在の視覚的反映として、存在が基礎になって得られた唯物論的な判断だと言えるだろう。

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by ksyuumei | 2006-06-27 10:15 | 唯物論・観念論

具体的な対象に対する論理と抽象論の展開

昨日本屋で仲正昌樹さんの『ラディカリズムの果てに』(イプシロン出版企画)という本を買った。この本の帯には


「おい!
 そこの“ラディカル”な左翼(バカ)!
 うるさいから黙ってろ。」


という過激な言葉が書かれている。自分のことを「左翼」と規定している人から見ると、自分の悪口を言われているようでかなり気分が悪くなるのではないかと思う。これは、「左翼」という言葉が指し示す対象の範疇に自分が入るのではないかと、この言葉の意味をそう受け取ってしまうときに起こる気分の悪さだろうと思う。

僕も、かつては三浦つとむさんのマルクス主義に共感し、社会的な再配分は正しいと思っていただけに、一応左翼の中に入りそうな感じがする。しかし、僕は仲正さんのこの言葉を読んでもさほど気分の悪さを感じない。この悪口が自分に対するものだとは感じていないからだ。

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by ksyuumei | 2006-06-26 10:01 | 論理

論理の飛躍について --無限を扱う場合

実無限と可能無限について考えたとき、無限の全体を把握したと考える実無限については、いろいろと困ったことが起こることが見つかった。いわゆるパラドックスと呼ばれるものだ。パラドックスでなくても、有限存在である人間的な感覚からすると奇妙に感じるものがある。

数学では極限の問題として次のようなことを考える。

  0.9999…… = 1

……の部分は、9がどこまでも続くことを意味している。これは、感覚的には1にどこまでも近づいていく過程を示しているように感じる。しかし、数学的にはこれは1とイコール(=:等号)で結ばれる。これはどうも感覚的にしっくり来ない。

これが感覚的にしっくり来ないのは、どんなに眺めても、ちょうど1にぴったり重なる場面が見えないからだ。それは限りなく近づいているという運動をしているので、どこかで切り取ってしまうと、運動が停止して、上の数字が表現している状態が失われるからだ。

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by ksyuumei | 2006-06-24 10:35 | 論理

世界観や立場と真理性の問題

僕は若い頃に三浦つとむさんに出会い、その見事な論理の展開に魅了されて、すっかり唯物弁証法の信奉者になった。これこそが現実の真理を発見する方法だと思ったものだった。数理論理学も真理に至る一つの道だとは思ったが、それは数学という限られた対象の世界での真理性を求めるものだと思っていただけに、広く世界を対象にして現実の物事に対する真理性を判断する道具として唯物弁証法は素晴らしいものだと思った。

それと同時に、三浦さんが批判する観念論や形而上学などは、結果的には誤謬に導くものとしてあまり深く考えることなく思考の対象からは捨ててきたように思う。その具体的展開としての構造主義批判やソシュール言語学批判なども、三浦さんの文章を読むことによって、その批判的側面を理解したつもりになって、これも深く考えることなく捨てられるものとして受け取ってきたように感じる。

しかし、観念論・形而上学・構造主義・ソシュール言語学といったものは、今の時代の観点からは批判される部分が多いとしても、それが主流を占めた当時は、その時代の最も優れた人々を魅了した考え方だったのではないかと思う。単純に時代が進んでいなかったから間違えたのだという理解ではどうもしっくり来ないものを感じる。実はたいへん魅力的な優れた考え方の近くに誤謬の落とし穴があるのではないかという感じもする。

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by ksyuumei | 2006-06-22 09:46 | 哲学一般

論理の適用範囲を広げることの危うさと普遍的真理を求める哲学の魅力

仮説実験授業の提唱者である板倉聖宣さんは、「バカの一つ覚え」という言葉で科学に対する絶対的な信頼感を語るときがある。それは常に成立する絶対的真理であり、常に同じ主張が出来ると言うことから、「バカの一つ覚え」のように繰り返せるものだという主張だ。

これは科学というものが、「科」に限られた限定的な真理だからこそ言えることだと思う。その真理の範囲を逸脱しなければ、限定された条件の下では絶対的に正しいという命題が科学というものだと捉えている。

しかし一方では、板倉さんは、森羅万象を対象にする哲学の魅力も語っている。板倉さんが考える哲学は、森羅万象を対象にして、世界をあらゆる角度から見る発想法のようなものとして捉えているようだ。森羅万象を対象にすれば、それは限定的な知識ではなくなるので科学としては成立しない。つまりある条件の下での絶対的真理とはならない。

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by ksyuumei | 2006-06-21 10:16 | 哲学一般

素朴な直感とパラドックス

僕が論理に関心を持ち始めたのは、数学を本格的にやり始めたときに、その基礎がさっぱり分からなくなったことがきっかけだった。素朴な直感に支えられて数学をしていた高校時代まではほとんど躓くことがなかったのに、厳密に数学を考え始めたとたんにその厳密さが理解出来なくなった。

厳密にものを考える訓練として僕は記号論理を勉強し始めた。そしてその時に、数学の基礎においても厳密に考えれば考えるほど奇妙なことが見えてくるという「パラドックス」の世界を知ることになった。

集合論におけるラッセルのパラドックスは、ものの集まりを集合とするという素朴な直感的定義の中に含まれる論理の危うさを教えてくれた。集合というのは、とりあえずそこに何が集まっているかが明確に規定出来るもの、すなわちそこに属するか属しないかが明確であれば集合として対象に出来るというのは、素朴な直感としては正しいように思われる。

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by ksyuumei | 2006-06-20 09:52 | 論理

具体的な二項対立とその解決の方向性

二項対立というものを抽象的に捉えると、それが複雑な構造を持っていて、簡単にどちらか一方を否定するだけでは解決しないものがあるということが分かる。その場合は、否定したと思った一方の側が、意外なところでよみがえって、その時は正しいと思っていた命題が、固定化したことによって間違えると言うことが起こったりする。

認識において、観念的な知識(言語など)によって現実を解釈していくというのは、物質と精神の関係から言うと、精神が先行して物質の存在を確認していくように見える。物質的存在がそこにあるから、それを感覚で感じて精神に反映することで物質の存在が先行しているとは必ずしも言えないような場合が想定出来る。原子の存在の認識などにそれを感じる。

原子は感覚では捉えきれない存在なので、それを観念によって構成するという前提がないと、原子の存在そのものを認識することが出来ないように思われる。ノーミソの目で原子を見るという観念的な前提なしには、原子はいつまでも物自体にとどまると言えるのではないだろうか。

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by ksyuumei | 2006-06-19 09:43 | 雑文

二項対立の止揚としてのヘーゲルの弁証法

僕は、弁証法の論理を三浦つとむさんを通じて学び、それが発想法として有効だという板倉聖宣さんの指摘が気に入っていた。三浦さんが語るヘーゲルについて学ぶことはあっても、直接ヘーゲルに関して学ぶことはしてこなかった。それは、ヘーゲルの言い回しが難しくてよく分からなかったからというのもある。

三浦さんの弁証法の解説は、あくまでも現実の具体的な世界を分析することによって、現実の弁証法性を理解することによって、現実存在の構造としての弁証法の論理を学ぶというやり方だった。これはとても分かりやすい方法だった。現実の対象が自分にも分かるものであれば、それをどのような視点で見ればどこに弁証法性が見えるかということが分かったからだ。

これは弁証法そのものを学ぶには分かりやすかったが、現実を学ぶことで済ませられるので、歴史を学ぶ必要がなかった。だから、三浦さん以前のマルクスの弁証法やヘーゲルの弁証法というものについては、漠然とイメージのようなものはあったが、それがどのようなものであったかという具体的な内容をつかむことは出来なかった。

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by ksyuumei | 2006-06-15 10:13 | 論理