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凶悪犯に対し、感情抜きの論理的考察が出来るか

すでに故人となったが、大分県中津市の作家・松下竜一さんに『汝を子に迎えん』(河出書房新社)という本がある。松下さんは、ノンフィクションの作品をたくさん残している人で、これは、ある殺人犯を養子として迎えた牧師夫妻を追いかけたノンフィクションだった。

この殺人犯が起こした犯罪が、先日報道された山口県光市の事件にそっくりだったので、僕は一瞬、その事件のことではないかと錯覚してしまったのだが、松下さんが報告している事件は1985年の事件だった。それは当時の12月6日の朝日新聞で次のように報道されていたらしい。

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by ksyuumei | 2006-04-30 21:43 | 社会

兵法の奥義

内田樹さんの『他者と死者』(海鳥社)の「4沓を落とす人」には、「兵法の奥義」が語られている。これは、抽象的に述べれば


「欲望するものは欲望されたものに絶対的に遅れる」


と語られる。この「絶対的に遅れる」状態に相手を落とすとき、常に勝つという「兵法の奥義」を手に入れることが出来る。「絶対的に遅れる」人間は、遅れてしまった相手には絶対に勝てないのだ。

では、どうすれば相手を遅らせて、自分の方が先に行くことが出来るのだろうか。内田さんは、武術の用語で「先(せん)を取る」という言い方をしている。どうすれば「先を取る」ことが出来るのか。その技術を与えるキーワードが「欲望」というものだ。自らを「欲望されるもの」の位置に置き、相手を「欲望するもの」の位置に置くことが重要になる。

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by ksyuumei | 2006-04-30 18:20 | 内田樹

適材適所という働き方と組織

教員の世界というのは、僕から見ると変だと思われる平等主義がある。仕事の量を平均化しようという平等主義だ。これを僕が奇妙だと思うのは、質が違う仕事にも、何とかそれを平等になるように工夫して、かえって効率を落として苦労しているように見えることだ。平等であることが最も重要なことになってしまうと、本来は仕事をすることが第一であるはずなのに、仕事としては質・量共に落ちてしまうという本末転倒が起こるような気がする。

教員は、突出していることを嫌う。これは、特別にひどい仕事をなくすという点ではそれほど悪くはないのだが、逆に突出していい仕事をしていても非難の目を向けられることがある。

ある小学校で毎日学級通信を出していた人が、他のクラスではそれほどの量を出せないので、他のクラスに合わせて出す量を減らして欲しいなどと言われるときがある。僕などは、出せる人はどんどん出して、出せない人が出さなくてもそれほど気にすることではないと思うのだが、出せない人は、何かそのことで非難されているように感じるらしい。横並びに、みんなが同じならその非難を浴びなくても済むと言うことで、突出した人間は嫌われるようだ。

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by ksyuumei | 2006-04-29 15:30 | 雑文

正しい現状認識とその肯定判断について

内田樹さんが「2006年04月26日 ナショナリズムと集団性」というエントリーで、「遠からず、日本はナショナリストだらけになるであろう」という予想を語っている。この予想は、日本の現在を、「「若年弱者」を大量発生させている」という現状分析をした結果からもたらされた帰結だ。

内田さんは「この新たなナショナリズムの担い手はつねに「弱者」である」と考えている。「彼らがナショナリズムに飛びつくのは、「国民的統合が果たされると、自分にも受益機会がめぐってくるのではないか」と考えているからである」と考えている。このような考えから、弱者を大量発生させている日本社会は、遠からずナショナリストだらけになるという予想がもたらされる。

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by ksyuumei | 2006-04-29 11:52 | 内田樹

死刑廃止論を考える 4

「死刑廃止 info! アムネスティ・インターナショナル・日本死刑廃止ネットワークセンター」というページに載せられている、「死刑制度の廃止を求める著名人メッセージ」の中の中山千夏さんの死刑廃止論を考えてみようと思う。中山さんは、


「死刑制度で、自分自身いちばん引っかかっていることを言うなら、結局「人は人を殺してはいけない」という単純なところに戻ってきます。」


と語っている。このことを考えると、中山さんは、「人は人を殺してはいけない」と言うことを原則として考えているのだなと言うことが分かる。このことは、果たして原則として通用することだろうか。どんな現象が起こっても、その現象の解釈に、この原則を持ち続けて解釈することが出来るだろうか。中山さんの死刑廃止論が、傾聴に値するものになるかは、これが原則として通用するくらい確かなものであるかにかかっているように思う。

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by ksyuumei | 2006-04-29 10:17 | 社会

論理の持つ非人情

内田樹さんが「2006年04月25日 非人情三人男」というエントリーを書いている。ここで語られている「非人情」とは夏目漱石の造語であるらしい。ヤフーの辞書によればその意味は、


「1 他人に対する思いやりに欠けること。冷淡で人情がないこと。また、そのさま。「―な(の)人」

 2 義理人情の世界から超越して、それにわずらわされないこと。また、そのさま。夏目漱石が「草枕」で説いた境地。」


となっていた。1の意味は、複合語としての「非人情」であり、まさに辞書的な意味での「人情」の否定の意味となっている。しかし、夏目漱石が語った「非人情」は、この言葉が一つの概念を表す「単語」となっていて、複合語としての意味を失っている。それ故に内田さんは「造語」と語っているのだろう。

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by ksyuumei | 2006-04-28 09:51 | 内田樹

死刑廃止論を考える 3

「死刑廃止 info! アムネスティ・インターナショナル・日本死刑廃止ネットワークセンター」というページに載せられている、「死刑制度の廃止を求める著名人メッセージ」の中の亀井静香さん(衆議院議員、死刑廃止議員連盟会長)の言葉で、冤罪を語ったものも傾聴に値する。

亀井さんは「常にある冤罪の可能性」を語り、日本の警察・司法制度の欠陥を指摘している。その一つは、「依然として自白が「証拠の王」ということです。それは変わりません」と言うことだ。物的証拠こそが第一にならなければならないと僕は思う。それこそが科学的であり、論理的に正しい判断だと思う。

自白が犯罪立証の決め手になってしまうと、取り調べが、自白させることが目的になってしまう。そうなれば「構造的無知」に陥った警察官は、自覚せずに無理な自白を取るようになるのではないか。たとえ自白があったとしても、確かな物証がなければそれは証明出来ないのだという理解があれば、自白を取ることに無理はしないだろう。むしろ、証明出来そうな情報を探るためにこそ自白を利用するだろう。

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by ksyuumei | 2006-04-27 09:53 | 社会

死刑廃止論を考える 2

「死刑廃止 info! アムネスティ・インターナショナル・日本死刑廃止ネットワークセンター」というページに載せられている、「死刑制度の廃止を求める著名人メッセージ」の中の亀井静香さん(衆議院議員、死刑廃止議員連盟会長)の文章に、僕は非常に強い説得力があるのを感じた。

亀井さんは平和主義者としても知られているが、この文章からは基本的に、人間に対する深い愛情が感じられる。しかも、警察官僚出身という、まさに死刑の現場の当事者として、実感として考えてきたことでもあると言うことに大きな説得力を感じた。広島では、ホリエモンではなくこの亀井さんを選んだと言うことで、政治家を見る目として広島の人々は正しかったと僕は思う。残念なのは、人間性の素晴らしさを持っている人が、権力闘争では敗れてしまうという現実だ。権力闘争には、非人間的な面がどうしても入ってきてしまうからだろうか。

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by ksyuumei | 2006-04-27 08:51 | 社会

死刑廃止論を考える 1

たとえ死刑であっても、人が殺されるのを見るのは嫌だというような感情論ではなく、一般論としての死刑廃止論を考えてみたいと思う。もし感情論を基礎にして考えるなら、被害者の報復感情が何よりも優先されると言うことは、感情としては反対出来ない問題になると思われる。だから、感情論で考える限りでは死刑廃止という考えは生まれてこないだろう。

被害者の感情を捨象して抽象化するというのは、感情的な反発もあるかも知れないが、死刑廃止論というのは、そのようにして論理を展開していかないと正当性を主張することは出来ないだろう。基本的な原理・原則を設定して、その下に論理を展開していき、その結論として死刑廃止論が展開出来るかどうかを考えてみたいと思う。

基本的な原理として考えるのは、「死刑」というものが制度であるという点だ。それは個人が恣意的にコントロール出来るものではなく、国家の制度として個人を制約していくものであるということだ。この制度は、死刑という判断を決定する際に間違いを犯す可能性を持っていると言うことが一般論としての死刑廃止論の出発点になると思われる。

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by ksyuumei | 2006-04-26 10:27 | 社会

感情に流れる議論

山口県光市で起こった痛ましい犯罪事件の裁判について語ったブログを見て感じたことがある。この事件は、犯罪の衝撃的な現象もさることながら、あくまでも極刑の死刑を求める被害者遺族と、その意を汲んだ検察に対しての、死刑廃止論者でもある弁護士の発言が人々の注目を集めているようだ。

弁護士の発言は、被害者遺族の感情を逆撫でするものとして批判を浴びている。しかし、その多くは感情に反応するものであって、論理性は感じられない。特に、この個別的事件から、一般論である死刑廃止論への感情的反発が広がっているのは危険であると僕は感じる。

この事件の感情的な問題と死刑廃止論とは分けて考えるべきではないかと思っているのだ。また、弁護士が仕事として被告人を擁護する立場に立つのは、ある意味では当然のことではないかと思う。弁護士の仕事は、被告人の利益が最大になるようにすることだと思うので、そう振る舞ったからといって何ら非難されるべきものではないと思う。むしろ、変な先入観によって、被告人が極刑で裁かれても仕方がないなどという前提で弁護を引き受けてはならないだろう。

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by ksyuumei | 2006-04-25 09:51 | 社会