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可能性(可能無限)とイズムの暴走性

瀬戸智子さんから「論理学の勉強」というトラックバックをもらった(ライブドアブログで)。コメント欄に書き込もうと思ったのだが長くなりそうな気がしたので一つのエントリーとして立てることにした。

「すべての命題は相対的である。」という言葉の意味を解釈すると、これは、すべての命題には真になる場合もあれば偽になる場合もあるということになる。これは、「すべて」という言葉で語っている世界が、どの世界なのかで違ってくる。

「すべての命題は相対的である。」という命題は、形式論理の世界では成り立たない。形式論理の世界では、一度真だと決めた命題は、永久に真でなければならない。相対性はないのである。必ず偽になる命題は「矛盾」と呼ばれるが、形式論理の世界では「矛盾」が真になることはない。もしそのようなことが起こったら、形式論理の世界そのものが破綻する。

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by ksyuumei | 2006-05-23 01:07 | 論理

「数学屋のメガネさんへの再批判。」に対する反批判 4

さてchikiさんの「数学屋のメガネさんへの再批判。」に対する反批判の続きだが、以前の石原慎太郎氏の言葉を巡るものを、ちょっと補足説明しておいた方がいいと感じた。これを論理の問題とすることに違和感を感じる人がいるかもしれないので、そのあたりのことを説明しておく。

とりあえず、その部分の僕の文章を全文引用しておく。

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by ksyuumei | 2006-05-22 23:21 | 雑文

「数学屋のメガネさんへの再批判。」に対する反批判 3

さてchikiさんの「数学屋のメガネさんへの再批判。」に対する反批判の続きだが、まずは次のようなものから始めよう。chikiさんは、僕の提起を


「極端なフェミニズムの登場→正当なフェミニストが是正しない→誤解の蔓延→自分のような噴きあがりが続出→ムキー」


という単純な図式で解釈しているが、もしこのような単純な図式で受け取っているとしたら、「フェミニズム」という言葉が陥っている強い偏見と誤解を払拭するのはかなり厳しいだろう。

僕は行き過ぎたフェミニズムをいちいち訂正して回れなどと言うことは一言も言っていないと記憶している。そんな風に受け取れるような記述があれば、僕の文章表現のミスだろうと思う。無意識の中にも、そのような考えはないとかなり自信を持って言える。なぜなら、そんなことをしても少しも偏見の解消にならないと思っているからだ。

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by ksyuumei | 2006-05-22 10:33 | 雑文

「数学屋のメガネさんへの再批判。」に対する反批判 2

chikiさんからさっそく反応が返ってきたことを感謝したい。幸いなことに、今忙しいそうなので、この間に、「数学屋のメガネさんへの再批判。」の残りの部分に対する反批判を書いてしまいたいと思う。新しいエントリーで、批判の趣旨はさらに深く分かってきたのだが、それでもやはり疑問は解けない。

chikiさんは、「「たとえ善意から出発した○○であろうとも、それが極論にまで達すれば論理的には間違える」というのはどんな論理にも当てはまる」と書いている。つまり、僕が語ったことはある意味ではごく当たり前のことなのである。書き方が気に入らないということはあるだろうが、ごく当たり前のことに対してどうして過剰反応が起こるのかが僕には分からない。

僕は弁証法の正しさを確信しているが、それも条件を逸脱しない限りでの正しさだという自覚をしている。弁証法だってその適用範囲を逸脱すればいつでも詭弁に転落する。誤謬の可能性はいつでも存在する。それは当たり前のことであって、当たり前だからこそ、誤謬に敏感になって、どこで真理が誤謬に転化するかということを研究しなければならないと思う。

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by ksyuumei | 2006-05-22 09:18 | 雑文

「数学屋のメガネさんへの再批判。」に対する反批判 1

chikiさんからもらった批判(「数学屋のメガネさんへの再批判。」)を読んで驚いた。これは、実に見事な批判だ。と言うと何か敗北宣言をしているようだが、初めてまともな批判をもらったという驚きと、これだけ見事な論理展開を見せてくれたchikiさんに、正直言って非常に尊敬の念を抱いている。しかし、だからなおのこと、納得するまでこれに反批判を送りたいと思う。

chikiさんが、途中で嫌気がさすようなら無視していただいてもかまわないが、これだけ見事な論理を語る相手と議論が出来るならば、こんな素晴らしいことはないと思っている。

まず納得出来ないことの第一だが、「「フェミニズム」をひとつの統一主体であるかのように論じること&求めることの問題点」と語られている部分だ。僕は、あのエントリーで、冒頭に語ったように、行き過ぎたフェミニズムということを考察して、論理的に逸脱する可能性というものを考察している。だから、「フェミニズム」一般について論じたのではないし、一つの統一主体だなどと主張してもいない。

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by ksyuumei | 2006-05-21 23:11 | 雑文

事実としての『フェミニズムの害毒』

僕は、フェミニズムの持つ論理の暴走性というものに注目をし、それに気をつけなければ真理が誤謬に転化するのではないかという、第三者的な視点を提出しているのだが、どうもフェミニズムの側にいる人にはそれがひどく気に入らないようだ。

どのトラックバックを見ても、フェミニズムにそのような論理的な暴走性はないということは書かれていない。フェミニズムはそのような主張はしていないとか、実際にフェミニズムが暴走した実例を提出せよというようなことは書かれていた。

そこで仕方がないので、林さんの『フェミニズムの害毒』から、林さんが暴走した逸脱したフェミニズムが引き起こした害毒だと受け取っていることを事実として提出してみたが、林さんからの引用というのがまた気に入らなかったようで、これも「フェミニズムではない」という言葉が返ってきたようだ。

どうも論理が通じない相手と論理的な会話をするのは難しい。僕が論じているのは、フェミニズムという考え方の暴走性であって、フェミニズムそのものが間違っているという議論ではないのだ。だから、林さんからの引用の事実も、あくまでも、フェミニズムという考えが暴走したら、このように受け取って間違った判断をする人たちが出てこないだろうかと言うことを語っているのである。

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by ksyuumei | 2006-05-21 21:58 | 雑文

行き過ぎたフェミニズム批判としての『フェミニズムの害毒』

行き過ぎたフェミニズムなどもはや存在しない。それはもう終わった問題なのだ、というような意見をちらっと目にした。何を今さらそんなことを問題にするのか、というわけだ。しかし、これはずいぶんとおめでたい無防備な考え方だなと思う。そう考える人は、いい人ではあるのだろうが、手練手管に長けた反動側の攻撃にはひとたまりもなく潰されてしまうだろう。

実際にはフェミニズムというのは、その論理構造からいって、常に行き過ぎる可能性をはらんでいるのである。だから、行き過ぎに注意していないと、うっかり失敗することが必ずある。反動側の人間はその失敗を見逃さず、いつでもフェミニズムを叩けるというチャンスをうかがっているだろうと思う。誤謬に対して鈍感なフェミニズムは、リベラルの信用も落としてしまうことになるだろう。

面白いことに、内田樹さんが『フェミニズムの害毒』の書評を書いているのだがそこにこのような記述がある。

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by ksyuumei | 2006-05-21 17:48 | 雑文

ジェンダーへの疑問

竹村和子さんは『フェミニズム』(岩波書店)の中で、ジェンダーについて語っている。ジェンダーは普通次のように考えられている。


「生物学的な所与の性差と考えられている「セックス」と比べ、「ジェンダー」はセックスの差異の上に構築される「社会的・文化的な性差」、いわゆる「男らしさ」や「女らしさ」だと理解されている(この因果関係に対しても、後に疑義が突きつけられる)。」


ジェンダーにとっては、社会というものが重要なキーワードになる。このジェンダーに関しては、フェミニストの間でもまだ意見が分かれている部分があるそうだ。それは後ほど見ることにしたいと思うが、僕は、ジェンダーの考え方そのものの中に論理の逸脱の危うさを感じるところがある。

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by ksyuumei | 2006-05-21 14:22 | 雑文

フェミニズム理論の逸脱する可能性

単語に過剰反応して文脈理解をしない者がいるので、冒頭に一言断っておくが、これから述べることはフェミニズム一般の批判ではない。フェミニズムの理論において、正しい範囲のものが、いかにして誤謬に転化していくかという過程的構造について考察しようと言うものだ。

真理と誤謬を対立した二つのものとして、相容れない固定化したものと考える人には、真理が誤謬に転化すると言うことは理解が難しいかも知れない。しかし、真理というものが、ある対象に対する認識において判断として存在することを理解するなら、その対象と認識との関係から、条件を逸脱して誤謬に転化する可能性があることが分かる。それが真理と誤謬との弁証法的関係だ。

三浦つとむさんは、人間の認識に誤謬が伴うことを必然的なものとして本質と捉えた。誤謬というのは、頭が悪かったり・能力がなかったりすることで引き起こされるものではない。人間の認識がある種の制限を受けていることから、その制限を逸脱する可能性をもっていて、そこから必然的に生み出されるものなのだ。

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by ksyuumei | 2006-05-21 11:02 | 雑文

トラックバック先のエントリーに対する雑感

トラックバック先のエントリーでの批判はほとんど的はずれだと感じているのだが、部分的に気になるところを雑感として記録しておこう。まず「こんな主張誰がしてるの?」の中の次の部分だ。


「ちなみに、「クラス名簿を男女混合にする」ってのは、あるかもしれない。しかしその真意は、「男女別にする正当性はどこにもない」というところからきているはずだ。もちろん、「男女混合」にもいろいろなものがあるだろう。家がお金持ちの順番とか(笑)、背の高さ順とか、学校から家までの距離が短い順とか。そのどれもが恣意的でしかない。もちろん、「あいうえお順」だって恣意的なのである。しかし、どんな順番も恣意的であるなら、その暴力的な要素が少なく、かつ調べるコストがかからないような順番がよいであろう。「あいうえお順」が最も正しいとは思わない。それに代わってより暴力的でない案があれば、僕はそちらに乗り換えてもいいと思っている。ただ現状ではそれが思いつかないからという理由で、暫定的に「あいうえお順」を支持している。」


これは、論理的に極めておかしいのだが、本人にはその自覚はないかも知れない。本当は「男女別にする正当性は考えれば思いつく」のだが、ここでは百歩譲って、その正当性がないと前提しておこう。しかし、この前提を置いたとしても、そこから「男女別の出席簿を否定する」という論理的帰結は出てこないのである。

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by ksyuumei | 2006-05-20 11:02 | 雑文