<   2006年 03月 ( 45 )   > この月の画像一覧

論理的に考えられた論理の「出発点」

内山節さんの『貨幣の思想史』を読んでいたら、ウィリアム・ペティが国家の富を論じた部分で、その論理の出発点となるものを、実に見事に論理的に考えている部分を発見した。この出発点は、情緒をまったく排して、徹底して論理的な考察をした結果として導かれている。それだからこそ極めて説得力があるように僕には見える。

ペティの問題意識は、当時オランダに押され気味だったイギリスの国力を増加させるところにあった。国力の増加には国家の富を増やすことが必要だと考えたのだ。これは極めて論理的な展開だ。

  国家の力が大きい →(ならば) 国家の富が大きい

と言う仮言命題が正しいと考えるなら、国家の富の増大は、国家の力の増大の「必要条件」になる。これなしには国家の力の増大は考えられないものになる。なぜなら、この対偶を取ると

  国家の富が大きくない →(ならば) 国家の力が大きくない

More
[PR]
by ksyuumei | 2006-03-27 12:11 | 論理

『国家の品格』の二流性 3

『国家の品格』では「重要なことは押しつけよ」(49ページ)という議論が展開されている。これは理由なしに正しいことがあるという前提から、それは押しつけることこそが正しいという主張をしているのだと思う。これは一種の「パターナリズム」というものだろう。

「パターナリズム」というものは、僕は嫌いなのだが、一定の条件の下でそれが正しくなることもあると思う。これは、本人の自己決定権という意志の自由に反して、他人が何らかの決定をしてやることになる。それは、例外的に正しくなる場合があると理解しなければ、自己決定権を侵害することになるだろう。

例外的に正しくなる場合とは、本人の決定よりも、専門的な知識を持っている他人が判断する方が絶対的に正しい決定が出来るという場合が一つだ。これは、患者が医師に治療法の決定をゆだねる場合などがそれに当たるだろう。しかし、この場合でも、その医師に決定をゆだねるかと言うことは自己決定的に行わなければならない。どの医師に相談した方がいいと言うことまでは押しつける正当性はないだろう。この場合は「絶対的」と言うことが条件のポイントになる。「絶対的」ではないときは、押しつけには正当性がなくなると僕は思う。自分の判断で、たとえ結果的に失敗をしたとしても、それは失敗することさえ権利の一つだと僕は考える。

More
[PR]
by ksyuumei | 2006-03-27 09:55 | 雑文

「贈与」の考察 2

ジョン・ロックについて調べようと思って図書館で借りた本の中に『貨幣の思想史』(内山節・著、新潮選書)という本があった。これがなかなか面白かった。人間にとって貨幣がどういう意味を持っているのか、なぜ貨幣を求めるのか、というのを考察している。内山さんは経済学者ではなく哲学者なのだが、貨幣そのものの考察ではなく、人間にとっての貨幣の意味を考察するという点では、内山さんが哲学者であったが故に面白い視点を語れたのではないかと僕は感じた。

この本の第一章の冒頭に次のような記述がある。


「言うまでもなく、部分的な交換財としての貨幣の成立も、稀少物質や何らかのものが貨幣と同じように交換財として利用されるようになった時代も、遙かに昔まで時代を遡らなければならない。だがそのような貨幣は、本書の対象外である。なぜなら中世後期に入って、都市社会から今日に受け継がれていく「近代的貨幣」が登場してくるまでは、貨幣は交換のある部分を担っているに過ぎず、富の絶対的な価値基準ではあり得なかったからである。よく知られているように、それまでの農村共同体内では、交換は共同体的慣習に従って主として贈与の形で行われていたのであり、この形は中世都市でも領主と騎士の間などでしばしば行われていた。貨幣は近代的な商品経済が台頭してくるまでは、普遍的な流通財ではあり得ず、すべてのものを購入出来る普遍的な商品としての機能を確立してはいなかった。とすれば、貨幣が富の絶対的な価値基準になり得たはずはない。」

More
[PR]
by ksyuumei | 2006-03-26 13:06 | 雑文

『国家の品格』の二流性 2

内田樹さんは、「藤原さんの言っていることのコンテンツについては、ほぼ95%私は賛成である」と語っていた。そういう意味では、この本はごく常識的なことを語っていると思う。それは、見方を変えれば、常識を越えるような「目から鱗が落ちる」というようなことは語っていないと言うことだ。そこのところに僕はまた二流性を見る。

常識的に多くの人に賛成してもらえることで、ちょっと日本人の自尊心をくすぐってくれるような心地よい言葉にあふれていれば、大衆的な人気は得やすいのではないかと思う。これは、一流の人間の斬新な視点が理解されるのに時間がかかるのと比べると、今すぐに理解されてポピュラーになるという点では、二流性の故にベストセラーになったと言えるのではないだろうか。一流の言説は、時代を超えているだけに、その時代の中で理解されるのが難しい。時代がようやく追いついたときに再評価されることになるだろう。

More
[PR]
by ksyuumei | 2006-03-26 10:24 | 雑文

「贈与」の考察 1

内田さんが<「労働」は「贈与」である>と主張している、と誤読する人たちがたくさんいるのだが、これは、「2005年05月19日 資本主義の黄昏」の中の「自分が「他者への贈与」の主体になること(それが「労働」ということの本質である)」という言葉を誤読したものだと僕は思っている。

僕は、この誤読の最大の原因は、「本質」と言うことが理解出来ていないからだと思っている。それは、誤読する人たちが、「本質」という言葉を使わずに表現していることから推測した。「本質」という言葉を使えば、誤読した言葉は、

  <「労働」の「本質」は「贈与」である>

という言い方になる。これも誤解されそうな難しい内容を含んでいるが、<「労働」は「贈与」である>という非論理的な表現よりはよっぽど考察の対象となるものになる。そして、この場合にこの言葉の内容を深く理解しようと思ったら、「贈与」という言葉に対する深い理解がなければならないことに気がついた。

More
[PR]
by ksyuumei | 2006-03-25 16:59 | 雑文

『国家の品格』の二流性 1

二流性を考察するなどと言うと、何か悪口を言っているように感じる人もいるかも知れない。これが、まともな論説になるのは、感情的なすっきり感を持つための考察ではなく、あくまでも冷静な論理的考察にならなければならないと思う。

そもそも二流と言うことにはそれほど悪い価値があるわけではない。誰でも一流の面をもっているし、同時に二流の面ももっている。一流の面は、表面に現れた末梢的な「現象」だけでなく、隠された「本質」を解明出来るだけの能力に関係した部分だ。誰でも何らかの得意分野では一流の面をもっているだろう。

しかし、それほど深く考えず、感情の流れにまかせて判断している事柄は、やはり二流にならざるを得ないだろうと思う。僕は、ある言説が論理的に正しいかどうかと言う判断では、一流の技術を持っていると自負しているが、例えばある歌が芸術的に優れているかどうかと言う判断においては二流の判断しかないと感じる。それは、歌の場合の判断は、単純に好きか嫌いかという判断しかしていないからだ。それがいかに優れているかと言うことを、その本質に迫るような深さで捉えてはいないからだ。

More
[PR]
by ksyuumei | 2006-03-25 13:47 | 雑文

定義の問題

Kawakitaさんの「内田樹氏のエントリー「不快という貨幣」関連の言説は「俗流若者論」か?」というエントリーに書かれている「労働」の定義について、それは論点先取の間違いではないかという批判があるようだ。Kawakitaさんは、「労働」を「生み出した価値に対して、得られる対価が低いこと」と定義している。

この定義には、定義そのものに、Kawakitaさんのもう一つの主張である「内田氏は「労働とは常にオーバーアチーブメントの非等価交換である」と明確に述べています」と言うことの内容が含まれているように見えるからだ。「労働」をこのように定義すれば、それからすぐに「労働とは常にオーバーアチーブメントの非等価交換である」と言うことが導かれる。これは定義そのものと論理的に同値になるからだ。

ある主張をしたいときに、その主張が含まれているような定義を出発点として論証をするなら、それはどのような主張でも証明出来ることになる。しかも、それは言葉の上で(形式論理的に)証明出来るので、現実を観察する必要がない。現実と無関係に、現実と関わりのある主張を証明しようとすれば、普通はそういう主張は空理・空論と呼ばれる。Kawakitaさんの定義は、本当に空理・空論として批判されるべきものなのかということを考えてみたい。

More
[PR]
by ksyuumei | 2006-03-25 10:48 | 論理

学者の一流性の考察

今週配信されているマル激のゲストは、青山学院大学教授で、分子生物学が専門の福岡伸一さんだった。僕は、福岡さんという人を、このマル激で初めて見たのだが、この人に一流の匂いを感じた。この匂いはどこから感じたものだろうかというのを反省してみたいと思う。まずは、マル激で福岡さんの発言を巡って語られた内容を箇条書きにしてメモしておこう。

More
[PR]
by ksyuumei | 2006-03-23 10:30 | 雑文

弁証法の有効性

三浦つとむさんは、弁証法(唯物弁証法)について多くの文章を残しているが、三浦さんの専門は論理学ではない。三浦さんが専門的に研究してきたのは言語の方で、特にその基礎になる認識との関係を構造的に明らかにする理論の構築に努力してきた。未だに言語学の分野では認識との立体的な構造を過程的に解明した理論はないのではないかと思う。三浦さんの先駆性を感じるところだが、この過程的構造の解明には、優れた弁証法の能力が必要だ。

三浦さんは、専門分野での研究に、弁証法という道具が大きな威力を発揮することを経験して、この道具の有効性についてたくさん書き残したのだと思う。弁証法は、あらゆる現実対象の分析に役に立つ。だから、弁証法が駆使出来る人間は、現実の問題でまだ解明されていない問題に、その解決の方向を示すようなヒントに気づくようになる。

この弁証法の神髄を受け継いだのが仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんだ。板倉さんは、弁証法は、現実と無関係に言葉の上で展開しようとすると詭弁になると語っていた。これは、形式論理などの論理一般についても言えることで、その対象にふさわしい論理が使えなければ、対象を間違えた論理は詭弁になる。

More
[PR]
by ksyuumei | 2006-03-23 09:38 | 論理

一流の学者の条件

一流の学者について、仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんは、「哲学的な科学者」と言うことを語ったことがあった。ここで言う「哲学的」とは、板倉さんが語る意味での「哲学的」と言うことであって、普通一般に辞書的な意味で語られている「哲学的」ではない。

板倉さんは、「科学」というものを「科」の学問として定義する。それは狭い範囲での法則性を求めるものだが、それが狭い「科」に限定されることによって、法則性の正しさが判定されると考えるのだ。もしも、広い範囲にわたって法則性を求めると、例外が多すぎてとても法則性と呼べるものではなくなってしまう。

板倉さんが語る「科学」とは、ある条件の下で「真理」が確定されるというようなものだ。その条件が厳密に求められていれば、それは「科学」としての信頼性が高いと判断される。

More
[PR]
by ksyuumei | 2006-03-22 15:46 | 雑文