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作者の死

「作者の死」と言うことは、三浦つとむさんが、構造主義者の妄想として退けていた事柄だった。三浦さんは、「作者の死」と言うことを作者の存在がないということと受け取った。もし、作者がまったく存在しないのなら、作品は自動的に生み出されると言うことになってしまう。その自動的に生み出す装置はどこにあるかということが、論理的には求められるだろう。

三浦さんは、作品を自動的に生み出すこの装置を、構造主義者が「構造」と呼ぶものであって、それは妄想に過ぎないと批判していた。三浦さんが考えたのは、作品を生み出す主体は「観念的に分裂した自己」であるというものだった。構造主義者は、この存在を捉えることが出来なかったので、作品を生み出す主体を見つけられず、「作者は死んだ」という妄想を持ったのだというのが三浦さんの批判だった。

文学作品の場合、作者は登場人物に成り代わって、作品世界の中でいろいろな体験をして、それを記述する。必ずしも主役が作者と重なるわけではない。作者は、観念的に分裂した主体として、それぞれの登場人物になる。そして、ある時はその世界を外から眺めている語り手の立場に移行したりもする。作者は死んだのではなく、分裂して形を変えた存在として生きているというのが三浦さんの主張だと僕は理解した。

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by ksyuumei | 2006-04-02 17:31 | 内田樹

映画の評価について

今週配信されたマル激は、無料だということなので、映画に関心がある人はぜひ見ることをおすすめする。映画の評価というものについて深く考えさせてくれる、一流の映画評の言説が語られている。

僕は、かつて「ディア・ハンター」というアカデミー賞映画を、本多勝一さんが批判した文章を読んだことがある。僕は、主演したロバート・デ・ニーロが大好きで、この映画をリアルタイムで見た20代前半のころは、とても感動したものだった。

しかし、本多さんの批判を読んでからは、もはやこの映画を感動をもって見ることは出来なくなった。それは、この映画には、本質的な嘘が入っていると思ったからだ。劇映画はフィクションであるから嘘が入るのは当然なのだが、この映画の嘘は、そこから得られる感動も嘘だというものにつながる嘘だったのだ。

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by ksyuumei | 2006-04-02 13:04 | 映画

内田樹さんの一流性

内田樹さんは、その評価が両極端に別れる人で、とんでもない間違った言説を撒き散らす人だと評価する人もいれば、僕のように、その語ることに一流の香りがすると高く評価する人もいる。僕が、内田さんが一流の言論人だと確信したのは『寝ながら学べる構造主義』という本を読んでからだ。

僕は学生時代に三浦つとむさんを通じて唯物論哲学を知った。心情的には実存主義というものに惹かれていたのだが、構造主義も大ブームを引き起こしていたのでそれなりの関心を持っていた。しかし、構造主義はついに分からないままだった。

「構造」というものについてならある程度のイメージは出来る。数学的構造なら自分の専門でもあるからだ。ところが「構造主義」というふうに「主義」がつくと、何がなんだかわけが分からなくなるのだ。しかも、「構造主義」と言われる哲学書を読むと、これが哲学としてわけが分からないものにしか見えない。

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by ksyuumei | 2006-04-02 10:18 | 内田樹

中止の指示がなければ、それは実行の指示になるのか(続き)

さて以前のエントリーで、僕は、岡部氏こそが文書廃棄の指示をした直接の人間だったというのを、会議録から読みとった。そうであれば、この岡部氏の行動が、田中氏の意向を受けたものであるということが証明されなければ、田中氏の指示で文書が破棄されたとは言えなくなる。ところが、岡部氏が田中氏の意向を受けていたということに十分な疑いを感じる部分が会議録にあった。田中氏は、まったく岡部氏を信用していなかったのではないかと思わせる部分があるのだ。だから、田中氏が岡部氏に指示を与えるということが信じられないのだ。

「百条委、論点整理の全議事録」の林委員の発言には次のようなものがある。

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by ksyuumei | 2006-04-01 20:48 | 政治

『国家の品格』の二流性 7

藤原さんの民主主義批判について考えてみようと思う。僕も、民主主義のすべてが素晴らしいとは思わない。板倉聖宣さんが語るように、民主主義は最後の奴隷制だと思う。「最後の」というのは、これを最後にして欲しいという願望と共に、民主主義は、そこで奴隷になっている人たちに、自分たちは奴隷だと思わせないようなメカニズムがあるだけに、奴隷制としては最高の形態ではないかという判断から出ているものだと思う。

民主主義に対する批判の部分では、藤原さんにほぼ賛成するとしても、その批判の結果として「だから民主主義はだめだ」という、民主主義の全体に対する評価は疑問を感じる。民主主義にも欠陥はあるという判断なら賛成だ。その具体的な欠陥を修正していくような方向で努力していこうという指針にもなる。

しかし、その欠陥はもはや埋めようもないもので、民主主義を捨てて他のものを採用すべきだとなったら、これは、その他のものが民主主義よりも総体として優れたものであるという確信が持てなければならない。一つは武士道精神を基礎にした倫理なのだろうが、それは、民主主義のように多くの人が賛成したから選ぶ行動の指針ではなく、正しいことは正しいという情緒的な確信から選ばれている。

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by ksyuumei | 2006-04-01 17:28 | 雑文

中止の指示がなければ、それは実行の指示になるのか

さて「百条委、論点整理の全議事録」で、いよいよ核心部分の検討に入りたいと思う。宮沢副委員長は次のように発言している。


「次に田中康夫証人は、リアルタイムで公用文書破棄の実行を行う内容をメールで報告を受けていた。その報告に対し、何ら指示はしていないが、中止の指示をしなかったことは、言外において、事実上の田中康夫証人から、当該公用文書の破棄の指示が出されたことと受け止められる。よって、田中康夫証人が私からの指示はございませんと証言したことは、偽証であると判断できるものである。」


エントリーのタイトルにあるような命題が、常に正しい一般論的な命題であれば、宮沢副委員長の、この確認もいらなくなるだろう。それは論理的に正しくなるからだ。問題は、「指示がない」現象を「指示だ」というには、一定の条件がいると言うことなのである。中止の指示がないことが指示したことの責任として問われるなら、誰も、指示するような指導者の位置につきたいとは思わないだろう。そんなことなら指示するよりも自分で実行した方がいいからだ。

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by ksyuumei | 2006-04-01 14:30 | 政治

公文書か私文書か(続き)

「百条委、論点整理の全議事録」における石坂委員の次の発言には非常に重要なものが含まれている。これは、田中さんの指示があったかどうかを解釈するのに、重要なポイントになるものだ。まず発言を引用しておこう。


「時系列的に追っていって、認識の発展と揺り戻しといろいろあると思いますので、それらを逐一詳しく申し上げなかったんですけど、総合して現時点でということで先ほど私申し上げました。そういう点では柳田委員がただ今ご指摘のように私も当初回覧したわけですから、これは仕事上知っておいていただいた方がいいなという認識であったという点では、そういう意味での公文書としての扱いを当時課長であった田附氏自身がされたということは、これは事実だと思います。しかし、その後強力な岡部氏の誘導によりましてこれは岡部氏自身が情報公開課に自ら裏を取って、それは文書そのものを見せずに私的メモは公開の対象にならないよねという裏を取った上で強力な誘導でこれは私的メモであるから公開の対象にする必要はないんだと、しかも証拠もなくしなさいと、強力な誘導の中でこれは私的メモという扱いにする文書なんだと思い込まされて、さきほど思い込まされたということを言いましたけど、その時期の発展があり、その後2年経ち、証言を求められる中であれは私的メモだったんだというふうに証言するということは自然の成り行きとしてあったわけですから、意図して事実を歪めて公文書になるということは100も承知の上で、私文書と、私的メモと偽証したという、その偽証には私は当たらないと思います。」

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by ksyuumei | 2006-04-01 11:49 | 政治