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真理の相対性について再考

数学は抽象的対象を定義して、その定義に含まれている複雑な内容を、形式論理で解きほぐしていって単純化する学問だ。いくつかの単純な公理という出発点から、形式論理だけで複雑な内容が導き出せるというのが、数学の驚くべき特性だろう。

数学には仮説実験の論理はいらない。論理の前提として認めるいくつかの公理があればいい。論証は仮説実験なしに、言葉の上でだけ進めることが出来る。数学は広義の文法であると捉えてもいいかも知れない。従って、仮説実験を経て真理を獲得する科学という意味では、数学は科学ではない。それを現実に応用するときに整合性があるかどうかという判断においては、仮説実験の論理が必要になってくると思われるので、数学の応用は科学になりうるだろうと思う。

数学に対して、科学と呼ばれるものは現実を対象にして考察を進める。自然科学であれば、人間の意志が介在しないような対象を考察して、その対象が持っている法則性を明らかにする。これは意志を介在しないので、意志と独立に存在していると考える。自然科学者が、基本的に唯物論の立場に立っているのは、対象が意志と独立に存在していると言うことを出発点にするからである。

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by ksyuumei | 2006-04-11 10:54 | 科学

仮説が科学になるとき

科学はすべて仮説に過ぎないという言説はいつでも再生産されるもののように感じるが、これは、科学における真理と形式論理における真理を混同しているために起こる誤解ではないかと僕は感じていた。つまり、科学の何たるかを知らない哲学者が、真理といえば形式論理的な真理しか認めない発想を持ち、そのために、形式論理的な真理ではない科学の真理を仮説だと思い込んでいるのではないかと思っていた。

科学は仮説と区別されなければならない。仮説は実験によって検証されることを経て科学という真理になる。科学と仮説を一緒くたにする発想は、実験による検証を経たものと、単なる思いつきによるものとを一緒くたにする。

形式論理的な真理というのは、一度真理であることが確定すれば、それは決して誤謬には転化しない。真理はどこまでも真理であるし、誤謬はどこまでも誤謬だ。真理と誤謬が両立することがない。形式論理は矛盾を許さない論理だ。このような真理が、現実を対象にする科学にも成立すると考えるのは、抽象というものに対する無理解であり、現実の弁証法性を無視する考え方だ。

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by ksyuumei | 2006-04-10 23:50 | 科学

進化論に対する疑問

進化論に対する疑問というのは、進化という考え方自体が間違っていると考えているのではない。進化という発想は、生物が同一のものとしてあり続けるのではなく、何らかの変化(どれを「進化」と呼ぶのかにはさまざまな異論があるが)をしてきたと考えるものだ。もしこの発想を否定するのなら、生物は変化しないと考えなければならない。

生物が変化しないものなら、種類が違うように見える生物は、どれも突然地球上に出現したと解釈しなければならなくなる。この、進化を否定する発想は、やはり考えにくいものだから、進化というものは確かにあったのだろうとは思える。神の創造という前提がない限り、ある日突然多様な生物が出現したとは考えにくいからだ。逆に言えば、進化を認める発想は、神による世界の創造を否定する立場でもあるだろう。

進化という発想そのもには僕は疑問を持っていない。むしろ、地球の歴史においては、生物が存在していなかった時代もあっただろうということを認めるので、進化という発想も、それなしには現在の地球の生物の多様性を整合的には考えられないという点で、やはり認めざるを得ない。もし、神なしに生物の創造を認めるなら、地球の外から生物がやってきたとでも考えなければならないが、それは確率的にありそうもない。

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by ksyuumei | 2006-04-09 23:50 | 科学

内田樹さんの文章の誤読について

「2004年03月02日 スーパー負け犬くんはいかにして生まれたか?」という内田さんのエントリーに次のような文章がある。


「「勝ち犬」量産システムに身を置くということは、逆に言えば、その「勝ち犬」たちを自分の「サクセス」のめやすとして採用せざるを得ないがゆえに、「不充足感」に苦しむ可能性が他の場所よりも高いということである。
不充足感につきまとわれている人間は「いまの自分の正味の能力適性や、いまの自分が組み込まれているシステムや、いまの自分に期待されている社会的役割」をクールかつ計量的にみつめるということがなかなかできない。
それは、言い換えれば、「分相応の暮らしのうちに、誇りと満足感と幸福を感じる」ことがなかなかできない、ということである。
人生の達成目標を高く掲げ、そこに至らない自分を「許さない」という生き方は(ごく少数の例外的にタフな人間を除いては)、人をあまり幸福にはしてくれない。
あまり言う人がいないから言っておくが「向上心は必ずしも人を幸福にしない」。
幸福の秘訣は「小さくても、確実な、幸福」(@村上春樹)をもたらすものについてのリストをどれだけ長いものにできるか、にかかっている。
ま、それは別の話だ。」

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by ksyuumei | 2006-04-09 11:26 | 内田樹

実定的な抵抗感と欠性的な抵抗感

内田樹さんは『映画の構造分析』の中で、何かに「引っかかる」感覚を「鈍い意味」という言葉で形容している。これは、確かな解釈が出来ないと言うことで、明確にならないという意味での「鈍さ」を持っている。「脈絡のなさ」あるいは「シニフィエなしのシニフィアン」などという言葉で表現されている。

「シニフィエ」と「シニフィアン」などと言う難しい言葉を使うと、何か高級なことを語っているような気分にはなるが、その内容がイメージ出来なければこの言葉を使うことには意味がない。単なる二流の俗物趣味みたいなものだ。表現を理解すると言うとき、そこに使われている言葉を辞書的に理解するのではなく、その表現が表している対象がどのようなものであるかを捉えることが出来なければならない。

「シニフィエ」と「シニフィアン」という言葉について何も知らなくても、「シニフィエなしのシニフィアン」という対象がどういうものであるか、自分の言葉で語ることが出来れば、この表現は理解されたことになる。これは、映画における「鈍い意味」であり、「脈絡のなさ」の現象を表現したものなのだ。

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by ksyuumei | 2006-04-08 11:29 | 内田樹

俗流進化論は科学ではない

僕は、以前から進化論の科学性を疑っていたのだが、このところの科学としての「相対的真理」の考察から、「俗流」進化論は科学ではないという確信を持つようになった。「俗流」進化論とは、「進化論 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」に書かれている次のような定義の進化論だ。


「進化とは
生物が不変のもではなく、長期間かけて次第に変化してきたという考えに基づく変化の過程。この変化は、進歩とは限らない。」

「進化(しんか、evolution)とは、ある生物の種が何世代にもわたる変化の蓄積の結果、異なる種に分岐、あるいは変化する現象。」
「進化 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」

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by ksyuumei | 2006-04-07 09:23 | 科学

論理的理解が出来ない二流の言説

umehoushi氏からトラックバックをもらって、「方法について(1) Faith in Science-マククリントック女史の憂鬱-」というエントリーを読みにいったのだが、ここには、僕が批判的に検討してきた二流の言説の特徴がよく出ている。

それは、一言で言えば、明らかに批判出来るような欠点のあるものを、批判したいものに勝手に貼り付けて、「だからダメだ」と語るような言説だ。最初から批判出来るものを批判しているのであるから、これは分かりやすく、しかも失敗はない。しかし、それは本当に批判したいものとは何の関係もない、独り言に過ぎない。

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by ksyuumei | 2006-04-06 10:12 | 論理

テレビ報道の二流性

今朝テレビのニュースを見ていたら、川崎でのマンションから男児を投げ落としたという事件の報道をしていた。容疑者として逮捕された男が、いかに理解しがたいひどい男であるかというのを分かりやすく報道していた。僕はここに二流性を感じる。

ひどい犯罪を犯したのだから、ひどい面があるのが当たり前で、そんなものは探せばいくらでも見つかるだろう。あれほどのひどい犯罪を犯さない普通の人だって、叩けば埃くらい出るのだから、犯罪を犯した人間が何もひどい面がなかったとしたら、それこそ理解不可能な出来事になってしまう。

テレビの報道は、あの事件を単純に理解するためには実に有効な報道だと思った。ひどいやつがひどい事件を起こした。犯人は、理解しがたい非人間的な男だ、そう受け止めていればかなりの人が落ち着くのではないかと思う。しかし、人々を落ち着かせたからと言って、この報道は現代社会をより深く理解するためのはまったく役に立たない。

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by ksyuumei | 2006-04-05 08:39 | 報道

『国家の品格』の二流性 8

藤原さんは、「自由」と「平等」というものを批判してこれを否定しようとしている。これは、フランス革命が掲げた価値観で、西欧の価値観として代表的なものだけに、藤原さんの批判の対象になったのではないかと思われる。しかし、これは「価値観」なので、否定することは出来ないのではないかと思われる。

価値観というのは、ある視点で対象を眺めたときに、それがどのようなプラスの要素を持っているかと自分が感じる事柄を指しているのではないだろうか。価値観を語るときには、いつでもその視点というものが重要になってくる。ある視点から見ればつまらないものでも、別の視点から見れば大切だと思えるものはたくさんある。

これは、ことわざでいえば「蓼食う虫も好き好き」と言うことだと思う。自分にとっていかに大事なものであるかを語っても、同じ視点を持っていない人から見ると、それは大したことではないと感じてしまうだろう。これは「価値観」に関する限りでは仕方がないことだと思う。

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by ksyuumei | 2006-04-04 08:52 | 雑文

誤読と多様な解釈の違い

かなり前に、教育界に<法則化運動>なるものが席巻したとき、仮説実験授業研究会はこれを批判していた。ここで語られている「法則」なるものが、せいぜいが「ことわざ」程度のものに過ぎないのに、仰々しく「法則」などと呼ぶのは間違いではないかというものだった。それは「ことわざ」のように、ある特定の場面で指針として使うなら有効だろうというもので、使い方を間違えれば失敗するもののように見えた。「法則」というなら、どの場面で使えば有効なのかの「条件」をきちんと解明すべきだろうという批判だった。

この<法則化運動>の頂点にいた人物に向山洋一氏という人がいた。仮説実験授業研究会では、向山氏の詩の授業にも批判の矢を向ける人たちがいた。それは、安西冬衛の「春」という詩を使った授業だった。「春」は短い一行だけの詩で、全文引用になってしまうのだが次のようなものだ。


「てふてふが一匹韃靼(だったん)海峡を渡つて行つた。」

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by ksyuumei | 2006-04-03 21:37 | 雑文