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原理原則的な考え方と、現実を素直に受け入れる考え方

板倉聖宣さんが『科学はどのようにつくられてきたか』(仮説社)という本でアリストテレスと原子論者たちを語った章はとても興味深かった。そこではアリストテレスの偉大さを強調しているのだが、アリストテレスの世界観というのは、現状をあるがままに肯定して解釈するという保守的なものであることも指摘していた。

現在の状態をそのまま解釈するというのは、ある意味で非科学的な態度になる。科学は、現実に存在する対象に対して、法則的に成り立つ属性を研究する。それは、対象の現象を解釈するのではなく、任意の対象に対してこのような法則が成り立つはずだという原則的な思考で臨むのでなければならない。

科学の真理性に高い価値評価を置き、「バカの一つ覚え」という比喩で、どこまでもその真理を押し通す科学の素晴らしさを板倉さんは強調している。たとえ現実がその真理に反するように見えても、真理の方を堅持して現実の解釈を変えようとする。アリストテレスは、それに対して、現実の方がどのような現象を見せようとも、「現実は元々そうなのだ」という発想でそれを受け入れようとする。

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by ksyuumei | 2006-04-24 09:42 | 雑文

ラカンの言説の一流性 4

内田樹さんは『他者と死者』の中で、「師」の必要性を説く。学ぶという行為が本当に実りあるものになるためには、学習者は、その師を見つけなければならないということだ。内田さんは、『先生はえらい』という本も書いているが、これの本当の趣旨は、「先生」を「師」にするには、「えらい」という感覚が必要だというものではないかと思う。

「師」というのは、結果的に相手が偉いと言うことが分かって「師」になるのではなく、かなり直感的に選ばれるもののようだ。自分自身を振り返ってみても、三浦つとむさんを「師」と選んだのはかなり直感的なものだった。三浦さんの『弁証法・いかに学ぶべきか』という本を手にしたとき、その1ページ目を読んだ瞬間に僕は「師」と出会ったという感覚を持った。

学校の先生を「師」と感じることの出来ない今の子供たちは、学習において実に不幸だと思う。それでも、どこかに「師」と仰ぐことの出来る人を見つけられればいいが、そのような人物に出会わなければ、一生学ぶということの本質を知らずに過ごしてしまうのではないだろうか。

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by ksyuumei | 2006-04-23 17:38 | 雑文

ラカンの言説の一流性 3

『他者と死者』の中で内田さんが引用している次のラカンの文章の理解を考えてみようと思う。


「我々はこれまでの研究によって、反復強迫(Wiederholungswang)はわれわれが以前に記号表現(シニフィアン)の連鎖の自己主張(l'insistance)と名付けたものの中に根拠をおいているのを知りました。この観念そのものは『l'ex-sistance』(つまり、中心から離れた場所)と相関的な関係にあるものとして明らかにされたわけですが、この場所はまた、フロイトの発見を重視しなければならない場合には無意識の主体をここに位置づける必要があります。知られるとおり、象徴界(le symbolique)が影響力を行使するこの場所の機能が想像界(l'imaginaire)のどのような経路を通って、人間という生体のもっとも奥深いところでその力を発揮するようになるのか、このことは精神分析によって始められた実際経験の中で初めて理解されるのです。」


この文章は、内田さんによれば『エクリ』と呼ばれるものの冒頭の一文だと言うことだ。冒頭であるにもかかわらず、「知りました」と書かれている内容に対する説明がない。つまり、この「知りました」の内容はすでに共有されているという前提で書かれている。

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by ksyuumei | 2006-04-23 13:34 | 雑文

ラカンの言説の一流性 2

内田樹さんは『他者と死者』(海鳥社)の中で、「わかりにくく書く人には二種類がある」と語っている。一つは「難しいことを言うことが知的威信の一部だと思っている人々」だ。これは、自分がいかにものを知っている賢い人間であるかを示すために難しく書こうとする。難しいことが賢いことの証明になると思い込んでいる人だ。

これは、本多勝一さんが、かつて「お勉強発表会」と呼んだような文章になるだろう。本題とは関係のない知識をずらずらと並べ立てるような文章だ。それは、おそらく本人もよく分かっていないのだろうが、どこかからコピーしてきた文章をちょっと加工しているのかも知れない。

それに対して、三浦つとむさんや板倉聖宣さんの文章は、極めて平易な語彙の言葉を用いて本質を語るという工夫を凝らしている。そのような文章は、分かりやすくしかも本質を外さないという一流性を持った文章になっている。僕は、三浦さんの文章で弁証法の本質を知り、板倉さんの文章で科学の本質を知った。

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by ksyuumei | 2006-04-23 10:18 | 雑文

解釈の正しさについて

ラカンについて調べていたら、「生き延びるためのラカン 第1回「なぜ「ラカン」なのか?」」という斉藤環さんの文章を見つけた。ここでは、携帯電話がなぜ不快に感じるかを、ラカンを応用して分析していた。

その結論は、


「電車内で携帯電話をかける人は、電車内で訳のわからない独りごとを大声で呟いている電波系の人と同じ存在だから。あの理屈抜きの、ほとんど反射的な嫌悪感のみなもとは、そこにある。」


というものだった。ここで語られている「電波系の人」というのは、「精神病の人」と同じ意味で使われている。そして両者に共通しているのは「僕たちと同じ言葉を喋れなくなった人」ということだという。これをもう少し詳しく語ると次のようになる。

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by ksyuumei | 2006-04-22 22:43 | 雑文

ラカンの言説の一流性 1

はてなの日記「■[雑文]難解な文章について」に、わどさんからコメントをもらった。それに対する返事として僕は次のようなことを書いた。


「大江源三郎氏の文章がわかりにくいのは、4つほどの仮説が考えられます。1つは、大江氏が、情緒の人で、論理よりも情緒が先行してしまうので、より情緒的に強く感じたものから順に表現してしまうため、論理性が失われてしまうという可能性です。
2つ目の可能性は、基本的な文章表現能力の問題です。分かりやすいという技術的なものを持っていないために分かりやすい文章が書けないと言う単純な理解です。
3つ目は、ワザとわかりにくく書くという意図的なものです。内田樹さんによれば、読者に対する気づきを喚起するための技術として、ワザとわかりにくく書くという事があるようです。大江氏もそのようにしていると考えると、文法的には間違っていないけれど、わかりにくく書くという事があるかも知れません。
4つ目は、非常に複雑で難しい対象を記述しているために、その複雑さが表現にも現れてきてわかりにくくなっているという理解です。これは、その意味を分析的に理解することも難しくなります。
以上4つの可能性が考えられますが、僕は、情緒の問題が一番大きいのではないかと思っています。僕の理解が当たっていれば、大江氏が語る対象そのものは決して難しいものには思えないからです。もし僕の理解が当たっていないなら、それはどの予想が正しいかまったく分かりません。」

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by ksyuumei | 2006-04-22 15:27 | 雑文

「事実」は実体的(物質的)存在ではなく観念的存在である

本多勝一さんは、『事実とは何か』という著書の中で、「客観的事実」の「客観的」という言葉について論じたことがあった。その趣旨は、100%客観的と呼べるような「事実」はないということだった。つまり客観的と言うことを、文字通り<人間の意識とは独立している>という意味に受け取ってしまうと、それは完全には成り立たなくなる。「それが事実だ」という判断において、どうしても人間の頭を通過するという「判断」を経なければならないと言うことから、主観が入り込んでしまうからだ。

この主観を排除することは、「判断」をしないということだから、「事実」ということが言えなくなってしまう。だから、100%客観的な「事実」はあり得ないと言うことになる。それでは、100%客観的な事実がなかったら、そもそも客観的な事実というのはまったくあり得ないのか?それは反対の極に行きすぎた間違いだ。

現実が視点を変えると対立した面を持っているという、弁証法的な理解をすることが出来るなら、ある視点からはその判断は「客観的事実」であり、ある視点からは主観が入り込むために「客観性」が完全ではないと言う意味で「客観的事実」ではないと言えると理解しなければならない。

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by ksyuumei | 2006-04-22 10:59 | 雑文

難解な文章について

わかりにくい文章の代表として、本多勝一さんは『日本語の作文技術』の中で、大江健三郎氏の次の文章を引用していた。


「いま僕自身が野間宏の仕事に、喚起力のこもった契機を与えられつつ考えることは、作家みなが全体小説の企画によって彼の仕事の現場にも明瞭に持ち込みうるところの、この現実世界を、その全体において経験しよう、とする態度を取ることなしには、彼の職業の外部から与えられたぬるま湯の中での特殊性を克服することは出来ぬであろう、ということに他ならない。改めて言うまでもなくそれは、いったん外部からの恩賜的な枠組みが壊れ、いかなる特恵的な条件もなしに、作家が現実生活に鼻を突きつけねばならぬ時の事を考えるまでもなく、本当に作家という職業は、自立しうるものか、を自省するとき、すべての作家が自らに課すべき問いかけであるように思われるのである。」
(大江健三郎「職業としての作家」『別冊・経済評論』1971年春季号)


この文章を一読して理解出来る人は、かなりの読解能力のある人だろうと思う。本多さんは、この文章を、修飾と被修飾の関係から批判をしていた。分かりにくくなる原因を、修飾される言葉と修飾する言葉が、文章において離れすぎていることに求めていた。

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by ksyuumei | 2006-04-21 09:42 | 雑文

江川達也さんの論理的一貫性について

江川さんの一流性について書いたエントリーにトラックバックがあったので、それをたどって、江川さんがドラクエについて語ったというインタビューを読んでみた。それは一部を抜き出したようなものだったので、どのような文脈で語られているかが分からなかった。しかし、これを読んでみると、江川さんが嫌われるという理由がよく分かる。

江川さんは、「ドラクエ・FFのようなRPGやる奴はバカ」と言う発言をしたようだが、これを「自分とは趣味が違う」という程度に薄めて語っていればよいのに、正直に感想を語るから反発を受けるのだなと思った。まあ、あえて反発を買うような言い方をしているのかも知れないが、江川さんの場合は計算よりも正直さの方が先に立っているような感じはする。

宮台真司氏などは、相手の反応を見るために、あえて挑発すると言うことがあるのを感じるが、江川さんは、挑発する必要もないところで挑発するような言葉を言うことがあるので、これは正直さのあらわれではないかとも思う。宮台氏は、マル激の議論などを聞いていると、その誠実さと穏やかさを感じるので、本質的にはそのような人だと思う。しかし、あえて挑発することで何らかの気づきを感じさせるというねらいがあって、極論を語ることがあるような気がする。

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by ksyuumei | 2006-04-20 09:20 | 雑文

ZEEDさんへの返事

ZEEDさんからライブドアのブログの「仮説が科学になるとき」というエントリーにコメントをもらった。ライブドアのコメント欄は字数制限があって、短い返事ではなかなか真意が伝わらないので、ZEEDさんへの返事をまとめておこうと思う。ZEEDさんには弁証法に対する誤解もあると思われるので、僕の持論を展開する意味でも、一つのエントリーとしてまとまったことを記述しておきたいとも思った。まずは次のようなコメントに対する見解を述べておこう。


「1流の規定を秀さんの言うように定義ください。なにがどのように一流か?一流とはなんのでしょうか?秀さんの自身のご意見とおり、”厳密”に、”正確に”誰にでも一流となるよう定義を行ってください。」


僕の定義は、単純なもので、本質的なものを語っていれば「一流」であり、末梢的なものを語っていれば「二流」と判断している。ただし、「本質」と「抹消」に関しては、意見が分かれるところなので、これが一致しなければ僕の見解に賛成出来ないとしてもそれは仕方がない。本質と抹消に関しては、とても一言で定義しきれないので、これは、僕が何を本質と捉えているか、何を抹消と捉えているかを、僕の言説を読みとって判断してもらうしかない。

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by ksyuumei | 2006-04-19 09:27 | 雑文