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江川達也さんの歴史の見方

江川さんは、『現実はマイナーの中に』(ウェイツ)の中で、「戦前のことをある目的を持って研究していくと、必ずしも戦前は否定すべきではないことが明らかになってしまう」と書いている。江川さんは、戦前を高く評価していることが他の言葉からもうかがえる。それは、指導者たちがマトリックスの外からマトリックスを眺める視点を持ち得たからだと考えているようだ。例えば、


「明治維新もそうで、作った方は、こんなものあとで何とでもなると思っていたけれど、そのあとに生まれた人たちはそれが世界だと思ってしまう。そこが難しいところです。箱の中で育ってしまった人と、箱を作った人の差みたいなものですね。」


という言葉からそのようなものがうかがえる。同時に、マトリックスの中でベタにそれを受け取る人間は、「それを世界だと思ってしまう」限界があり、それが「差」だと指摘している。これは、マル激などで語られる宮台氏の見解と驚くほど似ている。宮台氏も、戦前の評価として同じようなことを語っていて、戦後についても、マトリックスを外から眺められる政治家を高く評価していた。

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by ksyuumei | 2006-04-18 09:24 | 雑文

カントの一流性

僕が初めてカントの名前に出会ったのは、三浦つとむさんの「物自体」に関する批判の文章の中でだった。それがどこに書かれていたのか探したのだが見つからなかった。記憶を頼りに考えてみると、それは、科学的認識に関わる文脈だったように思う。

「物自体」というのは、


「「感覚によって経験されたもの以外は、何も知ることはできない」というヒュームの主張を受けて、カントは「経験を生み出す何か」「物自体」は前提されなければならないが、そうした「物自体」は経験することができない、と考えた。物自体は認識できず、存在するにあたって、我々の主観に依存しない。因果律に従うこともない。」
「物自体 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」


と説明されている。

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by ksyuumei | 2006-04-16 22:54 | 哲学一般

「反証可能性」という言葉について

「反証可能性」という言葉を使って科学を語る言説をよく見かけるのだが、たいていはそれが的はずれのように感じている。科学に対するこのような的はずれの言説が蔓延しているのは、「反証可能性」という言葉自体に原因があるのか、それともこの言葉の理解に原因があるのか、どちらだろうかと思う。

カール・ポパーが語ったと言われるこの言葉を、ポパー自身はどのように説明しているのだろうと思った。それを見れば、的はずれの言説が、その言葉を誤解しているのか、それともポパー自身の考え方の中に間違いがあるかどちらかが分かるだろうと思う。ポパーのように多くの人から評価されている人間の言説を否定するのはあまりにも無謀だから、おそらく多くの人はポパーの言説を誤解しているのだろうと思う。

たまたま図書館で見つけた『実在論と科学の目的(上)』(岩波書店)という本の序章に「反証可能性」についてが書かれていた。この文章を基に、ポパーが何を言いたかったのかを考えてみよう。そして、それがいかに誤解される可能性があるかを考察してみたい。まずは冒頭の次の文章を考えてみよう。

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by ksyuumei | 2006-04-16 15:20 | 科学

江川達也氏の言説は一流だ

「江川達也氏の言説は一流か」と言うことで、昨日は考えてみたが、考えれば考えるほど、僕には一流だと思えるようになった。そこで、昨日は断定出来なかったが、今日は断定的に「だ」と言い切ることにした。

手塚治虫さんについて考察したことを考えようと思ったのだが、それ以上に鋭さを感じる言説が、日本の教育とそれを支える社会環境に関するものだった。教師として教育現場に立ったということからのものが基礎にあるのだと思うが、その経験が短いものでありながら、実に鋭く本質を捉えていると僕は感じる。引用して考えてみよう。


「戦後の教育は、合目的な形で行われてこなかったのです。ある目標があって、その目標のためにこういう勉強をやると言うことではない。実際の生活でこういうことが役立つから、今こういう勉強をしていますといった教育を、戦後はやらなくなってしまった。目標もはっきりしないまま、意味のないことを暗記しなさい、ということが戦後の教育です。」

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by ksyuumei | 2006-04-16 11:34 | 雑文

歴史観について

『新しい歴史教科書』が登場したとき、そこには、歴史は物語であるというようなことが語られていた。日本人にとって誇りが持てるような歴史こそが価値あるものだという思いがそこにはあったようだ。歴史が、根本的にどのようなものであるかと考えるものを「歴史観」と呼んでいる。

その一つが「歴史は物語である」というものだろう。辞書で調べると、歴史観の代表は、マルクス主義の「史的唯物論」だった。それは、人間の歴史を解釈するのに、人間の精神活動に関わる部分「政治・法律・宗教・哲学・芸術などの制度や社会的意識形態」(上部構造)が、物質的活動に当たる「社会的生産における物質的生産力とそれに照応する生産関係とからなる社会の経済的構造」(土台)によって決定されているとする見方だ。

歴史を物語だと考える「歴史観」は、最初から科学であることを放棄している「歴史観」だ。それは物語であるから、物語の作者によって違う歴史が登場しても仕方がないと考える。だからこそ、日本人のための歴史は、日本人が誇りを感じ、ある意味ではいい気分になるようなものを選択して歴史として語ることになる。

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by ksyuumei | 2006-04-15 21:23 | 科学

江川達也氏の言説は一流か

僕は、漫画家の江川達也氏を神保哲生・宮台真司両氏のマル激トーク・オン・デマンドで知った。宮台氏は江川氏を高く評価しており、その見識の深さを認めていた。しかし、江川氏は、他の所では変人として有名になっているようで、必ずしも高く評価している人ばかりではなさそうだ。特に、ドラえもん批判をしてからは、ドラえもんファンからは嫌われているようだ。

僕は今はあまりマンガを読まないので、江川氏のマンガを評価することは出来ないのだが、『現実はマイナーの中に』(ウェイツ)という本に語られている江川氏の言説には一流性を感じる。このような発想と論理展開が出来る人なら、宮台氏が高く評価するのも頷けるという感じがしている。

江川氏は時にかなりの極論を語るので、その背景となる根拠が読みとれないときは、勝手に傲慢な持論を展開しているようにしか見えない。しかし、その根拠さえ読みとれるなら、非常に論理的に明確な主張をしていることが分かる。江川氏が、数学の専門家でもあったという近さがあるせいかもしれないが、僕は彼の言説を高く評価する。それをこの著書からの引用で考えてみたいと思う。

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by ksyuumei | 2006-04-15 18:24 | 雑文

科学的真理はどのようにして証明されるか 3

板倉さんの『科学はどのようにしてつくられてきたか』は、次の話題として植物を取り上げる。「大地・球形説」や「地動説」のような天文学に関するものは、いかにも科学というイメージが出来るのだが、植物に関するもので科学的真理というとどのようなものが頭に浮かぶだろうか。普遍的な法則性というものがなかなか浮かびにくいのではないかと思う。

植物というと、何か分類をして知識を増やすというようなイメージが強い。ある植物がどのような花の形をしているか、その数は何枚か、あるいは葉に特徴があるのか、という博物学的な関心が強いのではないかと思う。これは、残念ながら科学という感じはしない。いくら正しい事実であっても、そこに普遍性・一般性が感じられなければ科学とは思えないのだ。

武谷三男さんは、かつて物理学の発展を分析して、<現象論的段階><実体論的段階><本質論的段階>という三段階の発展をするという「三段階論」を提唱した。これは、物理学に限らず、科学においてそのような発展の過程を経るのではないかと思われる。そして、<本質論的段階>こそがもっとも発展した科学の姿だろうと思う。

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by ksyuumei | 2006-04-15 10:41 | 科学

科学的真理はどのようにして証明されるか 2

「反証可能性」という言葉で、何か科学の成立について語った気分になっている人間がいるが、科学が成立するのは、「仮説実験の論理」を経てそれが証明されたときのみである。いくら「反証可能性」があろうとも、それだけで考察している事柄が「科学」になるのではない。仮説から得られた予想(任意の対象に対して成立する)を実験によって検証する手順を踏まない限り、それは科学としての真理を獲得出来ない。

科学は、仮説実験の論理を経ることによってのみ科学としての資格を獲得する。この「のみ」がもっとも大事なもので、仮説実験の過程を経ていないものは科学として認めないのである。「反証可能性」もくそもない。科学か、科学でないかはこの点だけに関わっている。

自然選択説における「適者生存」という法則が科学になるためには、その仮説から何らかの具体的予想を導き出し、それが任意の対象に対して成立するような実験を工夫しなければならない。しかし、「適者」という概念が、常に結果として生き残った者が「適者」だという概念を持っていれば、それは実験の前に任意の対象に対して予想することが出来なくなる。

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by ksyuumei | 2006-04-14 11:18 | 科学

科学的真理はどのようにして証明されるか 1

科学がすべて仮説だと思っている人間は、仮説が実験という検証を経て真理を獲得する過程を理解することが出来ない。仮説と科学の区別がつかない人は、真理と真理でないもの(真理でないものは必ずしも誤謬だとは限らない。真理だと確定していないものは、「真理かも知れない」仮説にとどまるのである。これが現実を対象にした科学的真理と、形式論理の真理との違いでもある。形式論理では、真理ではないものは必ず誤謬になる。形式論理では、命題は真理であるか誤謬であるかどちらかなのだ。)の区別がつかない。

真理がどのように発見されるかと言うことを、板倉聖宣さんの『科学はどのようにしてつくられてきたか』(仮説社)という本をヒントに考えてみたいと思う。そして、科学が仮説だと思っている懐疑論者が、いかに間違った認識をしているかというのを確かめたいと思う。

科学的真理という確実性のある真理に対して懐疑を持つのなら、それ以外の感覚から得られる真理(それがそのように見えるとか)などは、もっと懐疑的にならなければならないのだが、懐疑論者はそういうものには疑問を持たず、おそらく普通に生活出来るだろう。

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by ksyuumei | 2006-04-13 09:29 | 科学

ベストセラー本の二流性

『週刊金曜日』という雑誌の連載から生まれたベストセラー本に『買ってはいけない』という本があった。これは、世間に流通している商品の中に、いかに危険な物質が混入しているかを指摘した本だった。この本を読むと、我々の周りには危険な物質があふれていて、「買ってはいけない」商品があふれているのを感じる。「買ってもいい」ものなど一つも見つからないのではないかと思えるくらいだった。

『週刊金曜日』は、リベラルの主張を代表する、ほとんど唯一の雑誌として生き残っているような感じさえあったので、この『買ってはいけない』も、リベラルの主張として、人々が普段見過ごしている部分を指摘したものとして、当時(96年12月から99年4月)としては一流性を感じたものだった。

先駆性というものは十分一流性の判断基準になるものである。今となっては人々の常識になっている事柄を、その時になって声高に主張するのは大したことではないが、人々がまだそのことに気づいていないときに、それを指摘することの出来るものは一流だといってもいいだろう。そういう意味で、『買ってはいけない』には一流性があるのではないかと当時は思っていた。

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by ksyuumei | 2006-04-12 09:20 | 雑文