カテゴリ:論理( 246 )

「運動」とは何か--「運動」の本質を求めて 4

運動というものを、ゼノンはどのような理由から否定しなければいけないものと考えたのだろうか。事実として、そのようなことをしたと言うことを確認するのでなく、ゼノンの基本的な考えから、どのように運動の否定が論理的に導かれるのかということを考えてみたい。

まず考えられるのは、ゼノンのパラドックスを帰謬法として捉える解釈だ。運動が存在すると考えると、論理的にパラドックスのような矛盾が導かれる。だから、運動は存在しないと考えられる。このような流れだ。しかし、これは運動の否定の証明ではあるが、この証明が見出されたから運動を否定したというのは、原因と結果が逆であるように感じる。

まず運動の否定という考えが生まれ、その考えが正しいことを証明するためにパラドックスを考えたという時間的な順番になるのではないだろうか。パラドックスは証明のための方法であって、これを思いついたから運動を否定するという考えが生まれたというのではないようだ。

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by ksyuumei | 2006-01-28 22:51 | 論理

「運動」とは何か--「運動」の本質を求めて 3

「運動」の直接表現である「動詞」というものを考えてみたい。振り子の運動を考えるとき、鉛直方向の最下点の状況を考えると、そこに「ある」と静止的に捉えると矛盾を生じ、「通過する」と言えば少しも矛盾が生じないと言うことがあった。「運動」の動的属性をそのまま表現する「通過する」という言葉なら、運動を表現するときに矛盾が生じないと言うわけだ。

「ある」というのも動詞の一つなのだが、これは動詞でありながら静的属性を表現しているという特殊な動詞に感じる。だから、この特殊な動詞を考えるのは後回しにして、本当に動きがあると思える状況を表現している一般の動詞について考えてみようと思う。

三浦つとむさんは、動詞の本質を、変化する属性の表現として捉えた。何かが動いているように見える現象というのは、そこに必ず変化という属性を発見出来ると言うことだろうか。変化する何かが見つかると言うことだろうか。まずは人間が動作をする動詞で考えてみよう。

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by ksyuumei | 2006-01-28 10:46 | 論理

「運動」とは何か--「運動」の本質を求めて 2

物理学が「運動」そのものを表現しようとすると、どのような矛盾が表現に現れてくるかという問題を、板倉さんは『新哲学入門』(仮説社)の中で、振り子の運動を例に引いて説明している。これもちょっと長い引用だが、引用して考えてみようと思う。

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by ksyuumei | 2006-01-26 11:01 | 論理

「運動」とは何か--「運動」の本質を求めて 1

「アキレスと亀」のパラドックスに関連して、「運動」というものについて一度深く考えてみなければならないのではないかと感じている。特に、「運動」そのものを論理は記述出来るかということを考えてみたいと思った。

そこで「運動」とその表現の「論理」を語った板倉さんの文章を探したのだが、『新哲学入門』(仮説社)の第16章「「運動は矛盾である」とはどういうことか」(146ページ)の中にそれを見つけた。これを読むと、さすがに板倉さんという感じがする。僕が言いたかったことが見事に語られていた。少し長いが引用しよう。

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by ksyuumei | 2006-01-26 09:37 | 論理

「アキレスと亀」のパラドックス性は、認識の中にあるのか、表現の中にあるのか

シカゴ・ブルースさんが「濫觴(らんしょう)」と言う掲示板の中(196,197の書き込み)で、「アキレスと亀」のパラドックスに言及してくれている。時間というものに対する「主観性」と「客観性」がパラドックスに大きな影響を与えているというのは僕も感じていた。

シカゴ・ブルースさんは、「運動は物質の存在様式であり物質の内的属性である(エンゲルス『自然の弁証法』)」と書いている。このことを僕なりに解釈してみると、静止さえも「変化0(ゼロ)」の運動として捉えることによって、すべての存在様式を含む表現が出来上がるので、「運動は物質の存在様式である」と言うことが主張出来るのではないかと感じる。

ゼロというのは、現実には何もないと言うことを表現する言葉だが、数学的には、「1個ある」「2個ある」という言い方と同等な資格で、「0個ある」という言い方もする。そして、この言い方は「何もない」と言うことと意味は同じものとして受け取る。つまり「0個ある」という言い方は、すべてのものが「ある」という言葉で統一されて表現されるように工夫されている言葉なのだ。「0(ゼロ)」は、「ないのにある」という矛盾した表現になっている。現実には、何もないという現象を指しているだけなので、現実的な矛盾は何もないにもかかわらず表現の上では矛盾している。

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by ksyuumei | 2006-01-24 09:46 | 論理

静止の表現としての形式論理(数学)

形式論理は静止を表現するものであり、運動を表現することが出来ない、と語ったのは仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんだっただろうか。この言葉を聞いたとき、僕は、目から鱗が落ちるという感じがしたものだった。ゼノンのパラドックスを解釈する鍵があるように感じたからだった。

形式論理がなぜ静止を表現するものであるかというと、それは、存在するものの存在する時点を表現することしかできないからだ。もし、運動を表現するとしても、時間のずれた時点を表現することしかできない。ある時点と、それから時間が経過した別の時点を表現して、その間に違いがあるから、結果的に運動をしたと結論するだけで、運動そのものを表現したわけではないのが形式論理の表現だ。

これは映画のフィルムによく似た表現だ。映画のフィルムは、ある時点の存在を静止として焼き付けている。フィルムだけを見てもそこに動きを見ることは出来ない。つまり運動の表現とはなっていないのだ。しかし、フィルムをつなげて時間の経過と共にそれを連続して見ていくと、我々にはそれが動いているように見える。それは、我々に動くように見えるだけであって、フィルムそのもの表現としては決して動きを表現しているのではない。

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by ksyuumei | 2006-01-20 09:30 | 論理