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「自由」について考える

今週配信されたマル激には衆院議員の保坂展人さんが出ているのだが、保坂さんの話の中で非常に興味深いものがあった。それは、内申書裁判で有名な保坂さんが、教師との会話の中で聞いたというものだった。

保坂さんは、非常に主体的な人間だったので、かなりの強い自己主張の持ち主だったと思う。その自己主張に対して、教師の側は、保坂さんが何を考え・何を思おうと、それ自体は保坂さんの自由だという。思想・信条の自由だというわけだ。しかし、それを表明して他の人間に影響を与えるのはいけないというのだ。ビラを配ったりする行為はいけないというのが、教師の主張だった。

これは、教師である僕が言うのは変な感じもするが、この教師の「自由」に対する考え方はおかしいと思う。この教師は、心の内面としての思想・信条の自由は認めているけれども、それと深い関連を持っている「表現の自由」を認めていないからだ。「表現の自由」のない「思想・信条の自由」などと言うものが考えられるだろうか。

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by ksyuumei | 2006-05-09 10:45 | 雑文

国家権力の暴走に対する「恐れ」の感覚

昨日は「人権感覚」というものを身につけることの難しさを考えたが、日本においては国家権力に対する感覚を磨くこともたいへん難しいものになっているように思われる。自由や民主主義を、国家権力との戦いによって勝ち取ってきた西欧なら、国家権力はよく監視していないと暴走するという感覚は普通のものだと思われる。しかし、日本では、水戸黄門に代表されるように、「お上」は正しい判断で民を救うものというイメージがあるせいだろうか、国家権力が暴走するという恐れよりも、正しい判断をお願いするという意識の方が強いのを感じる。

死刑廃止論の抽象論の前提としては、死刑制度というような強大な権力を、その時の統治権力に与えることの恐れの感覚がある。統治権力が民衆のことを配慮して、その時のもっとも望ましい判断を常にしていると考えるのは幻想だ。むしろ、その時の利権が大きく影響して、もっとも強い力を持っているものに対して、その利益を誘導するような判断をするものだという理解が正しいと思う。

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by ksyuumei | 2006-05-08 09:55 | 社会

「人権」について考える(続き)

さて、「人権」についてもう一つ大事なことが中山さんの本には書かれているので、それを考えてみたいと思う。それは「人権感覚」と呼ばれるものだ。「人権」というものを、その歴史的な成立過程を理解することで、人間であれば誰でも持っている当然の権利だと言うことを、その「正しさ」から導くことが出来た。

「自由権」「参政権」「生存権」「社会権」などというものが正しいというのは、入れ替え可能性というものを想定することによって得られるのではないかと思う。もし、この諸権利が、「人権」として保障されていなかったとしたら、自分は、その権利を持たない状態にいたとして納得出来るだろうか。

この諸権利を自分が持っていなかったら、社会生活を営む上で大きなハンディを持つことになるだろう。そのハンディは、ある種の条件の下であれば仕方がないとあきらめることの出来るハンディだろうか。これは、普通の状況であれば、ハンディを持たせることが不当になるだろう。このハンディを許さないという感覚が、人間が当然持っているはずの「人権」というものの感覚になるのではないだろうか。

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by ksyuumei | 2006-05-07 18:06 | 社会

「人権」について考える

死刑廃止の問題を考えるとき、「人権」というものが大きく関わってくる。死刑に反対することは、加害者の人権を守ることにはなるが、被害者の人権を無視しているのではないかという疑問が提出されることがあるからだ。このことに関しては、宮台真司氏なども的はずれな意見だと指摘していたが、中山千夏さんの『ヒットラーでも死刑にしないの?』という本では、この「人権」について詳しく論じている。

「人権」というのは、辞書を引くと「人間が人間として当然に持っている権利」と書かれている。これは、分かったようで分からない定義だ。これは、同語反復のようにも見えるので分からない感じがする。「人権は人権だ」と言っているような感じがしてしまう。何を当然と考えればいいのかが分からないと、この定義は分からない。「人権」の内容をもっと具体的に考えるには、「基本的人権」という言葉を見た方がいいかも知れない。これは辞書によれば


「人間が人間として当然もっている基本的な権利。近代初頭では、国家権力によっても制限されえない思想・信教の自由などの自由権を意味したが、二〇世紀になって、自由権を現実に保障するための参政権を、さらに国民がその生活を保障される生存権などの社会権をも含めていう場合が多い。日本国憲法は、侵すことのできない永久の権利としてこれを保障している。人権。基本権。」

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by ksyuumei | 2006-05-07 11:58 | 社会

凶悪犯罪の加害者に対して死刑を望まない被害者遺族がいた

「ふらっと 人権情報ネットワーク」というページに「加害者は許せない だけど死刑には反対です」という、犯罪被害者の遺族である原田正治さんのメッセージがあった。これは、犯罪被害者の遺族の直接の声として、死刑廃止を考える人にとっては貴重な情報になるのではないかと思う。

原田さんは、弟を保険金殺人で殺された犯罪被害者の遺族だ。加害者に対して、一審での裁判では「極刑以外には考えられません」と証言している。「殺してやりたいほど憎い」と思っていたそうだ。ここまでの感情の流れは、死刑を肯定する人々が語ることと重なる。被害者の遺族の感情としては、そうだろうと誰もが想像することが起きていた。

しかし、原田さんはここからが違ってくる。確かに最初は、感情に流されて、誰もが想像するような対応になっていたが、時間とともにそれが変化していったのだ。変化の原因はいろいろなことが考えられる。興味本位で取材するマスコミにうんざりして、期待通りの行動をすることに疲れたということもあるかも知れない。

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by ksyuumei | 2006-05-06 22:54 | 社会

死刑廃止に対する感情的反発にどう答えるか 2

感情の問題というのは、感情で判断することがふさわしいというものがあるだろうと思う。形容詞で表現されるような問題は、だいたい感情で判断してもそれほど間違いはないのではないかと思う。

例えば好き・嫌いというものに関しては、何が好きでも、何が嫌いでもそれほど大した影響はない。自分の好みで選べばいいだけの話だ。好きなものは好きでしょうがないし、嫌いなものは嫌いでしょうがない。昨日は、知り合いとのある会話で日ハムの新庄が嫌いだという話題があった。あの目立ちたがり屋のところが嫌いらしい。

僕などは、プロとしてインパクトのある行動で目を引くのは、ある意味ではプロ意識の現れだと思っているので、むしろ好感を持っていただけに、感覚の違いが面白いなと思った。だから僕が新庄が好きで、知人が新庄を嫌いでも、そのことはお互いの関係にはまったく関係がない。好みが違うのだなということを感じるだけだ。

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by ksyuumei | 2006-05-06 11:04 | 社会

死刑廃止に対する感情的反発にどう答えるか 1

中山千夏さんは、第二章で「ヒットラーでも死刑にしないの?」ということを論じている。これは、本の題名にもなっていることなので、おそらく非常に重要なものと考えているのだと思う。死刑廃止論を、理屈では認めながらも、感情がそれを認めないという、感情の一つにこのようなものがあるに違いないからだ。

中山さんの講演があったときに、話がこの死刑廃止論に向かうと、それに対して「深遠でない」つまりごく普通の話だといって不満を言ってくる人がいるらしい。その人の心理を分析した中山さんの次の言葉は、僕は鋭いところを突いているなと思う。


「これは、オトナがコドモに対して、または男が女に対して、よく使うやり方である。その人の主張を聞きたくないとき、ものの言い方とか態度とかを批判して、主張そのものを無視するのだ。そして、そんなやり方をするのは、主張に対して反発があるのに、うまく簡単に反論出来そうにない、という時だ。」

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by ksyuumei | 2006-05-05 10:52 | 社会

死刑は殺人か 2

中山千夏さんの死刑廃止論は、犯罪による殺人も死刑による殺人も同じものだと言うことを論拠に、犯罪による殺人が許されないものであるなら、同じように死刑による殺人も許されないことだという展開をする。これは、前提となる、「殺人」という点では両者は同じということを認めるなら、論理展開としては間違いがない。

両者が同じ「殺人」であれば、一方が許されるなら他方も許されなければならないし、一方が許されないなら他方も許されないということで同じでなければならない。一方が許されない不当なもので、もう一方が許される正当なものであると主張するなら、その両者が同じものではないということをいわなければならない。

そこで、前回は、法律によって正当な手続きが取られることが両者の違いだということを検討したが、これは、現在の段階ではそうであるが、法律を変えるなら正当な手続きそのものがなくなるので、行為としての両者の違いは、手続きの正当性からは導かれないということを見た。行為としての違いが言えなければ、行為としては同じになる。つまり、行為としては死刑に正当性はないと結論しなければならなくなる。

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by ksyuumei | 2006-05-04 22:57 | 社会

死刑は殺人か 1

中山千夏さんの死刑廃止論である『ヒットラーでも死刑にしないの?』(築地書館)という本を読んでいる。僕は、総論としての抽象論である死刑廃止には賛成だ。抽象的な論理としての結論では、死刑は廃止する方向で考えることが、民衆としての立場としては正しいと思う。民主的に考えれば、これは多数の人の利益になることとして正しいと僕は思う。

しかし、論理としては正しいと思っても、感情的な引っかかりがあるだろうことも理解出来る。そこで、中山さんが語る、この感情的な引っかかりの部分を考えてみようと思う。まず、第一章で語られているのは、死刑と殺人は同じものかというものだ。これに対しては、犯罪としての殺人は不正であり、死刑として凶悪犯を殺すのは、正義の実現として正しいのだと考える人がいるかもしれない。この感情の引っかかりを、論理でいかに埋めるかと言うことを、中山さんの文章をヒントに考えてみたいと思う。

殺人を辞書で引いてみると、「人を殺すこと」と出ている。漢字を文字通り解釈した意味になっている。この定義に機械的に当てはめてみれば、死刑も、死刑囚を殺すのだから「人を殺すこと」であり、殺人だと言うことになる。しかし、この解釈では、現象を短絡的につなげただけで、本質を見ているとは言えないだろう。

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by ksyuumei | 2006-05-04 10:54 | 社会

「普遍性」の認識

内田樹さんが「2006年05月02日 村上文学の世界性について」というエントリーを書いている。僕も村上春樹の小説が好きで、有名なものは一通り読んでいる。しかし、ファンを自認するほど読み込んではいない。もっとも好みに合うのは『ノルウェイの森』で、これを読んだのが最初だっただろうか。動機は、ビートルズの歌と同じ題名だと言うことだった。

内田さんがここで書いていることは、村上文学の解説としても面白かったし、一応はそれを読んだことがあるので、書かれていることについてもなるほどと思えることだった。しかし僕には、文学の話ではなく、それをもっと一般化したものとして


「存在するものは存在することによってすでに特殊であり、存在しないものだけが普遍的たりうる」


という言葉が強く印象に残った。村上文学は、この「普遍性」を表現しているからこそ世界性を持つという解説も説得力あるものに感じた。

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by ksyuumei | 2006-05-03 09:53 | 内田樹