カテゴリ:論理( 246 )

仮言命題の妥当性

現実の具体的な論理の展開においては、そこで使われる仮言命題は具体的な内容を持ったものになる。内容を捨象されたAとBで表されるようなある命題を使って「AならばB」という形の仮言命題を使って論理を展開することはない。このように抽象的に表現された仮言命題は、一般的には妥当性を評価することが出来ないからだ。AやBの具体的な内容によって、それが正しくなるかどうかが決まってくる。

「独身ならば結婚していない」というような仮言命題を考えてみよう。これは誰が考えても100%妥当な仮言命題として判断される。それはどうしてだろうか。これはある人物、たとえばAさんという人がいて、彼が独身だということが確認されているとする。そうするとこの仮言命題とあわせて

   Aさんは独身だ。
   独身ならば結婚していない

   故にAさんは結婚していない

という推論が成り立つ。これは絶対的に正しい。Aさんが結婚しているかどうかを戸籍を確かめなくても結論することが出来る。現実に観察をして確かめる必要がなく、論理的な判断によって断言できる。これはどのような理由からそう言えるのだろうか。

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by ksyuumei | 2008-08-05 09:40 | 論理

論理学における仮言命題と日常言語における仮言命題

仮言命題というのは、「AならばB」という言葉で表現されるような命題のことで、Aを前件(前提)と言い、Bを後件(結論)などと言う。この仮言命題を論理学、特に形式論理学で扱う時は、AやBの内容については全く触れることはない。形式論理は、命題の内容に関係のない、命題が置かれているその位置によって論理的な意味がどうなるかを考えるものだから、命題の内容は捨象される。しかし、現実に日常言語を使って論理を進める場合は、内容を捨象した仮言命題を使うことはない。日常言語での論理の展開は、特定の内容を持った仮言命題を駆使して論理の流れを作っていく。

このあたりの違いは、論理学を専門にしていない人にとってはかなり違和感のあるものではないかと思う。日常言語とかけ離れているように見える形式論理が、それほど役に立ちそうな感じがしないというイメージもそのあたりから作られるのではないかと思う。しかし両者の違いを正しく受け止めると、形式論理というのは、単純ではない論理の流れを把握するのにかなり役に立つということが分かってくるのではないかと思う。

それを二つの側面から考えてみたいと思う。一つは、日常言語を使う時の前件肯定式と呼ばれる、形式論理における推論規則だ。これは、形式論理における妥当な推論として認められているもので、日常言語における推論では最も多く使われているのではないかと思う。

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by ksyuumei | 2008-08-04 21:29 | 論理

論理的整合性が取れる問題とそうでない問題

中国が現在チベットに対して取っている政策的姿勢は、マスコミなどで与えられている普通の情報だけから考察しようとすると、その論理的整合性・すなわち「中国が正しい」という帰結を導くのは困難である。「中国は間違っている・けしからん」という結論を持っている日本人が大部分だろう。

マル激でも宮台真司氏が、素人の人たちが中国のとっている態度の合理性を理解するのは困難だというようなことを語っていた。それは、日本人にとっては、中国がやっていることがかつて日本軍国主義が中国に対してやっていたことと同じものに見えるからだ。

日本は、主観的にはアジアの解放をうたい文句にして、過渡的には侵略のように見えるかもしれないが、それは遅れたアジアの近代化を促進するために必要な行為であり、結果的にアジアを近代化して欧米列強の侵略を食い止めることが出来れば日本の行為は正当化されると考えていた。というのが、宮台氏が語る「アジア主義」の思想だと僕は理解している。

これは言葉だけで構築した論理としては正しいだろうと思う。しかし、実際に日本が中国で行った行為を振り返れば、そこにもともと住んでいた中国人の権利を侵害し、その土地から得られる利益を日本人が独占し、しかもその不当性を抗議するような中国人に対しては武力で弾圧をするというものだった。理念は立派かもしれないが、実際にやっていることがこんなことであれば、それは「侵略」だと非難されても仕方がないだろう。

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by ksyuumei | 2008-05-30 10:27 | 論理

前提の違いが結論に与える影響

自民党の河野太郎衆議院議員のブログに「大本営発表と提灯持ち」という興味深い一文を見つけた。これが論理的な観点から面白いと思うのは、河野さんが反論している厚労省の言い分というのが、形式論理的には必ずしも間違っているとは言えないのだが、年金の議論の全体の中でその主張を位置付けてみると、河野さんが言うように「省利省欲をごり押ししてきた」と判断するのが妥当のように思えてくるからだ。

それだけを個別に取り上げれば、論理的には必ずしも間違っていないのに、年金議論の全体の中で、年金の運営をいかに整合的に行うかという観点から見ると、それは国民一般の利益になるのではなく、厚労省の利益をもたらすような利権を生み出すことに寄与する議論になっている。国民の利益にはならないような主張が展開されている。

ある種の主張をもたらす論理をたどってみると、その前提としている「事実」の解釈が一つに決まらないため、どれを前提としての「事実」と設定するかで、結論としての主張が変わってくる。そのような主張の場合は、たとえ正反対の結論が得られて、双方がそれを主張していても、どちらかに決定するというのが難しい場合がある。現在の段階ではどちらも認めて、それぞれに一理があると言わざるを得ないときもある。内田樹さんが主張していた、現在中国政府の政策を批判している人たちが、「「中国人は日本人と同じ考え方をしない。けしからん」ということを繰り返し言っているにすぎない」という判断は、それに反対する見解も、今の段階ではともに両立する主張になるのではないかと思う。なぜなら前提とする「事実」を確定することが難しいからだ。おそらく反対の主張は、前提とする「事実」に違いがあるのだろうと思う。これが確定したときに、どちらの主張が正しいかが決定するのではないかと思う。

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by ksyuumei | 2008-05-21 09:57 | 論理

論理の前提としての「事実」と現実解釈の真理としての「事実」

野矢茂樹さんが解説するウィトゲンシュタインの発想を考えてみると、「世界」を「成立している事柄」という「事実」から出発していることが分かる。しかし、ウィトゲンシュタインは、この「事実」が何故に「事実」なのか。つまり、どうやってそれが実際に成立していることであるかを確かめるすべについては何も語っていないように見える。ウィトゲンシュタインにとっては、その事がらが「事実」であるかどうかは所与のことであり、関心はそれを使って展開される論理のほうにしかない。「事実」の確認の仕方については何も語っていないようだ。

ウィトゲンシュタインは、原理的には「事実」を現実に100%確認することは不可能だったと考えていたのではないかとも思う。現実を観察して、その現象を言語によって表現するとき、それが本当に現実を反映した表現になっているかどうかは、常に解釈の余地を残すだけに確定しないのではないかと思う。

たとえばある人物を親切で温かい心の持ち主だと受け取って、それが「事実」であると判断したとする。しかし、実はある利害関係から、そのように振舞っていたほうが得だという場合もある。また、以前は本当に親切で暖かかったけれど、困難な状況が訪れて、とても他人のことなど心配していられなくなって今は親切で暖かくなくなっているかもしれない。「事実」は勘違いがあり得るし、変化して違ってしまうことがある。

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by ksyuumei | 2008-05-14 10:28 | 論理

ウィトゲンシュタインによるラッセルのパラドックスの解決

ウィトゲンシュタインの基本的発想は、野矢茂樹さんに寄れば、ウィトゲンシュタインの関数概念ではラッセルのパラドックスが生まれるような自己言及文は言語の意味として無意味になってしまうということだ。それは論理形式からは排除されるので、論理的な言い方ではないということになる。このことを解釈すれば、ラッセルのパラドックスは、言語の機能としての論理を、その適用範囲の限界を越えて適用したために、不都合が生じたという感じになるだろうか。ラッセルのパラドックスは、言語適用の間違いによって引き起こされた無意味な命題に意味を与えてしまったということになるのではないかと思う。

基本的な発想はこのようなものだと思われるが、フレーゲ・ラッセル的な記号論理に親しんできたものとしては、この発想を納得するのはなかなか難しい。都合が悪いから排除したというような、ご都合主義的な解決に見えてしまうからだ。ラッセルのパラドックスは、言語の意味としてちゃんと理解できる。だからこれが論理形式としては無意味になるということが納得できなければ、ウィトゲンシュタインの解決もすんなりと腑に落ちるというわけに行かなくなる。

ウィトゲンシュタインの発想は、あくまでも現実の「世界」を出発点にしているところがフレーゲ・ラッセル的な発想と違うところだ。フレーゲ・ラッセル的な発想は、現実から抽象された論理世界を出発点にしている。それは現実世界の存在物である対象が抽象された、世界の部品からスタートして、それを組み合わせて論理的な表現である命題が構成される。

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by ksyuumei | 2008-05-11 10:48 | 論理

論理解明のためのウィトゲンシュタインの関数

野矢茂樹さんが紹介するウィトゲンシュタインの関数の具体例を通じて、その関数概念の把握と、それがどのようにして論理構造の解明に役立てられるのかを考えてみたい。野矢さんは、概念理解の目的のために非常に単純な世界を設定する。名として設定されているのは次の6つの言葉だけとする。

 「ポチ」 「ミケ」 「富士山」 「白い」 「走る」 「噴火する」

この単純な世界では、これら6つの言葉を用いて表現されるものだけが実現可能な「事態」となる。単純化するために日本語の助詞も省略して、二つの名の結びつきだけで表現を考える。たとえば

 「ポチ」-「白い」

というなの配列によって、「ポチ」という個体が「白い」という属性を持っていることを表す。現実に「ポチ」(これはたぶん犬の名前だろう)が「白い」ならば、この「事態」は「事実」として、この世界に実現されているものになる。このとき、言語の配列として

 「ポチ」-「噴火する」

というものも形式的には作ることが出来るが、「ポチ」と「噴火する」という二つの名の論理形式が、このような表現を含んでいなければ、この配列による表現は、この世界では無意味だということになる。つまりこの配列は「事態」にならない。このあたりの解析をもっと厳密に行うために、野矢さんは次のような関数を作る。

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by ksyuumei | 2008-05-10 10:20 | 論理

フレーゲ・ラッセルとウィトゲンシュタインの関数概念の違い

フレーゲの発想は、野矢さんによれば、述語を関数で表現することによって論理の記号化に成功したというものだ。述語は日本語で言えば、動詞あるいは形容詞で表現されるか、名詞に判断の助動詞を伴った形でなされる。たとえば次のように。

1 地球は「自転している」。
2 海は「青い」。
3 小泉さんは「元総理だった」。

上の文章の「自転している」「青い」「元総理だった」は、それぞれ肯定判断を表しており、判断を示す述語として機能している。三浦つとむさんは、動詞や形容詞に対して、そこに直接判断を示す品詞がないので、日本語の場合は動詞あるいは形容詞そのものに肯定判断の表現が含まれると考えていた。いずれにしても、判断を伴う表現であり、述語として捉えることが出来るだろう。

この述語の記述に対して、フレーゲはその判断が及ぶ対象を変項として捉えてxなどで表す。上の3つはそれぞれ次のようになるだろうか。

1 xは「自転している」。
2 xは「青い」。
3 xは「元総理だった」。

このxには、基本的には現実の対象である何らかの存在物が入る。つまり定義域は現実世界ということになる。そして、1のxに「地球」という対象が入れば、1の命題は正しくなり、真偽値は「真」ということになる。この関数は、現実世界を定義域として、命題の真偽値を値域とするものになる。

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by ksyuumei | 2008-05-08 09:55 | 論理

ラッセルのパラドックスを回避するウィトゲンシュタインのアイデア

ラッセルのパラドックスというのは、「嘘つきのパラドクス」と同様に、自己言及によって矛盾が導かれてしまう種類の論理的なパラドックスになっている。現実を誤って認識したために、現実存在に反する判断が生じてしまったような、「ゼノンのパラドックス」のようなものではない。

現実に反する判断は、どこかに論理的な間違いが生じているのか、論理の出発点となるような現実の把握(つまり事実の認識)において間違っているのかどちらかだということになる。論理的な間違いであれば、それは正しくない論証であり、論理の出発点の把握が間違っているのなら、それを否定した判断が正しいという背理法を示すことになる。ゼノンは運動を否定したという言い方もされるようだが、その真意は空間が多くのもので構成されていて無限に分割できるものではなく、一つの存在として捉えなければならないという主張を証明するための背理法として提出したのだという。存在は「多」という性質を持つという前提を否定しようとしたらしい。

間違い・あるいは背理法として処理できるパラドックスに対して、論理的なパラドックスは、そこに間違いを見つけることが出来ない。ある意味では論理の限界を示すものとして、論理を無制限に適用してはいけないという警告と受け取らなければならない。どのような制限を設ければパラドックスを回避できるのか。ラッセルは「タイプ理論」というもので一つの解答を提出したが、ウィトゲンシュタインはそれとまったく違う発想でもう一つの解決を提出したというのが野矢茂樹さんが『『論理哲学論考』を読む』という本で展開していることだ。これを詳しく考えてみようと思う。そこには、パラドックスというものの本質が見えるのではないかと思う。

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by ksyuumei | 2008-05-07 10:14 | 論理

パラドックスとは何か

パラドックスという言葉は辞書的に解釈すれば、逆理ということになり、理に反することを主張していると受け取られるような言説を指す。語源的にもパラドックスは、通説(ドクサ)に反する(パラ)というギリシア語からきているらしい。このような曖昧な定義にかなうような現象は現実にたくさん見られることだろう。

たとえば今は幼児教育が盛んな時代だが、小さいころから習わせておかなければ、大きくなってから教育するのでは遅すぎるという「通説」がある。しかし一方では、小さい頃に神童と呼ばれていた子どもも、大人になってただの人になることがむしろ多い。大器晩成という現象もたくさんある。これは、素質と才能だけでトップを取れる事柄というのは、どちらかといえば単純で簡単なことが多いので、そのような分野であれば他の子どもが経験していないことをいち早くすることによって、小さい頃に神童と呼ばれるような輝きを示すことができるということに過ぎないのだろうと思う。本当に難しい偉大なことというのは、それなりの経験をつんで訓練しない限り本当の実力が身につかないということだろうと思う。

このような現象を、辞書的な意味を適用して「幼児教育のパラドックス」と呼ぶことも出来るだろう。通説に反して、小さい頃から教育をしなくても大器晩成の偉大な人物が生まれるなら、「ドクサ」に「反した」事柄が生まれたと言っていいからだ。だが、このようなパラドックスは、論理としてはそれほど深刻なものをもたらさない。それは、単に通説が間違っていたからだという解釈をすることが出来るからだ。

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by ksyuumei | 2008-04-15 10:12 | 論理