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告発のための告発

ブログになる前の楽天広場では、かつて著作権法の違反を摘発することが流行っていた頃があった。当時はまだインターネットも大衆的な開放がされたばかりの頃で、よく知らなかったり慣れていなかったりする人たちが、著作権のある映像を無自覚に自分の日記に貼り付けていたりしていた。

それに対して、啓蒙する意味で親切に教えているのなら、この著作権法違反の摘発も、僕はそれほど違和感を感じなかったと思うが、どうもそれは啓蒙的ではなく、むしろ摘発して告発すること自体が目的ではないかと思えるようなものが多かった。

他人の欠点を指摘して、自分がそれを諭すような立場に立ったときに快感を覚えるという種類の人間がいるのだなとその時僕は思った。そのような快感を感じる人間にとっては、著作権法というのはまったく便利な法律だという感じがした。何しろ違反かどうかは極めて分かりやすい。だからその指摘は簡単に出来るし、何しろ法律だから、自分の方に絶対的な正しさがあることが証明出来る。

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by ksyuumei | 2006-05-20 09:43 | 雑文

フェミニズムの主流派はどこにいるのか

極論としてのフェミニズム批判をしたところ、いくつかのトラックバックをもらったが、僕がよく訪れる瀬戸智子さんのブログを除いては、それが過剰反応としか思えないトラックバックだったので少々驚いている。過剰反応は、いわゆる「ネットウヨ」と呼ばれる集団の特性かと思っていたのだが、フェミニズムを論じる人間にもそのような過剰反応があるようだ。この反応で、僕はフェミニズムというものにますますうさんくささを感じるようになった。過剰反応というのは、容易に反対の極に振れる可能性があるからだ。

もし自分の主張がまともなフェミニズムだと思うのなら、僕の批判などは、極論としてのフェミニズムを批判したものなのだから、それと自分とは違うと言ってしまえばそれですむのではないかと思う。それをどうして、極論の批判に対してまで、フェミニズム一般への批判だと受け取るのだろうか。自分の理論の中に、僕の批判に相当するものが入っていたのだろうか。

僕が師と仰ぐ三浦つとむさんはマルクス主義者だった。今ではマルクス主義は完全に死んだと言ってもいい状態になっている。ソビエトの崩壊によって、マルクス主義を基礎としていた国家がその理論の誤りを証明したからだ。マルクス主義はソビエトが崩壊する前から様々な人に批判されていた。反共的な極端なものから、三浦つとむさんのように同じ陣営からの批判もあった。異なる立場からの真っ当な批判としては、ソビエトの崩壊を予見していた小室直樹氏がいるそうだ。

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by ksyuumei | 2006-05-20 00:28 | 雑文

フェミニズムのうさんくささ

弁証法の論理には「両極端は一致する」という法則がある。極端というのは、一般論的に考えると、現実に存在する物事をある一面からしか見ないということになる。本来なら多様な面を持っていて、多様だからこそ、視点を変えれば矛盾した結論も導かれてしまう現実存在を、一面からしか見ないのであるから、これは他面を無視した誤りに導かれる。

両極端からの主張というのは、それが誤りに導かれるという点で共通しているが、この誤りが論理的には一致する結論にまで到達するというのが、弁証法でいう「両極端は一致する」ということだ。これは面白い法則だと思う。極論を主張する人間は、それが極論であることによって、実は否定したい対象を肯定してしまうという誤りに陥ってしまう。

この極論による誤りは、視点を固定してしまう面があるので、形而上学的誤謬とも呼ばれている。これは、批判の出発点の正しさを持っている考察が陥りやすい誤謬なので、良心的な人々は十分注意しておかなければならないだろう。善意だけでは論理の正しさはもたらされない。その善意が確かなときは、論理的な誤謬があっても善意の正当性でそれが無視される場合もある。「地獄への道は善意によって敷き詰められている」という現象がその時に起こるだろう。

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by ksyuumei | 2006-05-19 09:11 | 雑文

しごきの有効性について

ちょっと前に戸塚ヨットスクール事件で服役していた戸塚宏氏が刑期を終えて出てきたというニュースがあった。そして、その後にアイ・メンタルスクール(NPO法人)事件というものが起きて、これも何か戸塚ヨットスクール事件に似たような印象を人々に持たせたようだ。

両方の事件に共通しているのは、引きこもりや家庭内暴力といった問題を抱えた青年を教育するという目的を持っていたことだ。これらの問題には、残念ながら有効な解決手段がなく、当事者として困り果てていた親にとっては、戸塚氏などが救世主のように見えていたというのも共通している。

これらの教育が、一定の効果を持つ場合もあっただけに、その評価というものが難しい面を持っている。戸塚氏の持論である「体罰も教育だ」というものは、東京都知事の石原慎太郎氏でさえも支持しているというのを聞いたことがある。アイ・メンタルスクール(NPO法人)で、同じような事件が起こってしまったというのは、未だにこのような問題には有効な解決法がなく、少々乱暴であっても有効性を持っている方法に頼ってしまうと言うことになってしまうのだろうかという残念な思いが残る。

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by ksyuumei | 2006-05-18 10:05 | 雑文

「権利」について考える

死刑廃止論の考察においては、「人権」という概念が非常に重要なものとして出てきた。その時に「権利」というものについても少し考えてみたのだが、この言葉は、僕の職業柄「教育を受ける権利」というものとして具体的に関わってくる。

「人権」という言葉は、その「権利」を有する条件として「人間である」と言うことがあればいいものとして登場していた。「人間である」と言うことが証明されるなら、必ず「人権」というものが保障されるというのが人権の思想だ。SF的になるが、将来はロボットが人間であるかということが問題になるかも知れない。ロボットに人権があるかと言うことが論じられる時代が来るのは、SFの世界だけではなく現実になるかも知れない。

この「権利」という言葉を考える上で役に立つものとして、中山千夏さんは英語の「right」を考えることが有効なのではないかと提案していた。「right」には「正しい」という意味があり、権利の行使の正当性は、その権利が存在することの「正しさ」に根拠を置いていると考えるわけだ。

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by ksyuumei | 2006-05-17 10:40 | 雑文

セクハラについて考える

僕は、昨日のエントリーで筆坂さんの『日本共産党』(新潮新書)を取り上げて考えてみたのだが、その中で、筆坂さんのセクハラ問題を「交通事故にあったようなもの」という比喩をした。この比喩は、かなり微妙な問題を含んでいるのを感じる。

まず、日本におけるセクハラの定義だが、「セクハラ」によれば次のように書かれている。


「セクハラとは、「性的いやがらせ」のことをいいますが、広くは、
「相手方の望まない性的言動すべて」をいいます。

セクハラとなるかは、あくまで平均的な女性がその状況で、そのような
言動を受 けた場合、不快と感じるかを基準に判断されます。

とはいっても、特に繊細で不快と感じやすい人の場合でも、
不快な言動が続けられた 場合にはセクハラとされることもあり、
快か不快かを決めるのはあくまで、そのよう な言動を受けている人
ということになります。 」


これはかなり問題のある定義だと思われる。この定義が一般的に「セクハラ」と言われるものを判断する基準になっているとしたら、これはかなり恣意的に判断される可能性を持っていると思う。

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by ksyuumei | 2006-05-16 09:37 | 雑文

日本共産党批判

日本共産党は左翼陣営にとって巨大な存在である。かつては左翼陣営を代表する社会党が、今では二大政党制としての民主党に吸収されてしまったので、おそらく、影響力の大きさで言えば、左翼陣営としては日本共産党が最大の存在になっただろうと思う。

この共産党に、反対の陣営である右翼陣営から批判が集中するのはある意味では当然のことだと思う。むしろ、右翼に批判されないような左翼など、本物の左翼ではないとも言える。だが、日本共産党は、同じ左翼陣営からも強く批判がされてきた歴史を持つ。この批判は、右翼の批判とは違って、本物の左翼ではないという面が批判されてきたように思う。左翼性がまだ生ぬるいというような感じだろうか。

僕が師と仰ぐ三浦つとむさんも、かつては共産党に所属していて、スターリン批判をきっかけに除名処分になった。その関係からか、三浦さんは、共産党のマルクス主義理論そのものを間違った理論として、「官許マルクス主義」と呼んで批判していた。

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by ksyuumei | 2006-05-15 13:21 | 政治

被害者感情への配慮

死刑廃止論は、被害者への感情の配慮が足りないと言う批判が言われるときがある。加害者に対する報復感情というものがある間は、凶悪犯罪に対して、その罪の重さに応じた死刑もやむを得ないとする考え方だ。

しかし、犯罪被害者の遺族である原田正治さんは、たとえ加害者が死刑になろうとも、その感情的な鬱屈は少しも晴れることはないと言うことを伝えてくれている。やり場のない感情のはけ口は、死刑が執行されることでピリオドを打つわけではないのである。

むしろそのような複雑な感情が、すべて報復感情で理解されることに原田さんは、被害者が少しも理解されず孤独の中で放っておかれているように感じていたようだ。死刑というもので一段落したのだから、その事件を忘れて新たな一歩を踏み出すものと周りに思われていたことに、原田さんは、自分が理解されていないと言うことを感じていたようだ。

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by ksyuumei | 2006-05-12 08:56 | 社会

亀井静香さんの死刑廃止論 2

亀井さんの第三の論点である冤罪の可能性について考えてみたいと思う。これは、死刑廃止論者が必ず取り上げるものであるが、亀井さんは元警察官僚だけに、その語り方にもリアリティを強く感じるものがある。実際に冤罪が作り出される現場にいたと言うことの重さを強く感じるものだ。まずは、事実の指摘として、次のようなものがある。


「警察時代の私の経験から言いますと、被疑者が逮捕され娑婆(しゃば)と遮断された状態になり、縄手錠をされて引きずり回されるようなことになりますと、異常心理、いわゆる拘禁性ノイローゼになってしまうことが現実に非常に多いのです。
 羞恥心も全部見透かされ、すべてを預けてしまうような心理状態です。まるで自分の子どものような心理状態と申しますか、取調官との関係が、王様と奴隷のような心理状態となり、すべて取調官のいいなりになってしまうのです。絶対的権力を握られてしまい、取調官の全くの言いなりになる被疑者がかなり多くいます。」


拘禁性ノイローゼでなくても、権力関係にある人間の間には、「言いなりになる関係」というものが出来るだろうことは、自分の日常を振り返ってみてもそう感じられる。近代民主主義国家の市民意識を高めてきた人は、このような権力関係ではなく、対等で自由な関係こそが人間的だという思いを深めるだろうと思う。

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by ksyuumei | 2006-05-11 09:37 | 社会

亀井静香さんの死刑廃止論 1

亀井静香さんの講演をまとめた『死刑廃止論』(花伝社)という本を買った。「死刑廃止 info! アムネスティ・インターナショナル・日本死刑廃止ネットワークセンター」というページに載せられている、「死刑制度の廃止を求める著名人メッセージ」の中の亀井さんの死刑廃止論に深く共感する部分があったので、それをもっと詳しく知りたいと思ってこの本を買った。

この本を読んで思うのは、その主張がほとんど中山千夏さんと変わらないことだ。中山さんは、いわゆる革新派の議員で、亀井さんは保守本流の自民党議員だった。まったくイデオロギー的には違う二人が、死刑廃止論という点では見事に一致する。これは、死刑廃止論が、イデオロギーを超えた客観的な真理性を持っていると言うことではないかとも思う。少なくとも、抽象論のレベルでは、正しい論理展開をしていけば、同じ結論に到達するのではないかと思う。

亀井さんの講演は、まず「人の命や自然環境を大事にしない社会は、健全な社会ではない」という社会観を表明する部分から始まる。この前提があるからこそ死刑廃止論という結論へ論理的に展開していくのだ。亀井さんは、南米の革命家であるゲバラを尊敬しているという。その心情が、この信念と結びついているのだろうと思う。僕も、「モーター・サイクル・ダイアリーズ」という映画を見て、ゲバラの魅力を知った。

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by ksyuumei | 2006-05-10 09:21 | 社会