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ライブドア問題再考 1

ライブドア問題というのは、大きく分けて二つの問題に分かれていると思う。それは、関連はあるものの、互いに相対的に独立した問題として考察しないと間違えるのではないかと思われる問題だ。

一つは、ライブドアの会社そのものの問題で、本当に違法性・犯罪性があったかという分析だ。これがあったということになれば、その程度に応じて責任を取らざるを得ないだろう。もしこれがなければ、ライブドアが攻撃されるのは不当だということになる。

もう一つの問題は、ライブドアという存在が日本社会で持っている意味の方だ。これは、宮台真司氏が「壊し屋」として高く評価した面と関わってくる。僕も、この面では積極的に評価されるところがあると思っている。しかし、この面を評価するあまり、違法面・犯罪面を免除するような、ひいきの引き倒しになってはいけないと思う。

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by ksyuumei | 2006-01-31 23:26 | 社会

ライブドア問題をシステムのメガネで見てみる

今週配信されたマル激トーク・オン・デマンドを聞いて、ライブドア問題の全体像がおぼろげながら見えてきた。全体像が見えてきたと言うことは、そこにシステムが見えてきたと言うことでもある。システムが見えてくると、問題の本質に近づくことが出来る。まだまだ分からないことは多いが、ここが本質ではないかと思うものを考察してみよう。

まず第一のシステムは、ライブドアがどのように個人投資家の金を吸い上げて急成長を遂げてきたかということに関わるものだ。素人考えでは、株価が上がるというのは、その企業が実績を上げて成長していることが多くの人に認められることによって、その株を求める人が増えて株価が上がるというふうに、論理的には思いたくなる。

しかし、会社そのものはまったく業績が変わらなくても、株価だけが上がるという現象があるそうだ。それは、かつてバブルの時に、何も生み出さない土地が、人々が土地を買い求めるという、多くの人が買いたがることによって価格が上がったのによく似ている。需要と供給の関係で、需要の増加に供給が追いつかなくなると、その値段はそれに応じて上がるというのが経済の法則らしい。

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by ksyuumei | 2006-01-30 08:58 | 社会

システムのメガネ 1

僕は数学という形式論理を勉強してきたこともあって、世の中の出来事をまずは形式論理で考えることにしている。それは、平たく言えば、つじつまが合っているかどうかと言うことだ。ある出来事の解釈をしたときに、それがつじつまが合っていれば、一応形式論理的には矛盾がないと言えるだろう。

具体的には、つじつまが合うというのは、ある前提を立てたときに、他の事実をもってこなくても、論理(理屈)だけで結論が得られるならば、それは論理的なつじつまが合っていると言える。山口二郎さんの「06年1月:驕る小泉は久しからず?」には、年頭の小泉首相の記者会見で「靖国参拝は自分の心の問題であって、国内のメディアや識者、さらには外国政府に口を出されるいわれはないと言い切った」ということが書かれている。このことがつじつまが合うものかどうかを形式論理で考えると次のようになる。

  前提:「靖国参拝は自分の心の問題である」
   ↓
  結論:「国内のメディアや識者、さらには外国政府に口を出されるいわれはない」

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by ksyuumei | 2006-01-29 12:57 | 論理

「運動」とは何か--「運動」の本質を求めて 4

運動というものを、ゼノンはどのような理由から否定しなければいけないものと考えたのだろうか。事実として、そのようなことをしたと言うことを確認するのでなく、ゼノンの基本的な考えから、どのように運動の否定が論理的に導かれるのかということを考えてみたい。

まず考えられるのは、ゼノンのパラドックスを帰謬法として捉える解釈だ。運動が存在すると考えると、論理的にパラドックスのような矛盾が導かれる。だから、運動は存在しないと考えられる。このような流れだ。しかし、これは運動の否定の証明ではあるが、この証明が見出されたから運動を否定したというのは、原因と結果が逆であるように感じる。

まず運動の否定という考えが生まれ、その考えが正しいことを証明するためにパラドックスを考えたという時間的な順番になるのではないだろうか。パラドックスは証明のための方法であって、これを思いついたから運動を否定するという考えが生まれたというのではないようだ。

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by ksyuumei | 2006-01-28 22:51 | 論理

「運動」とは何か--「運動」の本質を求めて 3

「運動」の直接表現である「動詞」というものを考えてみたい。振り子の運動を考えるとき、鉛直方向の最下点の状況を考えると、そこに「ある」と静止的に捉えると矛盾を生じ、「通過する」と言えば少しも矛盾が生じないと言うことがあった。「運動」の動的属性をそのまま表現する「通過する」という言葉なら、運動を表現するときに矛盾が生じないと言うわけだ。

「ある」というのも動詞の一つなのだが、これは動詞でありながら静的属性を表現しているという特殊な動詞に感じる。だから、この特殊な動詞を考えるのは後回しにして、本当に動きがあると思える状況を表現している一般の動詞について考えてみようと思う。

三浦つとむさんは、動詞の本質を、変化する属性の表現として捉えた。何かが動いているように見える現象というのは、そこに必ず変化という属性を発見出来ると言うことだろうか。変化する何かが見つかると言うことだろうか。まずは人間が動作をする動詞で考えてみよう。

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by ksyuumei | 2006-01-28 10:46 | 論理

日本は近代社会にすらなっていない

宮台真司氏は、マル激トーク・オン・デマンドでは、良く日本の後進性を指摘して、日本は近代社会ですらないという点をさまざまに指摘する。例えば個の確立が出来ていないと言う批判は、自分の体験からもよく分かる批判だ。

日本人は、周りの空気に流されるという性質が、あれほどの意固地なわがままを抱えているように見える小泉さんにすら見られる。一見信念を貫いているように見えながら、それは、大部分が自分を支持するという予想を元に主張しているに過ぎないようだ。もし、自分が支持されない、不人気になると思ったら、ある主張は簡単に引っ込めてしまうのではないだろうか。

小泉さんは以前に、「周りの空気を読んで判断する」と言ったが、それは、その決断において何が支持されるか、何が不人気を呼ぶかが分からなければ判断が出来ないことを意味するのだろうと思う。もしそれが分かっていたら、支持されるだろうと思うことを主張しただろうが、それが分からなかったので、確固たる主張が出来ずに、周りの空気を見たあとでなければ判断出来ないと思ったのだろう。

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by ksyuumei | 2006-01-27 10:41 | 社会

「運動」とは何か--「運動」の本質を求めて 2

物理学が「運動」そのものを表現しようとすると、どのような矛盾が表現に現れてくるかという問題を、板倉さんは『新哲学入門』(仮説社)の中で、振り子の運動を例に引いて説明している。これもちょっと長い引用だが、引用して考えてみようと思う。

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by ksyuumei | 2006-01-26 11:01 | 論理

「運動」とは何か--「運動」の本質を求めて 1

「アキレスと亀」のパラドックスに関連して、「運動」というものについて一度深く考えてみなければならないのではないかと感じている。特に、「運動」そのものを論理は記述出来るかということを考えてみたいと思った。

そこで「運動」とその表現の「論理」を語った板倉さんの文章を探したのだが、『新哲学入門』(仮説社)の第16章「「運動は矛盾である」とはどういうことか」(146ページ)の中にそれを見つけた。これを読むと、さすがに板倉さんという感じがする。僕が言いたかったことが見事に語られていた。少し長いが引用しよう。

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by ksyuumei | 2006-01-26 09:37 | 論理

思想史の学び方

マル激トーク・オン・デマンドの中で、宮台真司氏が思想史の重要性を語っていたことがあった。思想史というのは、分かりやすく言えば哲学の歴史と言うことになるだろうか。宮台氏によれば、現実の物事を判断するときに、これを知っていて、その教養の基礎の上にものを考えるのと、自分の通俗的な観念で恣意的に考えるのとでは、その深さがまったく違うと言うことだった。

哲学というのは、基本的に人間が世界をどう捉えるかというのを考える。その発祥の地である古代ギリシアからの哲学の流れは、人間の世界のとらえ方の進歩の歴史である。そしてそれは、ある意味では個人の人生でも繰り返しその流れと同じものが起こってくる。

古代ギリシアは、素朴に見たままの世界のとらえ方を哲学として語っている。しかし、少し考えが深くなると、その素朴な見え方の裏に隠されたものを考えるようになる。物事の本質は、見かけという現象とは違うのではないかという考えが生まれる。そうすると、最初の素朴な見方が否定されて、ある側面を重視した、ある種の偏見から世界を見るようになる。これは、その側面こそが本質だと判断するのでそういう見方になる。

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by ksyuumei | 2006-01-25 09:35 | 哲学一般

「アキレスと亀」のパラドックス性は、認識の中にあるのか、表現の中にあるのか

シカゴ・ブルースさんが「濫觴(らんしょう)」と言う掲示板の中(196,197の書き込み)で、「アキレスと亀」のパラドックスに言及してくれている。時間というものに対する「主観性」と「客観性」がパラドックスに大きな影響を与えているというのは僕も感じていた。

シカゴ・ブルースさんは、「運動は物質の存在様式であり物質の内的属性である(エンゲルス『自然の弁証法』)」と書いている。このことを僕なりに解釈してみると、静止さえも「変化0(ゼロ)」の運動として捉えることによって、すべての存在様式を含む表現が出来上がるので、「運動は物質の存在様式である」と言うことが主張出来るのではないかと感じる。

ゼロというのは、現実には何もないと言うことを表現する言葉だが、数学的には、「1個ある」「2個ある」という言い方と同等な資格で、「0個ある」という言い方もする。そして、この言い方は「何もない」と言うことと意味は同じものとして受け取る。つまり「0個ある」という言い方は、すべてのものが「ある」という言葉で統一されて表現されるように工夫されている言葉なのだ。「0(ゼロ)」は、「ないのにある」という矛盾した表現になっている。現実には、何もないという現象を指しているだけなので、現実的な矛盾は何もないにもかかわらず表現の上では矛盾している。

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by ksyuumei | 2006-01-24 09:46 | 論理