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二流問題の考察--簑田胸喜の場合(その3)

「蓑田胸喜の時代」に記述された資料の考察を続けようと思う。まずは、北一輝に対する批判があるので、ここから簑田の具体的思想が読みとれる。僕は北一輝についてはよく知らないのだが、一流の匂いのする人間だと感じる。その一流かも知れない人間に噛みついている簑田の批判が、真っ当な本質を突いているものなら、簑田も同じ一流だと言えるかも知れない。しかし、それが的はずれなものだった場合、そこから思想の二流性も結論される。


「一、『改造』思想は『破壊』思想である

社会は『改造』し得るであろうか?社会の原素は『人間』である。人体または人心は『改造』し得るであろうか?改造を要するものは道具機械の類と雖も積極的価値を有せざるものであるが、生命精神にとっては『改造』はそれ自体その生機の破壊の破壊であり、価値の滅却である。雑誌『改造』は十五年の歴史を似て日本の国家社会に何の積極的建設的貢献をなし得たか?破壊!唯破壊!である、それ以外の何事もなさなかった。『改造』思想は『破壊』思想であり、社会『改造』は社会『破壊』である---ということは理論ではなく事実である。『改造』を要する社会は『改造』の要なき、既にその価値なき社会であるといおう。北一輝氏の『日本改造法案大綱』は『改造』の一語にその消極的価値を自ら不随意に露呈しているのである。」

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by ksyuumei | 2006-03-22 11:46 | 雑文

二流問題の考察--簑田胸喜の場合(続き)

「蓑田胸喜の時代」から、考察の目的のいくつかが理解出来るようになった。その思想の二流性は、理想が高潔なものでありながら、実現する手段が安易な方向のものであり、「観念論的妄想」と呼んでもいいような愛国・天皇賛美から発しているところにあると僕は感じる。

ただ、思想の二流性にもかかわらず、人格の高潔さが大衆的支持を得る可能性も感じた。このあたりがプラスの評価とマイナスの評価に関わる部分だろうか。真面目な狂信者というのが、ポピュリズムを獲得した場合に、実に恐ろしい存在になると言うことの一つの例ではないかと僕は感じる。ヒトラーなども、その本質は非常に真面目で愛国的だったのではないかと思う。

佐高信さんの言葉でを借りると、小泉さんは「クリーンな鷹」と言うことになる。思想的には二流であっても、このクリーンさがポピュリズムの対象になる。恐ろしい存在として君臨しているのではないかとも思う。二流の問題の考察は、そのような意味でも極めて現実的な今の問題と関わっている。

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by ksyuumei | 2006-03-21 09:42 | 社会

二流問題の考察--簑田胸喜の場合

「『狂気乱舞』」と題されたページに、簑田胸喜に関する膨大な資料がある。ここに書かれている簑田胸喜の姿を考察することによって、二流問題というものを考察してみようかと思う。考察のポイントは次のような所だ。

1)思想の二流性(本質からはずれた末梢的な部分の考察になっていないか)
2)権力の獲得(思想としては二流なのに、なぜ権力を獲得出来たか)
3)一流の学者に対する攻撃性(どのようなルサンチマンが積み重ねられて、このような行為につながるのか)
4)マイナスの評価だけではなく、プラスに評価出来る部分があるのか(その評価がマイナスだけだったら、多くの人が支持することの理由が分からない。もしマイナスの評価しかしなかったら、それを支持した多くの人は単なる馬鹿だったとしか結論出来なくなる。それはあまりにも浅はかな見方だと思うので、人々がどの面を高く評価して、全体としても優れていると錯覚してしまったのか、その点を考えたい。)

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by ksyuumei | 2006-03-20 10:29 | 雑文

一流の学者と二流の学者をどこで区別するか

この区別は、僕の場合はかなり直感的に、いわば匂いをかぐようにして判断している。それだけに、それを言葉にして説明するのはかなり難しさを感じる。例えば、僕は、宮台真司氏を「超」がついてもいいくらいの一流の学者だと思っている。それは、初めて宮台氏の文章に接して、その1行目を読んだ瞬間にすぐにそう思うようになった。

これはすごい、という感覚はいったいどこから生まれてきたのだろうか。その論理が非常に明晰だという感覚はあった。論理展開に疑問を感じるようなところが一つもなかった。書かれていることがすべて正しいとしか思えないのだ。難しくて理解が出来ない文章も中にはある。しかし、理解出来た文章はすべてその正しさが理解出来る。宮台氏の文章はそういう文章だった。

宮台氏の印象では、もう一つその表現の的確さが深く残っている。宮台氏が語ることが、すでに自分でも考えたことのあるものだった場合は、それは非常にわかりやすい。それと共に、宮台氏に表現してもらうことによって、それまでぼんやりとしか理解していなかったことが、ハッキリとよく分かるようになった。

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by ksyuumei | 2006-03-19 23:59 | 雑文

二流問題

二週間前に、マル激トークオンデマンドでは、神保哲生氏の小学校時代の同級生という『拒否出来ない日本』(文春新書)の著者の関岡英之さんをゲストに招いて議論をしていた。その議論の中で「二流問題」というものが提出された。

例えば竹中大臣は、学者が政治家として登場したと言うことで話題になったが、学者としてはアカデミズムの世界では二流という評価だったそうだ。だが、学者としては二流であっても、経済政策を担当する政治家になり、強大な権力を持つことになれば、その影響というものは計り知れないものになる。

本来ならば、一流の学者の方が正しい判断が出来、現実的にも影響力を持つべきだと考えられる。しかし、学問的な正しさと権力の大きさが比例しないため、必ずしも現実的な政策などでは正しい判断が選ばれない。むしろ、ある種の利権に奉仕するような判断が、学問的な装いを持って提出されて、それに詳しくない大衆は、権力の権威とマスコミの宣伝によって、その二流の判断が正しいと錯覚してしまう。

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by ksyuumei | 2006-03-19 20:37 | 社会

マル激の議論を論理的に理解してみる

2週間前にマル激で配信された『拒否出来ない日本』の著者・関岡英之氏を迎えての議論が気になって、もう10数回繰り返して聞いている。論理トレーニングの応用問題として、ここで展開されている議論の分析というものをしてみようかと思う。まずは、議論されている事柄を拾い出して、その構造を分析し、主題となる主張を中心に議論の構造というものを理解していこうかと思う。

議論のテーマを箇条書きにすると、次のようなものではないかと思われる。

1) 建築基準法問題
   どういう勢力が、どういう動機で動いて、何が行われたのか。
   日本の制度改革が、アメリカの仕組みをそのまま持ってきているようになっているのが、実は失敗ではないのか。
   利権を巡る勢力争いにおいて、アメリカの力を借りることが有利な背景がある。そのため、正当性を巡る争いではなく、たとえ不当であっても利権さえ手に入ればいいという方向へと改革が流れている。建築基準法で言えば、建築として正しいかどうかよりも、基準さえクリアしていれば何でもいいという方向になっている。

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by ksyuumei | 2006-03-18 15:24 | 論理

誤読の原因

内田さんの次の言葉


「自分は「他者からの贈与」に依拠して生きているが、自分が「他者への贈与」の主体になること(それが「労働」ということの本質である)を拒否する。」
「2005年05月19日 資本主義の黄昏」


を誤読する人がかなり多いらしい。ここに書かれていることを<「労働」とは「贈与」である>と解釈する人が多いようなのだ。この文章が

  「労働」=「贈与」

という等式を表しているとする解釈は、僕にはどう考えても出てこない。しかし、これをそう誤読する人がいると言うことは、どこかに原因があるはずだ。それはいったいどこにあるのか考えてみよう。

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by ksyuumei | 2006-03-18 09:24 | 論理

論理トレーニング 10  議論の構造

「順接の論理」「逆接の論理」では、個々の短い主張の関係を「順接」と「逆接」というもので分析していた。これは、議論の部分に注目するもので、数学で言えば「微分」に当たるようなものと言えるだろうか。変化を解析するときに、「部分」に注目して、短い単位での変化に注目しているという感じだ。

この章で注目している「構造」というのは、その部分を寄せ集めて全体を把握するという感じになる。数学で言えば「積分」という感じになるのだろうか。実際の議論が実りあるものになるかは、この構造の把握が正確に出来るかどうかにかかっていると言ってもいい。

構造というのは、議論の中心になる主題を教えてくれる。相手の主張の中心が何かというのは、構造を捉えないと分からないのだ。もし、構造的に言って中心になっているようなテーマではなく、部分で論じている、全体の中心のために必要な一部にこだわった議論になれば、相手にとってはそれは末梢的な部分にこだわっているようにしか見えないだろう。

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by ksyuumei | 2006-03-17 09:48 | 論理

「賃金」と交換されるのは「労働」なのか

Kawakitaさんの「内田樹氏のエントリー「不快という貨幣」関連の言説は「俗流若者論」か?」というエントリーに引用されているコメントの中に次のような表現がある。


「そもそもの定義からして、「贈与」は見返り(対価)を求めない行為であり、だからこそ、それは市場における「売買」や「取り引き」、「等価交換」に明確に対立します。一方、近代社会における「労働」は、労働者が自らの行為を「賃金」と交換し、あるいはその生産物である「商品」を市場において「売買」する行為です。ですから、「労働は贈与である」という言明は、「丸は四角い」という言明と同様に、端的に背理なのです。」


この中の「丸は四角い」という表現に関連して批判をしたのが前のエントリーだったが、今回は「近代社会における「労働」は、労働者が自らの行為を「賃金」と交換し」という主張を批判的に検討しようと思う。この主張から、表題のような疑問が生まれるのだが、それを先に解答しておけば、

 <「賃金」と交換されるのは「労働」ではない。「労働力」の方である>

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by ksyuumei | 2006-03-16 10:27 | 雑文

論理トレーニング9 逆接の論理  練習問題2(続き)

問5 「」内から適切な語を選び、その接続構造を図示せよ。
(1)イソップの寓話の犬は、池に映った自分をもう一頭の犬と思い込む。
(2)肉のかたまりを加えたもう一頭の犬。
(3)これは自然な錯覚であるが、
  (a)「しかし/ただし」
(4)この鏡が「深さを持つ鏡」であったところに、この寓話の成り立つ条件があった。
  すなわち、
(5)鏡像に向かって吠え立てたとき、獲物は鏡の底に失われてしまう。
(6)このまことに現実的な損失は犬にとって不可解なものであったに違いない。
(7)なにやら腑に落ちぬままに、
  (b)「しかし/ただし」
(8)たしかな喪失感を口中に噛みしめながら、すごすご彼は池から立ち去っていく。
(9)イソップ寓話のこの犬は現実的な生活者に過ぎない。
(10)彼には錯覚はあっても幻想はない。
  これに比べると
(11)仏典に語られている猿などは遙かに徹底していて、
  むしろ
   幻想の域に達している。
  というのも、
(12)そこでは500頭もの猿たちが水に映る月影を求めて、次々と水中に落ちていくからである。

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by ksyuumei | 2006-03-15 09:58 | 論理