カテゴリ:論理( 246 )

田母神論文の論理的考察 6

田母神俊雄氏(防衛省航空幕僚長空将)の論文「日本は侵略国家であったのか」を考察してみようと思ったそもそものきっかけは、この論文の主張に共感する人が意外に多いということだった。僕自身は論理的な弱さを感じていただけに、自分の中には共感する気持ちが生まれてこなかった。どこが共感を呼ぶ要素になっているのだろうかということを知るために考察してみようと思った。

しかし、考察を始めて見ると、論理的な面の弱さが見えてくるだけで、ここが共感する部分なのかというのが見つからなかった。自分が共感を感じられないだけに、自分の中にないものを外に発見することが難しかったのだ。

そんなことを感じていたときに、ライブドアのブログに「CCMFさんからのコメント」をもらった。これが、僕が見えなかったものを見るために非常に参考になるものだと感じた。このコメントでは


「田母神論文に対する否定的評価の典型は、「論文としては稚拙である」「学術論文の体裁をなしていない」など、テキストとしての外形を問題にする批判が、目立ちました。ただ、これは、学者の世界の中だけで通用する言い分でしょう。世の中の普通の人は、理論理屈だけでは、動かないものです。

好意的な評価としては、花岡信昭氏が「審査する側としては、田母神氏の論文はすっと素直に読むことができて、「国家や国民への思い」があふれた内容を高く評価したのだが、政治の世界や一部メディアはこれを許さなかった」と書いています。

「すっと素直に読むことができる」という花岡氏の意見に、私も同感です。これが普通の人の評価でしょう。

田母神氏の文章は、分かりやすい、いい文章だと思います。しかも、読後に、ある種の高揚感を与えます。このような文章は、書こうと思ってもなかなか書けません。

田母神氏のような軍隊や組織の頂点に立つ人には、なによりも、部下の士気を高め、やる気を引き出す能力が求められます。「感情面の「主観」的な見方が入り込む」のは、むしろ、意図的なものかもしれません。と言うのも、相手の気持ちに訴えることが重要なのですから。」


と感想が語られている。この感想は僕の中には全く生まれなかったものであり、おそらく自分では見つけることの出来ない感性だろうと思う。

More
[PR]
by ksyuumei | 2008-12-19 09:40 | 論理

田母神論文の論理的考察 5

田母神俊雄氏(防衛省航空幕僚長空将)は論文「日本は侵略国家であったのか」で、前回に続く文章として次のように記述している。


「我が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。」


ここで記述されていることがどのような意味を持っているかということは、直接記述されてはいないが、文脈から解釈すれば、日本が中国や朝鮮半島の近代化に貢献したということを主張したいのだろうと感じる。これが本当に「貢献」になったかどうかという点については異論を感じるところではあるが、その真偽については今は問うことなく、それが論理的な流れの中でどのような意味を持っているかを考えてみたい。この事実を語ることで田母神氏は、実は自らが抱いている「侵略」というものの概念について語っていると解釈できるからだ。

「侵略」という言葉の概念は、物理的な属性のように対象をよく観察すれば誰でも合意できるような属性として見出せるものではない。そこには様々な判断と評価が複雑に混在していて、その複雑な判断と評価に合意したときに初めて「侵略」という言葉の概念に対しても同じものを持つという合意が成立する。複雑な対象を表現する言葉はだいたいそのような性質を持っている。「数学」の定義は数学者の数だけ存在すると言われている。複雑な言葉はそれをどの視点から見るかで解釈が違ってくる。日本のかつての行為が「侵略」であるかどうかという判断は、「侵略」という言葉の概念によって判断が違ってくる。

More
[PR]
by ksyuumei | 2008-12-18 09:59 | 論理

田母神論文の論理的考察 4

田母神俊雄氏(防衛省航空幕僚長空将)は論文「日本は侵略国家であったのか」で、次に「張作霖列車爆破事件」を取り上げて、これが「コミンテルンの仕業という説」を紹介して日本の正しさの一端を論証しようとしている。しかしこの論証は、あまり本質的なものではなく末梢的な部分の主張になっているように感じる。

「張作霖列車爆破事件」は、日本の戦争拡大が「謀略」によるものであるということを主張するときの象徴的なものだと思うが、それは「謀略」であるということに関連しては重要だろうが、戦争全体が「侵略」であるかどうかという判断に関しては末梢的なものだと思われる。また「謀略」であるという考え方も疑問があるもので、日本はそれほどきめ細かな戦略を持って戦争が拡大したのではなく、偶発的な事件を利用して、いわばチャンスだから「やっちまえ」というような、あまり深い考えなしに戦闘行為に入っていったように評価する人もいる。戦争のイメージを左右する意味では象徴的だろうが、戦争全体の評価に関しては末梢的な部分ではないかと思う。

また、この事件が「コミンテルンの仕業」だとしても、その「謀略」を指摘して非難するのも、「謀略」に引っかかるほど頭が悪かったのだと告白しているようで、戦争の指導者に当たる防衛省航空幕僚長空将としてはふさわしくないのではないかと思う。戦争においてスパイが活躍するのは当然のことで、相手の情報を得て戦争を有利に持って行こうとする「戦略」は常に考えなければならないだろう。それが「謀略」と呼ばれるようなものであっても、道徳的には非難されるかもしれないが、味方を有利に導いていれば味方にとっては賞賛されるような行為になるだろう。相手が「謀略」を仕掛けてきても、それを上回る優れた戦略で対抗することこそが戦争の指導者に求められることだろう。

More
[PR]
by ksyuumei | 2008-12-16 10:07 | 論理

田母神論文の論理的考察 3

田母神俊雄氏(防衛省航空幕僚長空将)の論文「日本は侵略国家であったのか」の中の次の「判断」を示す文章として以下のものを考察しよう。


「我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。」


この文章も、「判断」を示す「で」「ある」という言葉が使われている。この主張においては、「被害者」という言葉をどう解釈するかが問題になる。僕はこの言葉に込められた意味を、「主体的な選択をしたのではない」「そうせざるを得なかった」というニュアンスで受け取る。そうすると、この言葉からは「戦争の結果における日本の責任は大部分は免除される」という結論が導かれるのではないかと思っている。犯罪における「被害者」の位置づけもそのようになっているのではないだろうか。

More
[PR]
by ksyuumei | 2008-12-13 11:14 | 論理

田母神論文の論理的考察 2

田母神俊雄氏(防衛省航空幕僚長空将)の論文「日本は侵略国家であったのか」の中から「判断」を直接語っているように読める部分を探し出し、その「判断」が導かれる過程の論理展開を考えてみようかと思う。まず最初の考察の対象となるのは次の文章だ。


「現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。」


この文章が「判断」を語っていると解釈したのは、文章の終わりに「で」「ある」という「肯定判断」を示す助動詞が使われているからだ。これは「判断」を直接言葉によって表現している。文脈から、何らかの「判断」をしていると解釈できるのではなく、「判断」そのものが直接表現されていると考えられる。

More
[PR]
by ksyuumei | 2008-12-12 10:16 | 論理

田母神論文の論理的考察 1

田母神俊雄氏(防衛省航空幕僚長空将)の論文「日本は侵略国家であったのか」を論理的に考察してみようかと思う。田母神氏が展開している文章を、「事実」と「判断」と「意見(主観の表現)」とに分けて、「判断」に当たる部分の論理性を考えてみようとするものだ。

宮台真司氏によれば、田母神論文の問題点は、防衛省航空幕僚長空将という立場にいる人間が、公的に発した発言が、政府の公的な見解と異なっているところに本質があるという。もし言論の自由ということで意見表明をしたいのなら、その立場を離れて自由な私人として主張すべきだというのが宮台氏の評価だった。あのような意見を表明したいのなら、防衛省航空幕僚長空将をやめてからやってください、というのが宮台氏が語っていたことだった。それがシビリアンコントロールからの見解だという。これはもっともなことだと僕も思う。

宮台氏によれば、田母神論文の問題は、論文の中身の問題ではなく、このようなそれが発表された状況の問題だという。だが、僕はこの論文の中身もちょっと考えてみたい気がしている。それは、「朝まで生テレビ」でこの論文について議論したところ、放送終了後のアンケートでは60%ぐらいの人がこの論文に共感していたという結果が出ていたということをどこかで見たからだ。この共感の多さと、論文の中身との関係について考えてみたいと思った。この共感の多くは心情的なものであり、論理的なものではないだろうと僕は感じる。つまり、論理的に正しいからそれに共感するというものではなく、心情的にそれを好む傾向が日本人の中にあるということの現れだと思う。それは僕自身の中にもあるものかもしれない。この心情を論理によって理解したいと思う。

More
[PR]
by ksyuumei | 2008-12-11 10:15 | 論理

命題論理の形式システムLPの公理の独立性

命題論理LPの公理系は次の3つが立てられていた。

公理
1 A→(B→A)
2 (A→(B→C))→((A→B)→(A→C))
3 (~B→~A)→(A→B)

これに次の推論規則

mp AとA→Bが成立しているとき、Bの成立をいうことが出来る。

を使って命題を生成するシステムがLPということになる。このLPにおいて3つの公理が独立しているというのは、それぞれが他の2つの公理から、公理のA,B,Cの命題の置き換えとmpという推論規則の両方を使っては、決して生成できないものになっているということを意味する。これは、この公理系の無矛盾性と完全性が証明されていることと合わせて考えれば、この3つの公理が必要最小限のものになっているということを意味する。

この独立性の証明は、きわめて構造というもののとらえ方にかかわっているもののように感じる。この生成システムは、どんなにがんばって生成をし続けても、2つの公理と推論規則からでは、もう一つの公理を生成することが出来ない。しかし、それが現実の計算において出来ていないからといって、システム全体として未来永劫にそれが出来ないと結論することが出来ない。今は出来ないけれど、あるとき偶然に出来るかもしれないという可能性は、ただ計算をしてみるだけ(文字列を生成し続けるだけ)では結論できないからだ。規則に従って文字列を生成するだけでは、現実にはそれが生成できないという否定が正しいという結論を導くことが出来ない。

More
[PR]
by ksyuumei | 2008-11-21 23:32 | 論理

命題論理の公理系の構造

『現代論理学』(安井邦夫・著、世界思想社)という本に、LPと名付けられた命題論理の公理系が紹介されている。この公理系は、3つの公理と1つの推論規則から構成されている。とてもシンプルなものである。論理記号としては「否定」と仮言命題を示す「ならば」に当たる2つだけが使われている。これは、「かつ」と「または」を表す論理記号は、この二つによって表現できるので、その構成を出来る限りシンプルにするという目的の下に、この2つに限って使われている。「否定」を「~」で、「ならば」を「→」で表現して、3つの公理を表現すれば次のようなものになる。

公理
1 A→(B→A)
2 (A→(B→C))→((A→B)→(A→C))
3 (~B→~A)→(A→B)

これらの公理の意味を解釈すれば次のようになる。

1 Aという仮定の下に、Bという仮定を立てれば、そのときにAが成立することが前提とされているので、Bの前提を立てたときもAが成立することが帰結される。つまり、あることが常に成立するということが確かめられているときは、そのことはどんな前提をおこうともやはり成り立つということが言える。

2 Aという仮定の下に「BならばC」という命題が成立するということを前提とする。つまり、Aが成立するときに、Bの成立を確認出来れば、Cという出来事の成立を実際に確かめることなく、論理的にCの成立をいうことが出来るというのが前提になる。この前提があるときに、「AならばB」ということが確認出来ると、Aの成立が前提されているので、ここからBが成立することも帰結される。そうすると、前提ではBが成立すれば必ずCも成立することになっているので、このときAの仮定の下でもCが成立する。つまり「AならばB」という仮言命題も成立する。これを主張するのが2の公理となっている。

3 これは対偶の法則を表している。「Bでない、ならば、Aでない」が成立しているとき、Aの成立を仮定する。そのとき「Bでない」になってしまうと、そこから「Aでない」が帰結してしまうので矛盾となる。そこで、この前提の下では「Bでない」ではない、ということになる。すなわちBが成立するので、「AならばB」という仮言命題の成立が主張できる。

More
[PR]
by ksyuumei | 2008-11-20 10:09 | 論理

形式システムは自らの構造を把握できるか?

このところ「構造」という概念についてあれこれ考えている。これは、その把握が難しいと感じていることがあるのだが、「構造」の把握が物事の理解を深めるのに非常に重要ではないかとも感じるからだ。社会的な出来事の意味を理解したり、現状がどのような状況であるのかを正しく評価したりするのにも「構造」の把握は役立つだろう。そして僕が携わる教育においても、「構造」の理解を前提にした対象の理解を図ることによって、その対象の持つ本質を捉えることが伝えられるのではないかとも思える。

日本の教育においてはそこで教えられていることは、問題の解答を得るためのアルゴリズムを記憶することにあるように見える。これは外国においても、旧社会主義国などは暗記教育が主だったと言われていたので、試行錯誤によって思考の展開の仕方を教育するよりも効率的な教育が行えたからではないかとも感じる。つまり、人間の活動を形式システムが行うようなやり方をすることを覚えることにする教育は、努力した分だけ身につくし、解答がある問題に対してはその解答を見つけるという点では効果的だと思われる。

しかし、これはあくまでも解答がある問題の解答を見つけるということで効率的であり役に立つということなのだろうと思う。もしそこで考えている事柄に、形式システムとしては解答が出せないとしたら、暗記した知識では解答が得られないことになる。それでも何らかの実践が必要であるなら、どちらかに決められない曖昧な判断をとりあえず決定して何かをしなければならなくなるだろう。解答のある問題に対しては、必ず正しい判断をしていた形式システムは、このような試行錯誤においては間違える可能性が生じてしまう。

More
[PR]
by ksyuumei | 2008-11-18 09:42 | 論理

形式システムの文字列を自然数によって表現すること 3

「形式システムの文字列を自然数によって表現すること 2」においてMIUシステムと呼ばれる形式システムの文字列に数字を対応させて、システムの文字列の記述を算術的な計算に翻訳することを考えた。文字列の書き換えという思考の展開を数字の書き換えに置き換え、さらにその数字の書き換えが計算として記述できるということを見てきた。

これは形式システムの構造を自然数論の算術の中に写像したものになる。自然数論は非常に強力な記述能力を持っているので、システムの構造を写像することによって、そのシステム自体に言及するようなメタ数学的な命題も、自然数論の算術的命題として記述できる。つまり、算術的命題は、それがある計算を表しているという点で算術的な面を持つと同時に、その計算を解釈することによって、システム自体への言及の意味を読み取ることが出来る。

かけ算や足し算をしたりするのは算術的な計算だが、その計算がある規則に従ったものであることが分かると、それは規則に従った導出をしていると解釈され、その計算の結果得られた数字に対応する形式システムの文字列は、その形式システムでの定理であると判断される。その文字列が定理であるという判断は、形式システムの文字列の生成を語るものではなく、形式システムの全体を捉えた性質に対する言及になる。つまり、この計算はメタ的な意味を持つものとして解釈される。

More
[PR]
by ksyuumei | 2008-10-31 09:17 | 論理