カテゴリ:論理( 246 )

図と地という視点

『ゲーデル、エッシャー、バッハ』という本では、図と地に関する一章が設けられている。図というのは、絵画的表現で言えば、表現したい中心になるようなもので「積極的な部分」と書かれている。その表現を見たときに、目立つものとしてすぐ目に入ってくる部分というようなイメージだろうか。それに対して地の方は、その目立つ部分を支える背景に当たる部分になる。この本では「消極的な部分」と呼ばれている。これが目立つようでは図の表現がかすんでしまうから、確かに消極的でなければならないだろう。

この図と地という二つの概念は,ゲーデルの定理を理解するための比喩として語られているように思う。ゲーデルの定理では「証明可能ではない」という考え方が証明の中心をなす。しかし、形式システムでその性質が目立って我々に見えてくるのは「証明可能である」という方だ。つまり「証明可能性」の方が図であって、「証明不可能性」は、その図が見えた後に背景として浮かんでくる地の方だと考えられる。

図の方は目立つので直接捉えることが容易だ。「証明可能性」の方は、出発点である公理から正しい導出法則を適用してあれば、それが「証明できる」ことを直接語ることが出来る。しかし、「証明できない」ということは、いくらやっても出来なかったという結果を示すだけでは「証明不可能性」を示したことにならない。どのような可能性を考えても「証明が出来ない」ということを示さなければならない。

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by ksyuumei | 2008-10-29 10:02 | 論理

形式システムの文字列を自然数によって表現すること 2

『ゲーデル、エッシャー、バッハ』で解説されているMIUシステムについて、これを文字列ではなく数字で表現することの意味を考えてみたいと思う。これは、ゲーデルの証明におけるゲーデル数の表現の解説として受け取ることが出来る。形式システムとして文字列で表現されている自然数論を、数の間に成立する関係を文字列の表現にしてしまおうというアイデアの構造を理解するための解説として考えてみようと思う。文字列の解釈として、ある意味では自然言語での表現の意味に受け取れる自然数論を、数の間に成立する命題として解釈してしまおうというアイデアを直感的に理解するために、MIUシステムと自然数論の間に成立する同型写像を見てみよう。

さて、MIUシステムは次のように語られていた。


記号  M,I,U
公理  MI
規則
 1 xIが定理ならば、xIUは定理である。
 2 Mxが定理ならば、Mxxは定理である。
 3 任意の定理において、IIIはUで置き換えることが出来る。
 4 任意の定理において、UUは除くことが出来る。


このM,I,Uという3つのアルファベットで表現される文字列を、3つの異なる数字で表現して、数字の表現のシステムにおいても、MIUシステムが持つ構造が同じ形で反映されるように表現してみよう。M,I,Uの3つの異なるアルファベットに、3つの異なる数字を与えるのは、これは異なってさえいれば、つまり区別が出来れば何でもいい。これがゲーデル数に当たるものになる。

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by ksyuumei | 2008-10-27 10:24 | 論理

関数・写像の考え方とゲーデルの定理

『数学から超数学へ』(E.ナーゲル、J.R.ニューマン・著、白揚社)の第6章「写像とその応用」には、写像という考え方がゲーデルの定理の証明においてどのように役立っているか、それがいかに本質的な重要性を持っているかということが解説されている。それは次のように書かれている。


「写像の基本的特徴は、ある“対象”領域に含まれている関係の抽象的な構造が、他の“対象”(最初のものとは別な種類のものであるのが普通です)領域の間にも成立することを示す点にあります。ゲーデルがその証明を作り上げる際の刺激となったのは、まさに写像のこの特徴だったのです。もし形式化された算術体系についての複雑な超数学的言明が、ゲーデルの望んだように、この体系それ自体における算術的言明に翻訳(すなわち写像)出来るならば、超数学的証明の遂行を容易にするための重要な布石が完了したと言えます。」


写像というのは、学校数学でいえば「関数」というものと同じなのだが、「関数」が数の間の対応関係を主として語っているようなイメージだったのに対して、「写像」というのは数に限らず、対応一般をさらに抽象的に捉えようとする概念と考えればいいだろう。

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by ksyuumei | 2008-10-24 08:48 | 論理

形式システムの文字列を自然数によって表現すること 1

『ゲーデル、エッシャー、バッハ』という本には、MIUシステムと呼ばれる形式システムが紹介されている。これは3個の記号「M,I,U」と、文字列を並べる4つの規則が提示されているものだ。出発点となる公理は一つだけで、その文字列から書き換え規則によって得られる文字列がどのようになるかを考える。まとめておくと次のようになる。


記号  M,I,U
公理  MI
規則
 Ⅰ xIが定理ならば、xIUは定理である。
 Ⅱ Mxが定理ならば、Mxxは定理である。
 Ⅲ 任意の定理において、IIIはUで置き換えることが出来る。
 Ⅳ 任意の定理において、UUは除くことが出来る。


ここで「定理」と呼ばれているのは、上の規則によって書き換えが可能な文字列のことを呼んでいる。「公理」とは、前提なしに・無条件に「定理」とされる文字列で、これを出発点に規則によって書き換えが出来るものがこのシステムの「定理」となる。この本では、パズルとして「MU」が定理となるかどうかを考察せよという問題が提出されている。この問題に解答するには、もし「MU」が定理ならば、実際にそれを導く書き換えの文字列を構成することによって解決する。しかし、これが「定理」でなかった場合は、「いくらやっても出来なかった」ということを示すだけでは、それが「定理」ではないということを示したことにはならない。合理的な理由によって、それが決して「定理」にならない、すなわち上の書き換え規則では導出できないのだということを示さなければならない。

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by ksyuumei | 2008-10-20 10:24 | 論理

「私は証明可能ではない」という命題

野矢茂樹さんは、『論理学』(東京大学出版会)という本の中で、ゲーデルの証明の核心となるアイデアを次のように書いている。


・「私は証明不可能だ」を表現する式を自然数論の中で表現する。


「私は証明不可能だ」、すなわち「私は証明可能ではない」という否定命題は、自然数論が対象にする命題ではない。自然数論は、自然数の間に成立する数学的関係を表現するもので、自然数に対する言明になっていなければならない。だから、この日本語表現のままでは、それは自然数について何か語ったことにはなっていない。この日本語表現が、ある種の数式を解釈したときに、そう解釈できるような数式を表現するということがゲーデルのアイデアの核心であると語っているのだろう。

この日本語表現をどのようにして自然数論の中に埋め込むかというのは、数理論理学を少し勉強しなければ判らないが、それは一応ゲーデルがやってくれているし、それがほとんどの数学者に認められているということは、そこには間違いがないという保証になる。というようなことを信じて、それが出来ているという前提で、この命題自身は、日本語表現としてそのまま意味を受け取って、言葉の意味を基礎にして、この命題がどのような論理の展開を見せてくれるかを考えてみようと思う。日常言語の意味の理解の範囲内で、この命題がどのような意義・意味を持っているかを考察してみたい。果たしてうまくいくだろうか。

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by ksyuumei | 2008-10-13 16:53 | 論理

形式システムにおける証明の概念

『ゲーデル、エッシャー、バッハ』(ダグラス・R・ホフスタッター著、白揚社)という本の第2章「数学における意味と形」に「pqシステム」と呼ばれる形式システムが紹介されている。この本は、ゲーデルの不完全性定理の「うまい説明」を語るものだが、そのためには700ページ以上の文章を必要としている。この形式システムの説明では、形式システムにおける「証明」ということが、一般的に日常言語で語られている「証明」とどのように違っているかが説明される。ゲーデルの不完全性定理の理解には、この区別を理解することが必要なのだ。

この章では、普通の意味での「証明」の例として素数が無限に存在するということを証明する「ユークリッドの定理」が紹介されている。これとの比較で形式システムの「証明」を考えると分かりやすいかもしれない。素数というのは中学校程度の数学の知識で理解できるし、ユークリッドの証明もおそらく中学程度の数学の理解があれば判ると思うからだ。

素数は「1とその数自身以外に約数を持たない数」と定義される。具体的には

  2,3,5,7,11,13,17,19,23,29,……

というような数が素数になる。1は素数の中に入れない。これは素因数分解の一意性を保証するためである。1を素数に入れてしまえば、因数としての1は何回でも使えるので素因数分解がただ一つに決定しなくなってしまう。

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by ksyuumei | 2008-10-04 20:20 | 論理

世界の存在とその認識

「世界」という言葉は非常に抽象的でありながら日常的にもよく使われる平凡な言葉だ。だがそれは高度に抽象的なので、それがどのような過程を経て具体的属性が捨象されているかに様々な違いが生じるだろう。ある人が考える「世界」と他の人が考える「世界」が概念において全く一致するということは少ないに違いない。自分が今考えている「世界」というものが、いったいどのようなものであるかを明確にするような表現がどの程度出来るだろうか。自分が考えている「世界」はどうやらこのようなものらしいということを表現してみることで、それに至る思考や論理が見えてくるようにならないだろうかと思う。

野矢茂樹さんのウィトゲンシュタインの解説を読んでいると、論理というものはそれについて直接語ることは出来ず、論理を使って思考したものを述べることによって示すことが出来るだけだという指摘がある。論理の正しさは論理によって説明することが出来ない。それは循環した説明になってしまう。論理的に正しいということは合理的に考えたことだと言える。だが、合理的な思考というのは論理に従った思考のことを指す。我々は論理の正しさをア・プリオリに認めなければならないのではないかとも思える。

かつての僕は、論理の正しさを何らかの現実との結びつきで語ることが出来ないだろうかということを考えていた。現実の存在の反映として、その存在構造が論理として捉えられるのだという考えだ。しかし、存在の多様性は、論理をそれと結びつけてしまうと、存在と無関係に成立するように見える命題論理の正しさが説明しきれない。野矢さんは、論理の正しさは言葉の使い方の正しさの判断だと語っている。しかしそれが何故正しいかは、言葉の使い方の正しさを、言葉で語るという自己言及的な循環したものがまた見えてくる。論理そのものの正しさはやはり語り得ないものになるのだろうか。

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by ksyuumei | 2008-09-11 10:20 | 論理

「何故」を追い求める論理学

昨日、福田首相の突然の辞任発表があった。お昼のニュースでは、防災の日の大規模な訓練で指導者として活動する姿を見たばかりだったので、この突然の辞任劇とのつながりが整合的に理解できなかった。「辞任発表があった」という事実は、その記者会見などの映像で直接理解することが出来るものの、それが「何故なのか」という他の事実とのつながりが読めなかった。このつながりを見つけるには論理の助けがなければならないだろう。

何が原因で辞任という決断に至ったのか。いかなる理由があれば、辞任を決意したのも無理はないというような理解が出来るのか。辞任という事実と、それに先行する他の事実との論理的関連性というのは、事実を眺めていれば自然に発生してくるものではない。Bという事実が発生したとき、それに時間的に先行するAという事実がいつも原因になり理由になるというわけではない。「AならばB」という仮言命題が成立することが前提となって、先行するAという事実が起こることがBという事実が起こる必然性をもたらすという理解がされる。論理的な理解には「AならばB」という仮言命題の理解が必要になる。

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by ksyuumei | 2008-09-02 10:01 | 論理

論説文の主張を形式論理で理解する 2

前回のエントリーでは朝日新聞が社説で展開していたグルジアでの紛争の問題を考えてみたが、田中宇さんの「米に乗せられたグルジアの惨敗」という記事が同じ問題を扱っていて、違う視点を提出しているのを見つけた。社説では一般的な前提として分かりやすい事柄を置いて、どちらかというとロシアに対して道徳的な非難をしていた。しかしこれは社説と違って長大な論説になっているので、社説では語られていなかった特殊な事情も情報として提供されている。

社説での論説は、一般論としてはそうかもしれないが、そのような一般論では日本独自の国益に関しては何も見えてこないなというのが感想だった。だが田中さんの論説では、このグルジアの問題に関して、アメリカの影というものが強く意識されて、日本にとってのアメリカの存在というものも再考させられるきっかけを与えてくれるのではないかと思える。単純にロシアがけしからんことをしたという非難をするのは、ロシアに対する悪感情を持っている人にとっては、非難をすることで自分が勝ったような気分になり溜飲を下げるという効果はあるかもしれない。しかし、そのような感情を満足させたからといって、そのことが持つ意味を正しく理解したことにはならないし、感情的な反応の延長で国際的な関係を読んでしまえば判断の間違いにつながる恐れもあるのではないかと思う。感情的ではない、論理的に整合性のある解釈というものを田中さんの論説をヒントに考えてみようと思う。

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by ksyuumei | 2008-08-29 10:14 | 論理

論説文の主張を形式論理で理解する 1

論説文の主張というものを形式論理のメガネで見てみようかと思う。論説文というのは、事実を単に記述するだけのものではなく、そこに中心となる主張が発見できる。そして、それが論説であるということは、その主張が論理的に根拠づけられているということでもある。それが本当に根拠づけられているものであるか、形式論理を利用して考えてみようと思う。論説文の代表としては2008年8月25日(月)の朝日新聞の社説(「グルジア紛争―ロシアは全面撤退せよ」)を取り上げてみた。インターネットでは時間がたつと見られなくなってしまうので、これも一応全文引用しておこう。


「黒海沿岸の小国、グルジアに侵攻後そのまま居座っていたロシア軍が撤退を本格化させている。まだ一部の部隊が残っているが、ようやく事態収拾への一歩が踏み出された。
 この2週間余りの紛争が残したつめ跡は生々しい。ロシア軍とグルジア軍が戦火を交えた南オセチア自治州の村々では多くの住宅が破壊され、住民に多数の死傷者が出た。
 戦火を逃れた避難民は10万人余り。南オセチアを越えて侵攻したロシア軍によって、グルジア領内の鉄道は寸断され、港湾施設は爆破された。
 グルジアなどのカフカス地域はロシアと歴史的に縁が深い。だが、今回の軍事行動によって、ロシアへの不信や反発が世界に広がったことをメドベージェフ大統領は忘れてはならない。
 ロシア軍の侵攻を非難して、北大西洋条約機構はロシアとの対話のパイプを凍結した。旧ソ連による抑圧を経験したバルト3国やウクライナ、東欧諸国では反ロ感情が燃え上がった。
 グルジアの安定にとって懸念されるのは、領内に残るロシア軍の動向だ。
 ロシアは「撤退は完了した」としている。だが実際には南オセチア、アブハジア自治共和国の両地域に沿ったグルジア領内に「安全地帯」を設け、「平和維持部隊」の名目でロシア軍を駐留させ続けている。
 安全地帯の設立は停戦合意で認められている。だが本来は、紛争の当事者を除いた国際部隊を駐留させるのが筋だ。安全地帯から離れた都市で駐留しているが、これは合意違反だ。
 ロシアの影響力が強い南オセチアやアブハジアでは分離独立の動きが続いている。ロシア軍の駐留が長期化すれば、両地域での動きに拍車をかけ、問題を一層こじらせるだろう。
 混乱を避けるために、ロシア軍はグルジア領内から部隊を全面的に撤退させなければならない。グルジアの領土の一体性も尊重する必要がある。こうしたことについて国連安保理の協議でロシアは譲歩し、合意を急ぐべきだ。
 正常化のために米国や欧州諸国が負っている責任も大きい。
 米ブッシュ政権はこの間、ロシア非難のトーンを上げてきた。グルジアの親米派政権の土台が脅かされたことへの反発からだろう。だが、今はかつての冷戦時代ではない。「対テロ戦争」から世界経済の運営や地球温暖化にいたるまで、ロシアの協力が欠かせない問題ばかりである。
 欧州諸国が紛争仲介に熱心なのは、米ロ関係の悪化が欧州の安全保障に影響しかねないとの懸念からだ。
 領土問題へのロシアの姿勢には無関心ではいられない。日本政府はカフカス地域の安定のため、まず、全面撤退に踏み切るよう、ロシアに働きかけてもらいたい。」

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by ksyuumei | 2008-08-27 09:36 | 論理