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「丸い四角」は存在するか

内田樹さんの「不快という貨幣」という文章のトラックバックをたどっていたら、「働かない者は人間ではない(?)――内田樹「不快という貨幣」」という文章を見つけた。その中に、「誘惑」」というエントリーの次のようなコメント欄の引用があった。


「この問題ですが、まず用語を整理するべきだと思うんですね。全く違う内容が語られていても、一見同じ言葉が用いられているので議論が混乱する、ということがしばしばあるわけですから。
まず、前にも言いましたが、内田氏の致命的な間違いは、「労働は贈与である」、などと言っている点です。そもそもの定義からして、「贈与」は見返り(対価)を求めない行為であり、だからこそ、それは市場における「売買」や「取り引き」、「等価交換」に明確に対立します。一方、近代社会における「労働」は、労働者が自らの行為を「賃金」と交換し、あるいはその生産物である「商品」を市場において「売買」する行為です。ですから、「労働は贈与である」という言明は、「丸は四角い」という言明と同様に、端的に背理なのです。
もちろん、現実には労働者はつねに資本家によって「搾取」されているのであり、労働と賃金の「等価性」はいわば幻想的なものに過ぎません。しかし、これと「贈与」における<等価交換の不在>は根本的に異なります(例えば、詐欺にあって「金を騙し取られる」ことと「自発的な寄付」がまったく異なるように)。」

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by ksyuumei | 2006-03-15 01:14 | 論理

文章読解における文法的理解と論理的理解 2

内田樹さんの「不快という貨幣」という文章に書かれている、文法的理解は出来るが、論理的理解をしようとすると妄想としか思えないような表現を考えてみようと思う。その表現の中にある論理構造を分析して、妄想ではなく整合性のある主張として理解するように努めてみようと思う。その鍵は、その表現がどのような文脈で語られているかと言うことだ。

まずは、逆説的な一見非論理的に見える表現を拾ってこよう。


「骨の髄まで功利的発想がしみこんだ日本社会において、「働かない」という選択をして、そこからある種の達成感を得る」

「「働かないことを労働にカウントする」習慣が気づかないうちに社会的な合意を獲得した」

「働かないことが労働」


ここに引用した3つの表現は、これだけを単独で文法的に理解しようとすると、常識にまったく反する意味になってしまうので、論理的には非常識な妄想のように見える。働いて何かを成し遂げるからこそ「達成感」があるのに、何もしないことにどうして「達成感」を感じられるのか。単に詭弁を弄しているだけなのではないか。あるいは嘘をついているのではないか。

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by ksyuumei | 2006-03-14 09:57 | 論理

文章読解における文法的理解と論理的理解 1

論理トレーニングをしていて、論理的な文章の読み方というものを訓練していると、これがいわゆる国語的な文法的理解とは大きく違っているのを感じる。それは一言で言うと、「文脈」と言うことなのではないかと感じる。論理的理解というのは、文脈の中に一つの文章を置くことによって、その文章の理解(解釈)が狭まってくるのである。勝手な恣意的解釈を許さないのが論理的理解だ。

一方文法的理解というのは、その文章を単独で取り上げても、一応は意味づけが出来るという理解の仕方だ。しかし、その意味は、どのような前提(文脈)でその文章を読むかと言うことが、読み手の自由に任されているので、その意味(解釈)は一つに決まらず、いくらでも違う解釈が引き出せるというものでもある。

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by ksyuumei | 2006-03-13 10:54 | 論理

論理トレーニング8 逆接の論理  練習問題2(続き)

問3 文章中、下線部の「もちろん」を受ける(テキストなので【】で囲むことにする)「しかし」を適当なところに入れ、譲歩の接続構造を図示せよ。
(1)公務員の政治活動の禁止はおかしな制度である。
  【もちろん】
(2)公務員が国民全体に対する奉仕者であって、特定政党の奉仕者ではないことは言うまでもない。
(3)行政が政党に従属し、特定政党の利益のために働くことが、いかに大きな弊害をもたらすかは、多くの国の歴史が証明している。
(4)行政の中立・公平がいかに大切なものかは強調してもしすぎることはない。
(5)この意味での行政の中立・公平と、公務員個人の政治的信条・政治的活動とは、まったく別問題である。
(6)個人の政治活動が、その公務遂行と関係ないことは常識であろう。


まず、それぞれの主張を簡単にしてみる。

(1)制度に対する批判
(2)公務員の奉仕者性の確認
(3)特定政党への奉仕の誤りの確認
(4)中立・公平の確認
(5)個人の信条と活動の違い
(6)個人の活動は仕事とは無関係

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by ksyuumei | 2006-03-11 13:23 | 論理

「任意性」についての考察 2  科学の場合

ここで考察する科学は、自然科学・社会科学両方を含むものとして考えている。両者の違いは、考察の対象に人間の意志が含まれるかどうかによっている。自然科学は、意志によっては変化しない、意志と独立の法則を持っている対象について考察する。社会科学の方は、人間の意志によって変化しうる社会というものが対象になってくる。意志の法則性は、100%解明されていないので、こちらの方が原理的には曖昧さを含むことになる。

人文科学という言い方もあるが、僕はこれは「科学」と呼べるのかに疑問を持っているので、これは考察の対象には含めない。例えば、文学と呼ばれるものは、三浦つとむさんによれば、夏目漱石がそれを「科学」にしようと思って苦労したものらしい。漱石は、文学が科学になるためには、科学としての対象をハッキリさせなければならないと考えて、文学という対象が何であるかを明確にしようとしたらしい。しかし、それには成功しなかったというのが三浦さんの判断だったようだ。

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by ksyuumei | 2006-03-10 09:47 | 論理

「任意性」についての考察 1  数学の場合

数学では、任意の対象を設定すると言うことをよくする。例えば偶数の2乗は偶数になる、ということを考えるとき、この偶数は「任意の偶数」として考えられている。何か特別な2とか4とかの偶数が、2乗してみたら4になったり16になったことを見て「偶数の2乗が偶数になった」と判断しているのではない。「どんな偶数」を取ってきても、2乗すれば必ず偶数になるという意味でこれを理解する。対象の偶数には「任意性」があるとしているのだ。

数学における「任意性」というのは、対象を集めた集合を考えたとき、その集合に属することが分かる対象であれば、どの対象を取ってきてもよいという「任意性」になる。これは、言語的な問題で言えば、言語によって条件付けしたものの全体を集合と考えれば、ある前提を設定することが集合を決定するなら、その前提の基での「任意性」というものを考えることが出来る。

「任意性」の前提になる集合が有限のものである場合、任意の対象に対して成立すると主張されている事柄は、実際に対象全部を調べてみればそれが正しいかどうかが分かる。「10以下の任意の偶数について」などといったときは、「2,4,6,8,10」という5つの偶数について調べれば、この前提の元での「任意性」は確認される。

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by ksyuumei | 2006-03-09 10:23 | 論理

論理トレーニング7 逆接の論理  練習問題2

問1
(1)日本人は世界に対して美的態度を取る傾向が強い。
  (a)[たしかに/ただし]
(2)この美的というのは必ずしも芸術的ということを意味してはいない。
  (b)[しかし/むしろ]
(3)情緒的な感動を持って最高の境地とし、最後の解決とするというほどの意味である。
(4)こうした美的態度=情は、日本文化に著しい特徴であろう。


まずはそれぞれの主張をまとめてみる。

(1)日本人の美的態度の強さを語る。
(2)上の美的態度は芸術的ということではない。
(3)上の美的態度は、情緒的な感動が最高だという意味だ。
(4)この美的態度は、日本文化の著しい特徴だ。

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by ksyuumei | 2006-03-08 10:01 | 論理

「疑惑」に関する雑感

浅井久仁臣さんの「私の視点 ブッシュ訪問の裏にあるもの」というエントリーに、次のような文章があった。


「印パ両国のブッシュ政権に対する貢献度を見れば、ブッシュ大統領にとってどちらの国を優遇すべきかは、今さら言及する必要もなかろう。911以降のムシャラフ政権の対米協力なくしてはアフガニスタンの“解放”はありえなかったからだ。イスラーム世界を敵に回してブッシュ政権に付くことは、半ば自殺行為である。それを敢えて行なったムシャラフ氏の目の前にどれだけすごいニンジンがぶら下げられたか想像に難くはない。」


ここで浅井さんが語っているのは、アメリカがパキスタンに与えたであろう利益があったという「疑惑」だ。この「疑惑」には、何も根拠が語られていない。それは当然のことで、根拠がハッキリしていれば、それは「疑惑」ではなく「事実」になるからだ。

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by ksyuumei | 2006-03-07 10:49 | 論理

難しいことを理解すること

小泉さんの言葉は、非論理的ではあるけれどわかりやすいという評判だ。複雑な背景を持った事柄を、単純な言葉で断言してしまうところにわかりやすさがあるが、複雑な背景をすべて無視してしまうところに非論理性が表れてくる。

例えば靖国参拝問題にしても、すべてを心の問題にしてしまい、外交の問題や歴史の問題を、無視しうるものとして判断して正当化しようとする。質問が、心の問題以外の所に及んでも、それに対する見解を語ることはなく、あくまでも心の問題として処理しようとする。

これを心の問題として処理すれば、単純化されて、それにしか関心がない人にはまさに拍手喝采ということになる。しかし、この論理は、靖国参拝に関して心の問題以外は無視しうるという世界を設定して、その世界の中だけでしか通用しない論理となる。つまり、現実の世界を対象にしているのではなく、抽象的な、自分に都合のいい世界を設定して、その世界の中では正しいではないかと主張する詭弁なのだ。

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by ksyuumei | 2006-03-07 09:46 | 論理

世論調査の信頼性

アッテンボローさんの「毎日新聞世論調査に異議あり」というエントリーを読んで、世論調査についてマル激で語られていたことを思い出した。その時に語られていたのは、世論調査における統計的な誤差についてだった。

統計というのは、あくまでも全体への推計を提出するものであって、ある標本集団(世論調査をした対象の人々)の分布が、そのまま全体の分布になるものではない。そこにはいつでも誤差というものが現実には伴う。その誤差を認識して世論調査を見なければならないと言うものだった。

統計的な意味での誤差というのは、世論調査が技術的に問題がないとしても、数学的に存在するものであるからゼロにすることは出来ない。これに加えて、世論調査そのものが技術的に問題があれば、数学的誤差以上に信頼性が低下することは間違いない。このあたりの技術的な問題は、質問が不適切であるという指摘でアッテンボローさんが語っていた。

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by ksyuumei | 2006-03-06 09:31 | 論理