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公文書か私文書か

「百条委、論点整理の全議事録」で議論されている、公文書か私文書かという議論はなかなか興味深い。それは、各議員が語っている論理が、論理として真っ当であるかどうかが極めて明瞭に判断出来る形で提出されているからだ。

ここで問題にされているのは、「田附保行証人の私的メモ」が、公文書に値するものかどうかと言う「事実」だ。もしこのメモが公文書だとすると、「田附保行証人が「私文書」及び「私的メモ」と証言したことは偽証と認定することが妥当」になるからだ。しかも、このメモが、後に田中知事が廃棄するように指示したものと考えられてもいるようだ。

この議論は、今度の告発における中心をなすくらい重要なものだと思われるのだが、考察に先立って、一般論として「公文書」と「私文書」について考えておきたいと思う。僕は、何が「公文書」であるかは、極めてハッキリとしたルールによって決められているのではないかという気がしてならない。つまり、そのルールに従っているかどうかで、「公文書」であるかどうかは、形式論理的に決定されるようなものではないかと感じている。

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by ksyuumei | 2006-03-31 23:22 | 政治

事実と解釈の混同

「百条委、論点整理の全議事録」に、論理的になかなか興味深い記述がいくつか見つかったので考察してみようと思う。まずは、15番目の平成15年2月17日、下水道課の問題というもので、「不可解な政策決定がなされたという事実」を巡る議論だ。

これは、「公共下水道の佐久南部が3年に1度の入札時期を迎えることについては、どういった対応をすればいいのかという問題」で、「土木部からの問に対する回答は、近藤証人が作成したというものの、小林誠一氏や田中知事に確認をとったのかについては、誰の記憶にもなく」と言うことが「不可解な政策決定」という判断がされている。

これは、「不可解」などと言う不可解な言葉を使って表現することがまず間違いだろう。どうとでも解釈可能な表現で対象を表現すれば、これは事実として認定出来るはずがない。「不可解」だというのは、客観的に決められるのではなく、そのような印象を持ったと言うことを示しているだけだ。

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by ksyuumei | 2006-03-31 21:50 | 政治

百条委の議論を分析してみた

百条委の記録を、とても全部読む気にはなれなかったので、「百条委、論点整理の全議事録」のみでちょっと考えてみようと思う。

これは、2006年2月8日、長野県百条委員会の全議事録らしい。百条委の記録そのものは、膨大な量に上り、この中から本質的な部分に関わっているだろうというものを探し出すだけでもたいへんだ。そこで、それはこの記録を作った青山さんという方にまかせて、たぶんこの記録に、かなり本質に関わることが書かれているだろうという期待で読んでみようと思う。

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by ksyuumei | 2006-03-31 20:49 | 政治

『国家の品格』の二流性 6

ロックに関連させて、資本主義的な価値である「自由」「平等」「民主主義」などを批判した第三章の検討をしてみようと思う。この章では、ロックについて次のような記述がある。


「著書中に「人間は生まれながらにして完全な自由を持つ。人間はすべて平等であり、他の誰からも制約を受けない」とも記しました。
 そして、個人は自由に快楽を追求してよい、全能の神が社会に調和をもたらしてくれるから、と述べました。何と無責任でデタラメな発言でしょう。ロックこそは、自由主義、功利主義、近代資本主義の粗と呼んでも過言ではない人です。」


これは、ロックに対する誤解から生まれた解釈ではないかというのが僕の感想だ。ロックという人物を理解しようと思ったら論理的に理解すべきだと思う。ロックは、国が違えば時代も違うという、現代日本人とはまったく感覚の違う人間だ。その人間を、現代日本人の感覚で、情緒的に理解したら、誤解しない方がおかしい。

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by ksyuumei | 2006-03-30 11:35 | 雑文

発端となった事実はどういうものなのか

長野県の田中知事が告発された発端となった、下水道事業の入札制度変更の問題というのは、具体的にどういうものなんだろうか。偽証という部分の報道はたくさんあるのに、肝心のこの問題に関して詳しく報道したものが見つからない。偽証かどうかの判断には、この問題がどういうものであるかが本質的に重要なのに、どこもこの問題を正確に報道してくれていない。

インターネットを検索しているうちに気になる記事を見つけた。「2006年02月10日 田中知事の証言を偽証認定  長野県議会の百条委」によれば、

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by ksyuumei | 2006-03-30 09:21 | 政治

イデオロギーとしての経済学

マル激の中で宮台氏が語った、「経済学はイデオロギーである」と言うことが気にかかっていた。それは、「科学(サイエンス)ではない」という意味での指摘だった。サイエンスとイデオロギーの違いはどこにあるだろうか。

サイエンスというのは、その法則性が任意の対象に対して成立すると言うことが基本にある。それに対して、イデオロギーとは、ある特定の立場を設定して、その立場からの対象について成立する法則性を問題にするように感じる。イデオロギーとは、辞書によれば次のような意味を持っている。


「1 政治・道徳・宗教・哲学・芸術などにおける、歴史的、社会的立場に制約された考え方。観念形態。

 2 一般に、思想傾向。特に、政治・社会思想。」

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by ksyuumei | 2006-03-29 16:57 | 雑文

偽証はどのような論理によって証明されるか

長野県の田中知事が、偽証の疑いで告発されたという。偽証の中身は、「田中知事を偽証告発へ 長野県議会」というニュースによると、


「偽証があったとされたのは、情報公開請求があった公文書を県職員が破棄した問題をめぐる証言など。公開を求められた公文書には、知事後援会元幹部が二〇〇三年春、下水道事業入札制度で県内業者を優先するよう働き掛けた経緯が記録されていたが、請求後に県職員が破棄した。

 疑惑のため、県議会は昨年七月、百条委を設置。公文書を破棄した県参事(当時)は同委で田中知事の指示を受けて破棄したと証言したが、田中知事は同年九月二十六日の証人尋問で「私からの指示はない」と否定した。百条委は今月二日、一連の疑惑に対し、知事として不適切な行為があったと結論付けた。

 この日の本会議の提案説明で高見沢敏光氏(志昂会)は「知事は破棄の報告を逐一受けながら中止していない。破棄の実行を容認し、言外において指示したと考えられる」と指摘。指示を否定した知事証言は偽証に当たるとした。「推測は成り立つが告発の根拠にはなりえない」との反対意見もあったが、賛成四十一、反対十三で可決した。」

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by ksyuumei | 2006-03-29 13:06 | 政治

『国家の品格』の二流性 5

藤原さんは、第三章「自由、平等、民主主義を疑う」の冒頭で、「論理だけでは人間社会の問題の解決は図れない」という主張をしている。これはある意味では正しい。しかし、正確な言い方ではない。正確には次のように言わなければ正しくないだろう。

<人間社会のすべての問題>に対して

 ・一部は形式論理で解決出来るが、解決出来ない問題もある。
 ・一部は弁証法論理で解決出来るが、解決出来ない問題もある。
 ・その他、対象にふさわしい論理で解決出来る部分もあるが、それでもなお解決出来ない問題もある。
 ・そもそも、解決と言うことが必要でない問題もある。

これは、論理はいろいろと限界があるが、限界の範囲内では十分役に立つと言うことでもある。論理に解決出来ない問題があるからと言って、そのことから論理がだめだという判断は出てこないのである。これは、科学を否定する低俗な批判が、科学に限界があることから科学の否定を結論しようとする考え方と似ている。実際には、科学に限界があっても、その限界を自覚出来るからこそ科学は素晴らしいのである。

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by ksyuumei | 2006-03-29 09:48 | 雑文

理論(論理)の目的とそのための抽象(捨象)の関係

内田樹さんの主張を、<「労働」は「贈与」である>と誤読している人に対しては、もっとよく理解してからもう一度考えてね、と言う感想しか持たないが、uprimeさんの「「定義の問題」へのコメント」の中にあった、抽象(捨象)と理論(論理)との関係に対する疑問については、よく考えてみる価値のあることではないかと感じた。

内田さんへの批判者は、そのほとんどは誤読からの批判であると僕には感じられていたが、uprimeさんの指摘は、論理的なものとしてはやや厳密さを欠いてはいるものの、感情的な反発を感じるという事実についてはよく理解出来るものだった。それは、自分たちが大事だと思っている現実の問題を、内田さんが捨象して無視しているように見えるので、そのような抽象論など価値がないと思えるという指摘だと僕は理解した。

これは問題意識の違いから生ずる感情だから、このように思うのはある意味当然のことでもあると思う。僕にも、そう思うようなときはたくさんある。特に、二流の言説だと思うものは、本質を語らず、末梢的なものに流れていて、大事なことを論じていないではないかと思うことはしばしばだ。

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by ksyuumei | 2006-03-28 09:41 | 論理

『国家の品格』の二流性 4

「論理は長くなり得ない」(55ページ)と言う記述の内容を批判することにしよう。ここでの二流性は、この議論が俗受けしやすい、論理(理屈)の攻撃になっているところだ。長い論理は屁理屈の代表のように語られ、短い論理は、短絡的な強弁のように非難されている。確かに長い論理には屁理屈であるものも存在するし、短い論理には、何も考えずに現象だけを見て判断しているようなものもある。

しかし、最初からそういう低レベルの論理を挙げておいて、だから論理はだめなのだという結論に導いていくのは、それこそ詭弁という名のご都合主義的論理だ。論理が長くなるのはどういう場合なのかをもっと深く考察し、長さ故に論理がだめになるのか、それとも他の理由の方が大きいのかを考えなければならない。そうすれば、長さというのは現象的・末梢的な属性であって、論理がだめになるのは他の原因の方が本質的であることが分かるだろう。

藤原さんは、数学を取り上げて、数学の論理は必ず各ステップが正しいという、正しさの確率が1だから、どんなに長くなっても、全体の正しさの確率もそれをかけ算した1になるから、それは長くなってもいいのだと説明する。しかし、数学以外の、世の中のことを対象にした論理では、正しさの確率が1にならないから、長くなればなるほど、正しさの確率は小さくなってしまう。だから、長い論理はだめなのだという展開をしている。

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by ksyuumei | 2006-03-27 22:22 | 雑文