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パターナリズムの正当性

今週配信された神保哲生・宮台真司両氏のマル激トーク・オン・デマンドの終了部分で、宮台氏が「パターナリズム」というものについて語っていた。宮台氏はこれを「父性的温情主義」という日本語で語っていたが、日本社会に基本的に貫かれている原理としてこれを指摘していた。「パターナリズム」という言葉を聞いたことが初めてだったこともあり、これは新鮮な感じがした。

「パターナリズム」で語られている内容そのものは良く経験するものだし、それを理解することは難しくない。宮台氏が語っていたように、それは「愛」の形の一つであり、相手の主体性をどう考えるかと言うことから行為される「愛」と言うことになる。

普通「愛」と言えば、相手の喜ぶこと・相手が欲することを実現するために努力する行為と結びつく。相手がいやがる行為をするのは、自分勝手な行為であり本物の「愛」ではないと言われる。しかし、「パターナリズム」は表面的には相手がいやがることをするのであるが、それを「愛」だと呼ぶことになる。たとえいまは相手がいやがろうとも、結果的には相手のためになることをするのだ、と言う強い信念に基づいて行動することになる。

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by ksyuumei | 2006-02-21 09:12 | 社会

「論理」とは何か

僕は「論理」というものの定義を、世界の持っている法則性を捉えたものと考えている。世界というのは、自分が存在している環境の一切を含む対象だ。この環境は具体的な物質的存在もあるし、主観の中の存在も自己と区別出来るものは環境という世界として捉える。

この世界の法則性のうち、言語が持っている法則性を捉えたものに形式論理と呼ばれるものがある。形式論理は、表現の形式の法則性を捉えたものであるから、存在を対象にしてはいない。それは言語による表現と関わるものだ。だから、形式論理では存在の内容に関しては何も語ることが出来ない。それを捨象して、表現に現れてくる形式のみを考察の対象とするからだ。

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by ksyuumei | 2006-02-20 10:03 | 論理

物事の論理的順番

「<堀江メール>自民、民主両党の全面対決は週明けに」というニュースで報道されている内容がなかなか興味深い。民主党は、自らの主張の証拠固めとして、「国政調査権の発動による資料提出を求める方針」を提出したようだ。しかし、自民党はこれに反発して、「「挙証責任は民主党にある」と拒否する構え」を見せている。

民主党の主張は

  メールの信憑性を確保するために「国政調査権の発動」が必要

というもので、自民党はそれに対し

  メールの信憑性を証拠立てるものがなければ「国政調査権の発動」には反対

という反応をしている。果たしてどちらの方が、論理的には真っ当な主張といえるのだろうか。僕には、民主党の主張の方が論理的な順番としては真っ当な感じがしている。それは、政治家のプライバシーをどう捉えるかという問題と関係していると思われる。

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by ksyuumei | 2006-02-19 09:50 | 社会

「事実」を考察する上での気になる事件

報道されたニュースで、「事実」を考える対象として興味深いニュースを二つ見つけた。一つは「堀江メール」と呼ばれるようなもので概要は「<衆院予算委>堀江被告、武部氏二男に3千万振り込むメール」というニュースに語られている。

これは、民主党が指摘する「事実」と、それを否定する自民党が語る「事実」とがまったく正反対の対立をしているところに特徴がある。視点を変えれば、どちらにも解釈出来るという解釈の問題ではない。どちらか一方の主張が正しければ、もう一方は否定されるという形式論理的な関係にある。

民主党の主張「堀江氏が武部氏の次男に3000万円を提供した」

自民党の主張「民主党が語るような事実はない」

民主党の事実の指摘と、それを否定する自民党の主張とは、果たしてどちらが本当(真理)のことなのだろうか。その指摘が事実なのか、それとも否定が事実なのか。それは論理的に判断出来るだろうか。

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by ksyuumei | 2006-02-18 12:37 | 社会

耐震強度偽装問題の事実は何か

耐震強度偽装問題のマスコミ報道に、何かいやなものを感じるのは、それが事実とその解釈を混同しているように僕が感じているからだろうという気がした。この問題で本当に確かな事実と呼べるものには何があるだろうか。

まず、姉歯元建築士がデータの改ざんをしたというのは、本人がそれを認めているのだから「データの改ざん」というのは事実であるだろう。そして、それが法律が定めていた基準を満たすためのデータ操作であるというのも事実だろう。ここから得られる帰結は、姉歯元建築士が関係したマンションやホテルは、安全基準をクリアしたというのは嘘だったということだ。ここまでは事実として受け取ることが出来るだろう。

しかし、この事実が何を意味するかという「意味」の領域に踏み込むと、これが「事実」なのか「解釈」なのかは判断が難しくなる。「事実」だと判断すると言うことは、それが語る意味が「本当だ」と信じることになる。しかしそれはまだ「解釈」の段階だと言うことになれば、まだ他の解釈も許されるので、その解釈が必ずしも正しいとは限らないという態度になる。

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by ksyuumei | 2006-02-17 09:42 | 社会

事実、真実、真理

かつて本多勝一さんが、表題にあるような3つの言葉の違いについて考察した評論を読んだことがある。本多さんは、ジャーナリストという仕事の中で、優れた実績をあげることによって鍛えられた見事な弁証法を駆使する人として僕は尊敬していた。客観的事実というものを論じた際の、主観を通した客観しか存在し得ないという主張を読んだときに感じた、その弁証法性の見事さは、ジャーナリストとしてのルポだけではなく評論においても優れていると感じたものだ。

本多さんは、表題の3つの言葉に意味の違いはないと結論していた。違いがあるとすればニュアンスに違いがあるだけだと。いずれも意味としては「本当のこと」という「本当」に重点がかかった意味になる。その「本当」の判断の対象になるものが微妙にニュアンスが違って来るというのが本多さんの主張だったと記憶している。

事実というのは、過去の出来事の中で「本当にあったこと」というようなニュアンスになるだろうか。つまりこれは個別的な出来事の「本当性」を問題にしていると考えられる。「南京大虐殺」が事実かどうかというのは、本多さんも関わった事実を巡る大問題だが、これは本来は事実を巡る問題として捉えるべきものなのに、ほとんどは事実ではなく言葉の定義の問題を議論しているように僕には見える。

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by ksyuumei | 2006-02-16 09:45 | 論理

事実の問題

ジャーナリストの浅井久仁臣さんのブログに「「捕虜収容所はなかった」  補筆版」というエントリーがある。このエントリーに書かれたコメントの中に、「「南京虐殺があった」という為には、その場で見聞した人の証言を用いる必要がある」という文章があった。

この判断は、論理的に考えて間違っているのではないかと思い、そこに僕もコメントを書いてきたのだが、僕がこの主張に疑問を感じたのは、これが「ノーミソの目」を否定するような言い方に聞こえたからだ。ここで語られているのは、事実というのは、現実の目で見たことを基礎にしなければ信用出来ないという立場であって、ノーミソの目で見たことは単なる推測に過ぎないから信用出来ないと主張しているように見える。

僕は、推測であっても100%に近いくらい信用出来る推測もあれば、0%に近いくらい当たらない占いのように信用出来ない推測もあると思っている。最近では、ホリエモンが世界一の金持ちになると言う細木数子の占いは、当たらない占いの代表になってしまったと思うが、ニュートン力学による運動の予測は、ノーミソの目による推測だがほぼ100%当たる推測になっていると思う。

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by ksyuumei | 2006-02-14 09:31 | 論理

「目から鱗が落ちる」情報が得られるジャーナリズム

今週配信されているマル激トーク・オン・デマンドは「第254回 [2006年2月11日] 耐震偽装の深層 安全な建物とは何なのか ゲスト:多田英之氏(日本免震研究センター代表、一級建築士」だった。これを見ると、耐震強度偽装問題で、最も重要な視点は何なのかということがよく分かる。ここでは


「一級建築士として50年以上の経験を誇る多田氏は、そもそも建物の地震に対する強度を耐震強度という画一的な尺度で測ること自体に無理があったと主張する。地震が建物に与える影響は複雑であり、また、そのようないい加減な基準に正当性を与えている建築基準法そのものに問題があると言うのだ。」


ということが語られている。この問題で重要なのは、やはりシステムの問題だったのである。宮台氏は、法律というのは、それに関わる官僚の利権を増大させる面を必ず持っていると語っていた。建築基準法に関して言えば、耐震強度という基準を作ることによって、その規制と認可という側面から官僚の利権が発生すると考えることが出来る。

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by ksyuumei | 2006-02-13 09:32 | 報道

観念的自己分裂という現象について

シカゴ・ブルースさんが「観念的自己分裂とはいかなるものか(1)」という文章で、三浦つとむさんのこの概念について語っている。僕にとってもこの概念はなじみ深いもので、三浦さんの哲学や認識論・言語論を語るときには切っても切れない縁のあるものだ。

僕は、この概念を、三浦さんの説明ではじめて正確に知るようになったと思っているが、この概念を含んだ現象については三浦さんを知る以前から多くの体験を重ねてきたことを感じていた。だからこそ、三浦さんの説明を読んだときに、その説明の正しさをすぐに感じ取ることも出来たのだと思っている。

僕が感じていた現象は、芸術の鑑賞などの時に経験した感情移入というものだった。二十歳くらいの時の僕は文学に夢中で特にドストエフスキーやカフカが好きだったが、『罪と罰』のラスコーリニコフがあたかも自分であるかのように物語に没頭したものだった。

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by ksyuumei | 2006-02-11 15:01 | 哲学一般

「北朝鮮」問題を考える

楽天仲間のジョンリーフッカーさんから重い宿題を受け取った。「北朝鮮の拉致問題について思う」という日記で語られている拉致問題に関連したものだ。この問題を考察することに、僕はある種の危うさを感じているので、重い問題だなあという感じがしている。

この問題を考えることの危うさは、イデオロギー的な問題が強くて誤解をされると言うことだけではない。確かなことが何も分かっていないので、ほとんど憶測で語ることしかできないということがある。その判断がすべて間違っているという可能性もある。また、いろいろな問題が複雑に絡み合っているので、それを解きほぐして理解するのも難しい。

拉致というのは犯罪であることは間違いない。だから、その犯罪性を非難してすむのなら何も迷うことはないのだが、ライブドア問題と同じように、それは犯罪性を非難して気分的にすっきりするだけではすまない問題であるように僕は感じる。その歴史的背景などを考えて語ると、犯罪性を薄めて「北朝鮮」を擁護しているのではないかという誤解を受ける恐れもある。ライブドアが生まれてきた背景を語ることで、ライブドアの犯罪性を薄めているように感じるのと同じだ。

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by ksyuumei | 2006-02-10 09:42 | 政治