カテゴリ:宮台真司( 50 )

理解の道具としての形式論理 1

宮台真司氏の「連載第二三回:政治システムとは何か(下)」という「社会学入門講座」の最終回に当たる回はたいへん難しい。この内容は、宮台氏の『権力の予期理論』(勁草書房)という本の内容にも通じるもので、この本がまたとてつもなく難しい内容を持っている。

この難しさは、主としてそこで取り扱っている概念の抽象度の高さにあるのではないかと僕は感じている。あまりにも抽象度が高いので、それを思い描くイメージが頭の中に形成されない。概念が言葉の段階で止まってしまっているのを感じる。概念というのは、言葉で定義されているものを、言葉のままで記憶してもそれが運用できるようにならない。それに具体的なイメージが張り付いて、そのイメージの方がある種の変化をして、それを追いかけることによって思考が展開される。

この高度に抽象化された概念を理解するために形式論理が役立てられないかということを考えている。それはかつて大学生だった頃に、数学が語る抽象の世界のイメージをつかむのに記号論理と呼ばれる形式論理がうまく利用できたことから、数学以外の分野でも抽象度の高い理論の理解に形式論理が利用できないかと期待したいものがあるからだ。

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by ksyuumei | 2008-08-16 11:38 | 宮台真司

政治的決定に人々が従うための源泉としての「権力」の概念

宮台氏の「社会学入門講座」での、いよいよ最後に登場する「政治システム」の概念の理解に向かいたいと思う。「政治システム」とは「連載第二二回:政治システムとは何か(上)」によれば「社会成員全体を拘束する決定──集合的決定という──を供給するような、コミュニケーションの機能的装置の総体」というものになる。「政治」については、様々な側面が見られることだろうが、その機能に着目して、秩序維持のメカニズムを解明したい社会学(システム理論)では、このような定義(概念化)が妥当だろうと思われる。

この「政治システム」が講座の最後に登場するというのは、それなりに社会の構造を反映しているのではないかと思われる。政治こそが、現代社会の安定的な秩序の維持に決定的な要因を与えているようにも思われるからだ。現代社会というのは、慣れ親しんだ他者だけではなく、匿名の大多数の見知らぬ他者とつきあっていかなければならない社会となっている。そのような他者がどのように振る舞うかは、全く白紙の状態であれば予想もつかない不安なものになる。社会の中で、安定した秩序ある生き方ができるようには思われない。

そのとき、大多数の行動を支配する政治的決定に信頼ができるのであれば、現代社会の様々な人々の行動の現れに信頼を置くこともできる。政治的決定は、個人的な口約束とは違い、それを守るべきだということがすべての人々に了解されているもっとも信頼の高いルールである。社会の秩序を説明するのに、もっともふさわしいシステムとなるだろう。これが最後に説明されるということで、最初の方にあった問い「社会とは何か?」ということも、この概念からの連想で、「政治的決定が守られるシステムを持っている」社会を、安定した社会と呼ぶことができるのではないかと思う。

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by ksyuumei | 2008-08-02 15:54 | 宮台真司

「特定人称性/汎人称性/奪人称性」の概念

「連載第二一回:法システムとは何か?(下)」の終わりの部分で、宮台氏は、ルーマンの「法的決定手続が予期の整合的一般化」をもたらすという考えがはらんでいる問題を解決することを目的として、表題にあるような「特定人称性/汎人称性/奪人称性」という概念の説明をしている。これが、本当にそのような目的にかなってるのかということを論理的に理解してみたいと思う。

論理的に理解するということは、現象を観察して、宮台氏が主張するような事実を見つけて納得するということではない。つまり、ある事実を知ることによって「そうだなあ」というふうに思うのではないのだ。宮台氏の主張は、あくまでも論理的な流れとして、ある種の推論の帰結として提出されているという理解をすることだ。

このような論理的な理解をするには、仮言命題と呼ばれるものが大切になってくる。仮言命題こそが論理的な推論を明らかにする道具なのだ。宮台氏が大前提としている出発点となる命題が何なのか。それが仮言命題の最初の前件となるものだ。そしてその前件を持つ命題は、どのような法則性を持っているか。その法則性が、確かに仮言命題として妥当に導かれるものであれば、最初の結論は論理的に理解できる。宮台氏が語る主張の最後に当たる部分(目的とするルーマンの不備を解決するという主張)は、単純な仮言命題で導かれるものではなく、複雑な仮言命題の鎖でつながれているものだと思われる。その鎖を、一つ一つのつながりが納得できるように解きほぐして論理の飛躍を埋めることで、その論理の流れを理解しようと思う。

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by ksyuumei | 2008-08-01 11:30 | 宮台真司

前者の欠点を克服していく法をめぐる論理の流れ

宮台氏は、「連載第二一回:法システムとは何か?(下)」でルーマンが語る法理論について説明をしている。これを前回の流れと関連させて考えてみると、ハートの法理論が不十分であった部分を補ってそれを克服するものとしてルーマンの理論が提出されているように見える。ハートの理論も、それ以前の理論の不十分なところを克服するものとして考えられていた。この一連のつながりを論理の流れとして受け止めると、論理的には非常に興味深いものになる。

その登場する順に、基本的発想(法というものの捉え方)と、それから発生する問題点を整理してみようと思う。まず最初のものは


1 法実証主義:法は人が置く(pose)ものだとする立場、「法=主権者命令説」。
        これは「主権者による、威嚇を背景とした命令」が法だとするもの
        法内容の恣意性が克服できない問題がある。
  自然法思想:自然法=神法あるいは、人間的本性に基づく自然法という考え。
        近代の自然法論は事実上「法=慣習説」。
        この説では、近代社会で日々反復される法変更(立法)を基礎づけられない。


という二つが挙げられていた。それぞれが法現象の一側面を合理的に説明していたが、それぞれに問題点も指摘されていた。この考え方は、法現象の基礎に何か固定的な前提があって、その前提のもとに現実がある程度合理的に(論理的に)説明されると考えている。法は合理的な全体性(構造)を持っているという見方になるだろうか。

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by ksyuumei | 2008-07-30 22:00 | 宮台真司

「言語ゲーム」の概念を機能的側面から考えてみる

宮台氏は、「連載第二〇回:法システムとは何か?(上)」の中で「ハートの言語ゲーム論的な法定義」というものを紹介している。「言語ゲーム」という概念は、これまでも何回か考えてみたが、その概念をつかむことが非常に難しい、高度に抽象化された概念である。具体性がほとんど感じられない。イメージとして思い浮かべることの難しい概念だ。

たいていの場合は、「言語ゲーム」という概念をまず理解して、その理解の基に、ハートが語った法定義の理解を試みるという順番で思考を展開していく。しかし、「言語ゲーム」の概念が難しいので、これを逆に考えて、ハートがどのような目的を持って「言語ゲーム」を利用しようとしたのかを考えて、ハートが「言語ゲーム」に求めた機能を逆にたどって、そこから「言語ゲーム」なるもののイメージをつかむようにしてみたらどうだろうかということを考えてみた。

このような理解の方向があるというのも、一度敷かれた道を後からたどる人間の有利さというものだろう。先駆者であれば、誰も考えたことがない概念を駆使しなければならないので、このような、迷路の出口から逆にたどるというような思考の流れを考えることは出来ないだろうが、後からたどるものにはそのようなことも許されると思う。コロンブスの卵は、最初にそれを発見した人間には天才性が必要とされるが、後からそれを知る人間は、単にその合理性をたどる技術があればいい。その技術を論理というものが与えてくれるのではないかと僕は思う。

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by ksyuumei | 2008-07-29 00:28 | 宮台真司

「法」の本質を求めることに有意義な意味はあるのか?

「連載第二〇回:法システムとは何か?(上)」で宮台氏は、「法」を「紛争処理の機能を果たす装置の総体」と定義している。これは、システムというもので社会を捉える発想からはごく当然の定義だと、今ではそのように僕は感じる。システムというのは、その機能に注目して設定するものだ。だから「法」をシステムとして捉えるのであれば、当然のことながら機能面を最重要なものとして定義し概念化することは必然でさえあると思っている。

しかし以前の僕なら、三浦つとむさんが批判していた「機能主義」という言葉が気になって、機能を基礎的な概念として設定するのは、「機能主義」という間違いに陥っていないだろうかということが気になっていた。機能というものが、その対象の本質を果たして表現しているものになるかということが気になっていた。

それは何か唯物論的な発想というものが、存在という「実体」を基本的なものとして考えていて、機能はあくまでもその「実体」の作用という働きを示すものであるから、本質は「実体」のほうにこそあるという先入観があったからだと思う。それが唯物論的な見方だと思っていたのだ。しかし宮台氏のシステム論の発想を知って、それをよく考えてみると、対象の「本質」を求めるという発想そのものが、実はあまり実りのないものではないかという感じもしてきた。

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by ksyuumei | 2008-07-27 23:12 | 宮台真司

宗教システムの具体的現れと社会の中での位置付け

「連載第一九回:宗教システムとは何か(下)」で宮台氏は、「〈世界〉内の事象は基本的に偶発的ですが、大抵は事後的な前提挿入により馴致可能です」と語っている。これは、偶発性がある種の合理的解釈で片付けられるなら、それによって不安がもたらされることなく、それはやり過ごせるものになることを教える。「「病気に罹ったのは不摂生だったからだ」というとき、「自分だけ病気に罹る」という偶発性は「不摂生だった」という前提が持ち込まれることで、受容可能に加工されます」というわけだ。

すべての偶発性がこのように解釈で切り抜けられるなら、その個人には不安もパニックもないだろう。しかし、「偶然の出会い・不慮の死等は、そうした前提挿入を以てしては納得不能な、前提を欠いたものとして現れ得ます。「個別の出来事」のみならず、なぜ「その」法則、「その」道徳が存するか、という具合に「一般的枠組」も前提を欠いたものとして現れ得ます」と宮台氏が語るように、すべてをやり過ごすことは、複雑化した現代社会では難しい。この、不安とパニックを起こしそうな偶発性に対して、それを無害化し受け入れ可能にする機能として宗教が存在する。

「前提を欠いた偶発性は、期待外れの衝撃を吸収困難にし、意味あるものに意味がないという形で〈世界〉解釈を不安定」にする。これを無害化するシステムがあれば、社会はその働きによって安定し秩序を保つことが出来るだろう。これが宗教というものの、社会システムに対する基本的な存在の理由になる。システムとしてその存在を捉えるなら、このような機能を持つ装置として考えることがもっともふさわしい。

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by ksyuumei | 2008-07-26 23:08 | 宮台真司

機能(システム)としての「宗教」概念

宮台氏は、「連載第一八回:宗教システムとは何か?(上)」で下位システムの一つである「宗教システム」について書いている。下位システムとは、上位のシステムが、その機能の達成のために機能を分化してその内部に部分として作りあげたシステムになる。

この下位システムに対しては、上位のシステムは「環境」となる。下位システムの存在の前提条件を供給するものとなる。この下位システムが「下位」と呼ばれているのは、単に部分として含まれているという関係だけではなく、上位システムの存続のための機能(秩序を保つための機能)を分け持つという「分化」という関係に注目してそのような呼び方をしている。注目するのは機能の分化である。

システムというのが、そもそもある機能を達成するための装置と考えられているので、このような思考の展開は、システムの概念から導かれる流れとしては自然なものになるだろう。社会をシステムとして捉えるというのは、社会において秩序が達成されるための機能を持つ装置のメカニズムを解明するという理解のしかたになる。社会の全体性をいきなり捉えるのは難しいので、その一分野を受け持つ下位システムをまず解明しようという方向は、論理的にも理解しやすいものになるのではないかと思う。

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by ksyuumei | 2008-07-26 12:58 | 宮台真司

社会システムの下位システムへの「分化」という概念

下位システムとは、上位システムに対する概念として提出されているものだ。システムの場合は、あるシステムが部分的にもっと小さなシステムを含んでいるという状態が、全体と部分という対立ではなく、上位と下位という対立として把握されている。これは、上位システムが「環境」と呼ばれるものであり、下位システムの選択前提を与えているものという観点があることによって、上位と下位という見方になる。単に大きい・小さいという全体と部分という視点ではなく、あくまでも選択前提というシステムの根幹に関わる部分を見るために、上位と下位という区別をしているのだろう。

社会というのは、人間の協働が見られるシステムでは最上位に当たるものになるだろう。現代社会は複雑な構造を持っていて、そのまま眺めていたのでは、どうして秩序が保たれているかがまったく分からない。そこにある必然性を洞察することが出来ない。そこでこの複雑な社会システムを、部分をなす下位システムに分けて把握することが考えられる。複雑すぎる現代社会のシステムは、もっと小さな単位に当たる社会の一部の機能に秩序を与えるシステムに分解される。

これは、社会システムを把握するために、複雑すぎる全体を分解するという、一つの思考の技術を使っていることになる。しかし、実際は現実はその逆に、部分をなす特殊機能を果たすシステムが発達したからこそ、現代社会は全体の複雑化を増す方向へと進化してきたのではないかとも考えられる。そのようなシステムの捉え方が「分化」という概念に当たるような気がする。この「分化」という概念を持つことにより、社会システムの進化が見えてくるような気がする。

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by ksyuumei | 2008-07-25 20:42 | 宮台真司

「自由」を脅かすものが存在しても、なおかつ「自由」の存在を主張できるか?

「自由」については、すでに「連載第7回 選択前提とは何か」で語られていて、それは「選択前提が与えられているが故に「滞りなく選択」できる状態だ」と定義されていた。具体的には

(1)選択領域(選択肢群)が与えられ、及び/或いは
(2)選択チャンスが与えられ、及び/或いは
(3)選択能力が与えられた状態を指す

と説明されていた。基本的には、「自由」の概念は、この定義で与えられるイメージによって理解される。それを再度「連載第一六回:自由とは何か?」で論じるのはどうしてか。それは、「自由」に対して、そのようなものがありえないという主張に反論するためであるように見える。

人間の選択にはある種の制約があり、どうしても「自由」にならない限界が存在するのだから、「自由」というものが人間にはありえないのだという主張がいくつか語られる。この主張は、「自由」の概念の根源に関わるものだが、「自由」を、完全に制約から逃れているもの、つまり何ものにも縛られていないのだというイメージで捉えていれば、そのイメージにそもそも現実には「自由」がありえないということが含まれてしまう。すべての制約を取り外すということは、現実に存在しているという現実性を捨象してしまうことを意味する。それが現実に存在しているのなら、現実のある時間・ある場所を占めているということだけで、そこには制限が生じてしまうのだから、現実性を棄てない限り、すべての制約(しがらみ)から逃れることは出来なくなる。このような「自由」の概念は、原理的に現実性を持つことが出来ない。

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by ksyuumei | 2008-07-24 23:19 | 宮台真司