カテゴリ:宮台真司( 50 )

『14歳からの社会学』 卓越主義的リベラリズムとエリート

仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんは、民主主義を「最後の奴隷制」と語っていた。奴隷というのは意志のある主体的な存在とは認められず、その持ち主の意志に従ってどうにでもなる存在だ。民主主義における人間も、自らの意志に反して他者の意志を強制されるという一面を持っている。多数が賛成した事柄は、たとえ少数の反対者がいようとも、多数の賛成によって決定したというプロセスを元に、反対者といえどもその意志が強制される。この面を捉えて、板倉さんは民主主義を「最後の奴隷制」と呼んだのだろうと思う。

民主主義は非常に価値の高いものとして多くの人に捉えられてきたし、僕もそう思っていた。科学的な真理というのは、科学としての手順を踏んで証明されたものは、賛成者が多いか少ないかにかかわらず真理であることが確信できる。しかし、科学として真理が確かめられない事柄は、最も真理に近い判断を求めるために民主的な手続きを踏むことがいいという発想は正しいように感じる。議論を尽くして求められた結論は、多くの人が賛成したものの方がより真理に近いように思えるし、それが間違えていたときも、賛成した多数者が責任をとるという形にしておけば、間違ったときの反省も出来て、以後はより真理に近い判断が出来るようになるだろうと期待できる。

民主主義がすばらしいものであるというイメージがあったときに、それを「奴隷制」と呼ぶようなマイナスのイメージを提示されることは衝撃的だった。民主主義には必ずしもいい面ばかりではなく、欠点もあることを具体的に指摘され、しかもそれが納得できるようなものだった。板倉さんの指摘は、科学における真理にも、多数決的な民主主義的な判断がされた歴史があり、それが間違えていたということから導かれたもののように感じる。みんなが判断するということにふさわしくないことまでも民主的な手続きで決定することに間違いがあるという指摘だ。

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by ksyuumei | 2009-01-19 09:49 | 宮台真司

『14歳からの社会学』 社会におけるルールの正当性

宮台真司氏は『14歳からの社会学』の第2章で社会のルールについて語っている。社会にある種のルールが存在するのはある意味では当たり前で、そのルールにほとんどの人が従っているときは、それがルールであることさえも意識せずにいるだろう。しかし、そのルールを破る人が出てくると、それがルールとして正しいのか・有効なのかということが気になってくる。その判断はどうして考えたらいいのだろうか。

ルールを疑わない人は、そんなものは常識ではないかといって済ませるかもしれない。しかしその常識が通用しないときは、いくら常識であることを主張してもルールを維持することには役立たない。また、そのルールが今の状況には合わないのではないかと思っても、ルールがある以上仕方がないというあきらめの気持ちも生まれてくる。そのような場合はなし崩し的にルールが守られなくなっていく無秩序の状況を、何か変だと思いながらも受け入れていくようになってしまうような気がする。

社会のルールは、自分の感性(好き嫌いや気持ちがいいかなどという感情の働き)で判断して正当性を確立することが出来ない。これだけ感性が多様になってきた現代社会では、感性に頼った判断は合意が出来ないからだ。多くの人が合意できるような判断を求めるには、やはり論理に従った判断を求めるしかない。それが社会を理論的に捉えようとする社会学の必要性を要求する。現代社会のルールを理解するには社会学的な素養が必要になる。現在の成熟社会を生きる人間だからこそ「14歳から」社会学の素養が必要になる。

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by ksyuumei | 2009-01-15 09:57 | 宮台真司

『14歳からの社会学』 本当にみんな仲良しなのか?

宮台真司氏が『14歳からの社会学』という本を書いた。この本は、14歳でも読めるように、知識と経験に乏しい人でもその内容が分かるように配慮されて書いてある。一つの社会学入門書と言っていいだろう。子供のための入門書は、例えば「14歳のための○○」というような表題になっているものもある。しかし、宮台氏の本では「ための」ではなく「からの」という表現になっている。これには深い意味があるのではないかと感じる。

社会学というのは、今の大人たちも学校で習ったことがない。しかし、これまでの大人は、社会に出て働いたりすれば、それなりに社会というものがどういうものであるかを経験で知ることが出来た。学校で習わなくとも、学校を卒業した後に、社会のことは社会で経験することによって学ぶことが出来た。それが今ではたいへん難しい時代になっているのではないかと思う。

今日は成人式であり、日本では二十歳を過ぎれば一応大人として認めてもらえる。それは、大人としての義務を果たさなければならないというものがいくつか発生することでもあり、大人として行使できる権利を手にすることが出来ることでもある。かつての大人たちは、この儀式を通過することで大人としての自覚を持つことも出来たが、今はそれは難しい。子供たちはどうやって大人になればいいかが分からなくなっている。社会が安定していた時代は、ある種の通過儀礼を経ることによって誰もが大人になった。しかし、複雑化し流動化した現在は、どうなれば大人になれるのかが分からなくなっている。

大人になるということは、おそらく社会というものが理解できたときにそのような自覚が生まれてくるのではないかと思う。宮台氏が「14歳からの」という限定付きの社会学を語っているのは、これからの時代は、社会を理論的に捉えなければ理解が難しくなったのだということを語っているのではないかと思う。14歳からそれを意識することで、やがて二十歳になり大人になるときに、自信を持って大人だと言えるような何かがつかめるのではないかと思う。

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by ksyuumei | 2009-01-12 22:07 | 宮台真司

『亜細亜主義の顛末に学べ』(宮台真司・著、実践社)

この本は、「亜細亜主義の顛末に学べ」と題されているのに、「亜細亜主義」についてはほとんど具体的な記述がないという不思議な本だ。「亜細亜主義」についてはすでに一定の予備知識を持っているという前提で書かれているようだが、その「顛末」をどう理解するかについてはどこかで一言触れておいて欲しかったと思う。それがないために、その疑問を抱いたまま読み進めるというような形になる。

おおざっぱに言えば、アジアとの連帯を求めた理想主義的な思想であったにもかかわらずに、結果的には列強の侵略と同じものを招いてしまったというのが「亜細亜主義の顛末」と考えられるだろうか。これから何がどのように学べるのだろうか。

この本は副題として「宮台真司の反グローバライゼーション・ガイダンス」というものがつけられている。その帯の部分には「アタマ悪いが力は強いジャイアン・アメリカをどうコントロールするか」という言葉が書かれている。「亜細亜主義の顛末」に学ぶことによって、このような目的が達成できるという主張なのだろうと思う。だが、このつながりをすっきりと腑に落ちるように理解するのは難しい。反グローバライゼーションに関する論説は、それだけを取り上げるのであれば理解できないことではないが、これがどうして「亜細亜主義の顛末」とつながっているのだろうか。このことの意味をちょっと考えてみようと思う。

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by ksyuumei | 2008-12-23 12:29 | 宮台真司

理解の道具としての形式論理 7

宮台真司氏の「連載第二三回:政治システムとは何か(下)」で語っている「権力反射」と「権力接続」という概念は、全体の論理構造の中ではどのような位置を占めているのだろうか。この概念を運用して、その中に含まれている意味を引き出したとき、政治システムというものを捉える理論全体ではその論理的帰結がどのような意味を持ってシステム理論というものを見させてくれるのかを考えてみたい。

政治システムというのは、そもそも政治的決定といわれているもの(民主主義体制では多数者の意志が決定される)に社会の大多数の人々が従う現象のメカニズムを説明するものだった。人間には意志の自由があるにもかかわらず、決定に反する意志を持つものは少なく、大部分が決定に従うことによって社会は安定と秩序を保つ。これはシステムとしてある種のフィードバックを繰り返すことで、その秩序を保っていると考えるのがシステムの発想だ。

権力という概念は、この人間の意志に働きかけて、決定と外れるような意志を持とうとすると、それに対して制限をするような圧力として機能するものと考えられている。というよりは、そのような現象が見られたとき、その機能を発揮するものを権力と呼んでいるといった方がいいだろうか。そうすると、システムの中のループを構成し、フィードバックの道筋を作るものが「権力反射」および「権力接続」というものの概念と考えられるだろうか。この概念から引き出せる論理的な展開は、権力というものが個々の人間存在に働きかける個別的なものとしてまず抽象されていたのだが、それを社会全体にループを広げる契機として設定できるということが概念から引き出せるのではないだろうか。

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by ksyuumei | 2008-08-23 09:55 | 宮台真司

理解の道具としての形式論理 6

今回宮台真司氏の「連載第二三回:政治システムとは何か(下)」の中で取り上げるテーマは「権力反射」と「権力接続」という概念だ。これはかなり複雑な概念で、しかも高度に抽象的なものだ。それゆえ理解をすることがたいへん難しい。

この概念は「権力源泉の社会的配置」を考察するための道具なのだが、権力を可能にする何らかの圧力をもたらす力であるところの「源泉」というものが、社会においてはどのように複雑に絡み合っているかで、その権力が人々に「回避的選択」を選ばせるという効率に関係してくる。強大な権力の源泉において、その力が「反射」するというニュアンスと、「接続」するというニュアンスがどう違うかを理解し、それが社会の成員という大多数の人々の間でどのようにつながっていくかという複雑さをイメージ出来なければならない。それが出来たとき「権力反射」と「権力接続」の概念が理解できたと言えるだろう。

さて「反射」というイメージで最も分かりやすいものは鏡による光の反射のような現象だろうか。このとき我々は「反射」という言葉で何を表現しているだろうか。光は障害物がなければまっすぐ進む性質を持っている。だが鏡に当たった光はそこで鏡によって進む方向を変えられる。この進行方向の変化ということが「反射」という表現のニュアンスで大事なものになるだろうか。

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by ksyuumei | 2008-08-22 10:03 | 宮台真司

理解の道具としての形式論理 5

さて前回引用しておいただけの宮台真司氏の「連載第二三回:政治システムとは何か(下)」の次の文章の考察をしてみよう。


「以上の復習を纏めると、権力を可能にする了解操縦とは、相手の了解において「権力主題を与えて回避的状態を構成する」ことだと言えます。人称性の操縦による「抵抗の宛先の不在」も「抵抗の宛先の分厚さ」も、回避的状態への否定的選好を強める働きをします。」


この文章で重要なのは、「回避的状態への否定的選好を強める働きをします」という主張が、論理的に導かれていることを理解することだ。それは現実の権力現象を観察して、観察した結果として「そのように見える」と主張しているのではない。もしそれが観察の結果に過ぎないのであれば、そのときはそうだっただろうが、それが普遍的な法則性を持っているかどうかは分からないとしか言えないだろう。帰納的推論は、「そう見える」ということから「そうだ」という結論を引き出そうとするもので、これは仮説以上のものはもたらさない。しかし、演繹的推論によって論理的に導かれた結論は普遍性を持つ。

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by ksyuumei | 2008-08-21 09:39 | 宮台真司

理解の道具としての形式論理 4

宮台真司氏の「連載第二三回:政治システムとは何か(下)」で次に論じられている「権力の人称性」ということの意味を考えてみようと思う。これは「最も重要な了解操縦」と書かれている。

宮台氏の権力論では、直接の物質的な力そのものを「権力」と呼んでいるのではなく、服従者が理想状況と考える選択を選ぶことが出来ずに、現状の条件での次善策を選ばざるを得ないときにそこに権力現象を見て、それを可能にする何かを「権力」と呼んでいた。そして、その何かは「選好構造」と「予期構造」によって表現されていた。この何かは、実体として提出できるものではなく、そのような「回避選択」をもたらすような装置として機能的に捉えられているように思う。

この装置をうまく働かせる、つまり権力者の意図を実現させるように服従者の「選好構造」と「予期構造」を操縦することが「了解操縦」と表現されている。これは、「選好構造」と「予期構造」を確定すれば、そこから必然的に「回避選択」が出てくるように構造を作り上げるということだ。この構造の構築が「了解操縦」といわれている。

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by ksyuumei | 2008-08-19 10:02 | 宮台真司

理解の道具としての形式論理 3

宮台真司氏の「連載第二三回:政治システムとは何か(下)」に書かれていることで、今回は「宮台理論の特徴は、権力が服従者の了解(選好と予期)に即して定義されることです。了解の正しさは問われません」ということの意味を考えてみよう。

宮台氏の「権力の予期理論」では、「選好」と「予期」とはいくつかの選択肢で与えられる。最も単純なものでは、肯定と否定との選択肢が与えられ、それのいずれかを選ぶかということで「権力」の体験が語られていた。最も望ましいと思える選択肢が選べず、現実の条件ではそれが最も不利益にならないというものが選ばれる。選好の最適なもの(理想状態)と、現実に圧力を受けて予期から選択される次善的なものとがずれる。このずれに「権力」の体験を見ようというのが宮台氏の理論だ。

強盗に襲われたときに、ピストルで撃つと脅され、金を出せといわれる体験をしたとする。このとき、撃たれずに金も出さないということが理想の選択だが、これは現実ではあり得ないだろうと予期する。現実に最もありそうなものは、金を出さなければ撃たれるというものだ。その状態は大きな不利益になるので、せめてそれを避けるためにでも金を出すという選択を取らざるを得ない。こう判断するのが「権力」の体験だと考える。自分の利益になる方を選びたいという意志に反した行動を取らざるを得ないという圧力が「権力」として感じられる。

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by ksyuumei | 2008-08-18 09:59 | 宮台真司

理解の道具としての形式論理 2

宮台真司氏の「連載第二三回:政治システムとは何か(下)」に書かれている文章を一つ一つ、論理的に理解するということを目指して細かく見ていきたいと思う。前回に続く文章で今回理解を図るのは、宮台氏の「権力の予期理論」に関係する文章だ。それは、宮台氏の説明によれば次のように語られる。


「概括すると、選好構造と予期構造の組に由来する、回避選択への圧力が存在するとき、この圧力を体験する者を服従者とする権力が存在すると見做します。」


この文章は、初めて読んだときには、何が書かれているのかさっぱりイメージがわかなかった。ここにはまず用語の難しさがある。「選好構造」「予期構造」「回避選択」という言葉が何を意味しているかを知らなければならない。上の文章は、論理としてはそれほど難しいことを語っているものではないが、この用語の難しさが理解を難しくしている。

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by ksyuumei | 2008-08-16 16:56 | 宮台真司