カテゴリ:論理( 246 )

報道記事の形式論理的分析 1

インターネットで配信されている「「問題ない」太田農水相が辞任を否定 事務所費問題」(8月26日12時21分配信 産経新聞)という記事の内容を形式論理の観点から眺めて見ようと思う。形式論理の観点から眺めるというのは、そこに書かれている文章を「命題」として解釈してみようということだ。まずは全文引用しておく。


「太田誠一農水相の政治団体が秘書官宅に多額の事務所費を計上していた問題で、太田氏は26日、記者会見し、「問題は全くないと思っている」と述べ、辞任を否定した。
 町村信孝官房長官は26日午前、首相官邸で閣議前に太田誠一農林水産相に会い、この問題について説明を求めた。太田氏は「しっかりとやっている」と答えたという。
 この後、町村氏は記者会見で「政治資金の透明性確保はすべての政治家にとって大きな課題であり責任である。特に閣僚についてはより大きな責任があることは間違いない」と強調。その上で「事務所費の中にはいろいろな支出項目があり、秘書の自宅を事務所として届け出ていたからといって全部不正であるとは言い切れないのではないか」と述べ、太田氏を擁護した。進退については「そういうことをうんぬんする話ではない」と否定した。
 自民党の麻生太郎幹事長は26日午前、役員会後の記者会見で「個人事務所(の問題)なので説明責任は政治家個人に問われている」と述べ、太田氏自らが説明責任を果たすべきだとの考えを示した。
 一方、民主党の鳩山由紀夫幹事長は同日午前、都内で記者団に「臨時国会の開会前にお辞めになるしかないのではないか。福田康夫首相の任命責任も大きい」と述べた。」


まずはここから原子命題(複数の命題を結合したものではない)として取り出せるものを全部探し出す。以下のようなものが取り出せるだろう。

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by ksyuumei | 2008-08-26 17:50 | 論理

不可能性の証明

大学生の頃に夢中になって考えていたパズルに次のようなものがあった。5行5列の正方形の形に並んだ黒い点がある。

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この黒点を一筆書きのようにして線で結ぶのだが、そのときに縦と横には線を引けるのだが、斜めに引いてはいけないという制限を設ける。上のような正方形の形に関しては解答は簡単に見つかる。たとえば次のようにすればよい。

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by ksyuumei | 2008-08-22 23:24 | 論理

言葉の約束である論理がなぜ現実の合理的な理解をもたらすのか

かつては、論理は現実世界の反映であり、論理の正しさといえども現実にその基礎を持っているのではないかと僕は考えていた。ウィトゲンシュタイン的な、写像による現実世界の像としての論理空間というイメージを抱いていた。今ではそのような理解をやや修正している。論理の法則の発見のきっかけは、現実世界との対応だったのではないかと思うが、いったん論理の法則が理解されると、それの考察はもはや現実世界と関係なく行われる。それは言葉を対象にして考察することによって理解されるようになる。

論理というのは、現実の法則ではなく、言葉の法則であるという理解の方が今では自分のものになっている。論理の正しさも、言葉の使い方のルールとして合理的だからだと思える。だが、この合理性は論理によってそう言えることなので、論理の正しさを論理によって理解するというところにやや危うさも感じている。循環論法的な雰囲気を感じるからだ。

いずれにしても、言葉の法則だと思われる論理が、何故に現実世界の理解においても有効なのかということは単純には納得できないように思われる。現実を無視して抽象されている論理という言葉の世界が、どのようなつながりで現実を正しく反映することが出来るのだろうか。論理に従わなければ我々は合理的な思考を行うことが出来ない。目の前の事実を見たままに記述するだけでは、その今の見えている側面のことだけしか語れない。今見えていないことは思考の中に入ってこないし、過去や未来のように、今見ていないことも思考の中に入ってこられない。

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by ksyuumei | 2008-08-15 10:10 | 論理

仮言命題の真理値を巡る直感に反する解釈

形式論理学では、命題の真理値を用いてそれで数の計算に似たような論理の計算を考える。論理として正しいかどうかを、真理値を割り当てて、その値によって評価しようとするものだ。その命題が正しいとき、すなわち真であると判断されると真理値として1を与える。それが正しくない、すなわち偽であると判断されると真理値としては0を与える。1や0を与えるのは、命題の論理計算が、数の1や0の足し算やかけ算に相当するので便利だからだ。

<または>や<かつ>で示される命題の真理値は、元になるAやBの命題の真理値が決まると次のように考えられる。

  A  B  AまたはB  AかつB
  1  1    1      1
  1  0    1      0
  0  1    1      0
  0  0    0      0

これは<または>と<かつ>の日常言語的な意味とだいたい合うような感じがして受け入れられる人が多いだろう。<または>ではA,Bともに正しくないときに、<または>とは言えないという判断は賛成できるのではないだろうか。どちらか一方が成り立っていなければ<または>という接続語を使うのは変だという言語感覚だ。

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by ksyuumei | 2008-08-14 13:16 | 論理

敵対的矛盾の考察

弁証法的な矛盾に関して、非敵対的矛盾というのは現実に観察できる・現実に存在する矛盾としてとらえられていた。それは視点をずらしたときの見え方を並べることで、二つの主張が対立して矛盾を形成しているように見えるけれど、違う見え方を述べたのであるから形式論理的な矛盾ではない。つまり肯定と否定が同時に成り立っているという現象が現実に現れているわけではない。形式論理的な矛盾というのは、決して見つけることが出来ない。なぜならば、肯定が正しくないときにのみ否定が主張されるというのが形式論理だからだ。それが同時に成り立つようなら、それは否定の定義に反するのであって、その現象を否定とは呼ばない。

実際には、非敵対的矛盾として提出されているものはすべて視点の違いで解釈できる。三浦つとむさんは非敵対的矛盾を調和する矛盾と呼んだが、これは現実存在というのは、視点を変えれば違う見え方をするというのを「調和」と呼んだのだと思う。三浦さんは「前進している」と同時に「前進していない」という矛盾を、ベルトコンベアと反対方向に移動するという例で実現する敵対的矛盾の例を『弁証法はどういう科学か』で提出していた。

この矛盾は対象としてはつまらない矛盾だが、視点の違いを考えるのは適当にやさしい例となっている。歩いている本人から見ればそれは前進していると考えられる。しかしそれを外から眺めている人にとっては、ベルトコンベアの流れの方が早ければ後退しているように見えるし、ちょうど同じ早さなら静止しているように見える。いずれにしても前進してはいないと言えるだろう。だがこれは同時に同じ視点で実現しているのではない。それぞれの視点で見るとそう見えるというだけで、形式論理的な矛盾になってはいない。

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by ksyuumei | 2008-08-12 09:39 | 論理

論理計算における真理値と正負の数の計算におけるマイナスの数との類似

数学においてマイナスとマイナスのかけ算というのは、直感的に理解するにはたいへん難しいもので、ここで躓く子供が多いのではないかと思う。このかけ算の規則は、ルールとして覚えてしまえば何でもないもので、それほど覚えにくいものではない。だが、この記憶が定着しないというのは、何か変な気持ち悪さがあって、どうしても「マイナス×マイナス」が「プラス」になるということに納得できなくて、その自分の気持ちを認めてやりたい気分が、この単なるルールの記憶を困難にしているのではないかと思う。何か変だと思うことがらが記憶できないというのは、きわめて人間的で自然なことではないかと思う。

マイナスとマイナスのかけ算に関しては数学史の上でもなかなかこれを認められなくて苦労したということが伝えられている。これは直感に反する結果として提出されるのでそれを正しいものとして覚えるのが気持ち悪いのではないかと思う。数学史の上では、マイナスの数を借金として想像することが多かったようで、これとの連想で考えると、借金と借金をかけ算してプラスになる、すなわち財産になるというのは明らかにおかしいと感じる。

これは実はかけ算の意味を間違えているので、よく考えれば借金と借金はかけ算してはいけないことが分かるのだが、直感的に浮かんでくるマイナスの数のイメージが借金しかなければこのような想像が浮かんでくるのも無理はない。数学における計算は、計算そのものとして考えるときは、借金というような属性が無くなってしまうのだが、マイナスの数は、プラスの数の反対のものとして導入されたりするので、それを想像するにはどうしてもプラスの反対になるものとあわせて考えないと、マイナスの数そのものが頭に浮かんでこない。その概念がつかめないのだ。

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by ksyuumei | 2008-08-11 23:07 | 論理

抽象と数学・論理との関係

小室直樹氏は『数学嫌いな人のための数学』(東洋経済新報社)という本の中で、幾何学・ニュートン力学・経済学などが、その対象を抽象することに成功したことで論理的表現が出来るようになったことを語っている。

幾何学はそれまでは実際の役に立てる実用的な技術として存在していた。面積を測ったり、角度を測ったり、具体的な問題の解答を得るための計算をしたりというようなことが幾何学の主な仕事だった。それを公理的な論理体系としてまとめたのがギリシア人であり、ユークリッドの幾何学と呼ばれるものだった。これが論理体系としてまとめられた理由の一番のものに、小室氏は、「幅を持たない直線」や「位置情報のみで大きさを持たない点」などの抽象的な概念の成立をあげている。

これらのものは現実には存在しない。抽象的なものとして頭の中でのみそれを見ることが出来る。これらの対象は論理に革命をもたらした。現実の存在であれば、よく観察すればするほど多様な性質が見えてくる。しかし抽象的な存在は、その側面だけを見て他を無視するという「捨象」を行うので、多様な他の面は考える必要が無くなる。そうすると完全に論理のルールに従う対象としてそれを見ることが出来るようになる。抽象という行為は、論理だけに従う対象を見出し、現実を全く考えずとも、論理の世界だけで真理を求めることを可能にした。

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by ksyuumei | 2008-08-11 09:40 | 論理

敵対的矛盾と非敵対的矛盾の形式論理による理解

弁証法的な矛盾というのは、三浦つとむさんの『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)によれば「対立を背負っている」ということが本質的な特徴として語られている。弁証法的な矛盾は、現実に存在する対象をさして矛盾と呼んでいるので、これも、現実の対象が「対立を背負っている」という現象をさして、その現象に対して矛盾という言葉を適用している。

矛盾という言葉の元になった中国の話に出てくる現象は、想像上のもので現実のものではない。そしてそれは決して現実のものにならないという点で弁証法的な矛盾ではない。形式論理的な矛盾と呼んでいいものだろう。それは人間の判断の中にだけ存在する観念的な対象だ。

矛盾の元になった話では、

・どんな盾でも突き破ってしまう矛
・どんな矛にも破られない盾

という二つのものが出てくる。この矛と盾に対して、「その矛でその楯を突いたらどうなるか」、という質問をしたときに、答えに困ってしまったというのが「矛盾」という言葉の始まりとされている。その矛は、どんな楯でも破ってしまうのだから、当然その楯を破るはずだと考えたいのだが、しかしその楯はどんな矛にも破られないのだから、破られてはいけないということになる。あちらを立てればこちらが立たないという困った状態になる。

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by ksyuumei | 2008-08-09 16:44 | 論理

形式論理における矛盾と弁証法における矛盾

形式論理で矛盾と呼ばれるものは、ある命題の肯定と否定が同時に成立するものを指す。これは形式論理では絶対に認められないものとなる。なぜなら、形式論理というのは命題の内容を問わずその形式のみに注目する視点を持つからだ。ある命題の肯定と否定が同時に成立するというのが、命題の内容に関係なく形式として成立するならば、それはすべての命題についても同等に成立するものとなってしまう。

否定というのは、形式論理においてはその肯定を判断したことが間違いだったことを示す。つまり、否定が成り立つならばその肯定は真ではない、偽であるということになる。だが、肯定も否定もいつでも成り立つというなら、その命題に関しては真偽が決定できない。それはいつでも真だと考えても良くなるし、いつでも偽だと考えても良くなる。真偽を考えることに意味がなくなる。

形式論理というのは、真なる命題のネットワークを構築することにより、真であるということの性質を持つ命題を導くことで合理的思考を行うものだ。それが真なる命題のネットワークが無くなり、あらゆる命題が真であってもいいし、真である命題が一つもないと考えても良くなるなら、何が合理的思考かということも決定できなくなる。論理そのものが崩壊してしまう。だから、矛盾という命題は、形式論理においては絶対に成立しないということが大前提になる。

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by ksyuumei | 2008-08-07 09:47 | 論理

形式論理における「二重否定の法則」と弁証法における「否定の否定の法則」

形式論理と弁証法では、そこで使われる「矛盾」という言葉に際立った概念の違いを感じるが、「否定」の概念についても微妙な違いを感じる。これは「矛盾」ほどその違いがあらわになっていないので、どちらも同じ「否定」ではないかと感じる人も多いのではないだろうか。しかし、形式論理における「二重否定」はまた元の命題に復帰するのだが、弁証法における「否定の否定」は元の命題に帰るのではなく、元の命題が発展した形での命題に復帰することになる。ここに両方の「否定」の概念の違いが現れている。

一言で言ってしまえば、両方の概念の違いは「視点」の違いとして記述できる。弁証法というのは、基本的に「視点」をずらすことによって現実の中で新たな発見をもたらそうとする発想法だ。それに対し、形式論理というのは、形式論理が正しくなるような世界を構築し、その世界の中では厳密に言葉通りの約束が成立するということを要求する、言葉の使い方に厳密な意味を与えようとする一つの理論体系だ。

形式論理は、その体系が完結していることを要求するので、体系の中で定義されたものが途中で変化することを許さない。あくまで固定的に対象を設定して、その固定した静止の中で成立する法則性を求める。しかし、弁証法は、現実に対して有効な発想をもたらそうとするために、現実の多様性や変化を許容するような論理を設定しなければならない。それはある事柄を固定的に設定したのでは、変化や多様性を受け止めることが出来ない。そのため、いつも「視点」をずらすことによってその変化や多様性を受け入れる余地を作り出す。だから「否定」も絶対的な「否定」ではなく、「視点」によっては「否定」にならない「否定」である場合がある。そこに僕は両者の違いを見る。

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by ksyuumei | 2008-08-06 18:42 | 論理