カテゴリ:社会( 40 )

個室ビデオ店放火事件の背後に潜む構造

個室ビデオ店放火事件に関しては多くの新聞がそれを社説として論じている。それは、この事件を単なるニュースとして扱っているのではなく、ここに現代日本が抱える問題点が象徴的に現れていると判断しているのだろう。だが、各社が語るその問題提起は、どうも当たり前すぎて心に響いてこない。確かに分かりやすいのだが、その解決は果たして可能なのかという疑問符がつくような気持ちを感じている。

容疑者の身勝手な犯行を非難するのはもちろん当然だが、各社が主に論じているのは、被害がこれだけ拡大したことの原因についてだ。それは主に防火施設の問題として取り上げられている。これもたいへんに分かりやすい。火災報知器の作動がもっと確かなものであれば、施設の管理に当たる従業員が避難誘導を的確にしていれば、火災が発生したときの避難通路が本当に非難できるような実効性を持っていれば、など様々な点の不備が指摘されると、それが問題だというのは誰にでも理解できる。

それではこの問題の解決法として提言されているものにはどのようなものがあるだろうか。多くは規制の強化など、人間の意識(倫理観とでもいおうか)に訴えかけるものになっているように見える。しかしそのように規制を強めて、意識を高めれば問題が解決して、防災体制が整っていくようになるだろうか。意識を高めて問題を解決するという方向は、社会的な問題の解決に当たっては疑問を持たざるを得ない。むしろ、倫理観が低くても大きな被害が出ないようなストッパーとしての働きを持たせることが必要なのではないか。道徳心が高ければ社会の秩序は維持されるけれど、道徳が崩壊すればやりたい放題だというような社会では安心して生きていくことは出来ない。道徳に頼らずに安定をもたらすような工夫はないだろうか。

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by ksyuumei | 2008-10-05 14:04 | 社会

グリーンピースへの扱いのどこが不公平なのか

さえきさんという方から「現代社会で論理に対立するのは非論理ではなく感情だ」というエントリーのコメント欄に、「「その前提となることが恣意的で公平さを欠く」という根拠が、いまひとつわかりませんでした」という疑問を呈するコメントをもらった。「公平さを欠く」という判断は、僕の中では論理的に求められた結論として確固としていたのだが、説明があまりうまくいっていなかったようでわかりにくくなっていたようだ。もう一度「不公平」という観点がクローズアップされる形でこの問題を考えてみようと思う。

僕が「不公平」を感じた一番の理由は、グリーンピースへの扱いと、横領を告発されていた調査捕鯨の関係者への扱いの違いがあることだ。公平ならば同じ扱いがされなければならないだろうというのが僕の判断だった。それは、両者とも起訴を前提とした捜査の対象とするのか、あるいは、両者とも犯罪としての立件が難しいので今回は捜査の対象としないという扱いだ。現実には両者の扱いが全く違うものになったが、この違うものになったという判断が、僕には論理的に納得できないので、ここに「不公平」を感じるのだ。

「法の下の平等」という原則的なルールがある。これは、行為として同じだと考えられるものに対しては、その同じだという判断から、同じ法的な処置をすべきだという原則的ルールだ。この原則に違反する例外も時にあるが、そのときはそれが例外であること、「法の下の平等」よりももっと重い他のルールで原則が破られるということが整合的に説明できなければならない。

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by ksyuumei | 2008-08-09 11:03 | 社会

現代社会で論理に対立するのは非論理ではなく感情だ

宮台真司氏の社会学的な言説の中には、原初的な社会では誰もが同じ感情を有していたので、誰もが同じ判断をしていたというものがある。これはある意味では、思考のルールというものがはっきりと決められていて、そのルールに従った思考の流れしか持てなかったということを意味するだろう。レヴィ・ストロースが発見した婚姻の規則なども、それに従うことが当然という感情しか持っていない人々は、そこから外れる選択肢があることなど想像もしなかっただろう。このような態度は、ルールに従った思考という意味でたいへん論理的ではあるが、それはなぜそのように考えるかという反省を全くもたらさないので、論理そのものを意識することはない。

それに対して現代社会では、もはや誰もが同じ感情を持つということがほとんどない。どの問題に対しても多様な感情が見られ、それから生まれる反応のどれが正しいかということを意識せざるを得なくなっている。その意味では、現代社会では論理を意識しなければ正しい判断が出来なくなっているといっていいだろう。原初的な社会では、誰もが同意する結論に達するのはたやすかった。それが客観的に正しいかどうかは置いておくとしても、社会的な合意が得られるという意味での正しい解答を求めることはたやすかった。

現代社会では、思考を展開して得られた結論が正しいか否かは論理的に正しいかを判断して理解される。だが、人間が思考を展開するときに、論理に従わない思考の展開というものが出来るかどうかを考えると、人間は無意識のうちに論理的な法則に従わずにはいられないということがあるのではないかと思う。非論理的な思考を展開することの方が難しいのではないかと感じるときがある。

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by ksyuumei | 2008-08-08 09:58 | 社会

秋葉原の事件を「テロ」と受け止める感性

今週のマル激では、東浩紀氏(批評家・東京工業大学世界文明センター特任教授)をゲストに迎え、秋葉原で起こった「通り魔事件」に関して議論をしていた。東氏はこの事件を「テロ」という言葉で表現していた。これは僕には見えていなかった視点だったが、東氏の話を聞くと、確かにこれは「テロ」だと思えるような特徴を持っていると感じた。

東氏は、この事件の加害者である青年を擁護する気はまったくなく、このような残虐な犯罪は厳しく裁かれなければならないということを前提にして、その上でこの事件が社会に発しているメッセージを正しく読み取らなければならないということを主張しているように感じた。そうでなければ、この事件に対処するようなさまざまな措置が、まったく感情に応えるだけの的外れな実効性のない対処になってしまうのではないかと言っているように聞こえた。

しかしこの事件を「テロ」だと受け止める感性は、なかなか難しいものも感じる。僕自身も、最初はそのような感覚をほとんど持たなかった。悲惨で衝撃的な事実そのものに驚いてしまったということもあるが、多くの新聞記事や社説に語られているように、加害者の青年の生い立ちや、派遣社員としての生活の悲惨さ、希望のない毎日の生活で生まれてくる絶望感などから、何とかうまく理屈が成り立つような受け止め方をしようと思っていた。何がなんだか分からないけれどあのようなことが起こってしまったという理解ではなく、しかるべき理由があってあのようなことが起こったのだと理解したいと思っていた。

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by ksyuumei | 2008-06-15 22:57 | 社会

パラドックス的な現象の理解

世の中には、「こうなっているはずだ」あるいは「こうなっていて欲しい」というようなことがいくつかある。しかし現実にはその期待はしばしば裏切られ、「なぜこうなっているんだろう」というような理不尽な思いを抱いた人は多いのではないかと思う。自分が抱いていることが常に「通説」とは限らないが、期待を抱いている事柄というのは、ある意味では世間もそう考えているだろうということで期待できる部分があるので「通説」に近いのではないかと考えてもいいだろう。その「通説」に反した現実が訪れてみると、そこには深刻なパラドックスがあることが感じられるのではないかと思う。

昨日ケーブルテレビで、昨年話題になった映画の「それでもボクはやっていない」というものを見た。これは痴漢冤罪を描いて裁判制度のおかしなところを描いた映画だ。裁判制度のパラドックスを提出していると言ってもいいのではないかと思う。

主人公は再三、「自分は痴漢をしていないことは事実なのだから、いつかはそれが分かってもらえるだろう」というよう思いを独白している。しかしその期待は最後までかなわない。事実と違うことが認定されて、やってもいないことで裁かれてしまう。これ以上の理不尽はないだろう。このパラドックスに実際に遭遇したら、それを受け入れるのにどれだけ苦労するだろうかと思う。論理的なパラドックスなら、論理を理解することによって、感情抜きに客観的に理解できる。しかし、この種のパラドックスは、深刻に自分の人生とかかわりを持ってくるので、感情を外に置いておいて理解することが難しいのではないかと思う。

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by ksyuumei | 2008-04-28 09:57 | 社会

空気を読むこととそれに支配されること

今週配信されたマル激では、ドキュメンタリー映画「靖国」の上映中止問題を中心にして言論の自由の問題が議論されていた。ある種の表現に対して、それに感情的に反発する人の圧力で、その表現が封じ込められるというのはまさに「言論の自由」に抵触する問題になるだろう。

その表現を批判するのは、これもまた言論の自由の一つに違いない。しかしそれはあくまでもまともな批判であるべきで、表現そのものを封じ込めるようなやりかたであってはいけない。映画「靖国」については、その内容のどこが批判されるべきかという内容が議論されるよりも前に、上映する映画館のほうが、映画館自体や観客にある種の損害が生じるのではないかということを危惧して上映を中止している。内容的に批判が妥当だったから上映中止になったというのではなく、暴力的な圧力によって恐怖を感じたことによって上映中止になっている。そこが結果的に言論の弾圧になっていると指摘されるところではないか。

マル激のゲストの森達也さんも鈴木邦男さんも、圧力をかけた右翼勢力の側の人のほとんどがこの映画をまったく見ていないということを語っていた。つまり内容的な批判が出来る状況ではなかったということだ。その映画に感情的に反発したのは、週刊新潮が書いた記事に「反日映画」という表現があったからだと受け取っていたようだ。

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by ksyuumei | 2008-04-14 09:33 | 社会

最近の問題に関数的観点を応用してみる

最近のさまざまな事件に対して、それを関数的に捉える、すなわち何らかの法則性をもった装置がそこにあるのだという観点で見てみるとどんなことが見えてくるかというのを考えてみたい。関数的視点というのは、物事の解釈の一つではあるのだが、どんな解釈も関数的になるのではなく、関数的なものと他のものとの違いを考えることが重要になるだろう。

ミートホープによる牛肉偽装問題というのは、マル激でも取り上げられていたが、このような事件が起こるとその主犯格であるような人間の悪辣さがマスコミで取り上げられる。この問題は、牛肉でないものを牛肉と偽っていたのだから悪いことをしたことに違いはない。だから、そこに悪辣さを探そうとすれば必ず見つかるだろう。これは形式論理的な展開で得られるもので、「火のないところに煙は立たない」という因果関係がある。

しかし、この事件を「悪い人間が悪い行為をした」という解釈で理解していると、それは関数的な捉え方にはならないだろう。これは一見関数になりそうな感じもする。悪人という入力をこの装置に入れると、「悪い行為」という出力が出てくると考えてもよさそうにも思える。しかもここには完全な法則性がありそうにも見えるので、現象を関数的に捉えたようにも感じてしまう。

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by ksyuumei | 2007-07-21 11:34 | 社会

行為の基礎にあるものは善意なのか悪意なのか

母親を殺害した高校生のニュースに比べると「社保庁汚職:指導医療官、東京歯科大同窓会から現金」で伝えられるニュースは、日本社会ではよく見られる現象であり平凡なもののように見える。

しかし、衝撃的なニュースのほうが、その内実は案外と抽象しやすく理解するには易しいかもしれない。犯行を行った高校生個人が特別な存在だと考えるのではなく、その背景となる社会のゆがみが理解できれば、誰がそのような犯罪を行うかというのは偶然的なことであるが、誰かがそのようなことをしてしまうというのは、現代社会の必然性として理解できるのではないだろうか。

社保庁の汚職に関する事件は、よくある平凡なものだけに我々はよく理解している気になっているが、その論理性を把握している人は少ないのではないかという感じがする。論理性よりもむしろ日本社会における経験において、よくあることというのは、日本社会はそういうものだというような運命的というかもともとそういうものだったということを言語ゲーム的に了解しているだけなのではないかという気がしている。

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by ksyuumei | 2007-05-17 10:21 | 社会

被害者感情への配慮

死刑廃止論は、被害者への感情の配慮が足りないと言う批判が言われるときがある。加害者に対する報復感情というものがある間は、凶悪犯罪に対して、その罪の重さに応じた死刑もやむを得ないとする考え方だ。

しかし、犯罪被害者の遺族である原田正治さんは、たとえ加害者が死刑になろうとも、その感情的な鬱屈は少しも晴れることはないと言うことを伝えてくれている。やり場のない感情のはけ口は、死刑が執行されることでピリオドを打つわけではないのである。

むしろそのような複雑な感情が、すべて報復感情で理解されることに原田さんは、被害者が少しも理解されず孤独の中で放っておかれているように感じていたようだ。死刑というもので一段落したのだから、その事件を忘れて新たな一歩を踏み出すものと周りに思われていたことに、原田さんは、自分が理解されていないと言うことを感じていたようだ。

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by ksyuumei | 2006-05-12 08:56 | 社会

亀井静香さんの死刑廃止論 2

亀井さんの第三の論点である冤罪の可能性について考えてみたいと思う。これは、死刑廃止論者が必ず取り上げるものであるが、亀井さんは元警察官僚だけに、その語り方にもリアリティを強く感じるものがある。実際に冤罪が作り出される現場にいたと言うことの重さを強く感じるものだ。まずは、事実の指摘として、次のようなものがある。


「警察時代の私の経験から言いますと、被疑者が逮捕され娑婆(しゃば)と遮断された状態になり、縄手錠をされて引きずり回されるようなことになりますと、異常心理、いわゆる拘禁性ノイローゼになってしまうことが現実に非常に多いのです。
 羞恥心も全部見透かされ、すべてを預けてしまうような心理状態です。まるで自分の子どものような心理状態と申しますか、取調官との関係が、王様と奴隷のような心理状態となり、すべて取調官のいいなりになってしまうのです。絶対的権力を握られてしまい、取調官の全くの言いなりになる被疑者がかなり多くいます。」


拘禁性ノイローゼでなくても、権力関係にある人間の間には、「言いなりになる関係」というものが出来るだろうことは、自分の日常を振り返ってみてもそう感じられる。近代民主主義国家の市民意識を高めてきた人は、このような権力関係ではなく、対等で自由な関係こそが人間的だという思いを深めるだろうと思う。

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by ksyuumei | 2006-05-11 09:37 | 社会