カテゴリ:哲学一般( 17 )

デカルトの偉大さ

ウィトゲンシュタインが考えたような命題の集まりである世界の全体が、どのようにして広がっていくかという過程を考察しようとして哲学史を調べている。哲学に革命的な進歩をもたらした発想は、ほとんどの場合それまで自明だと思われていたことを疑い、世界像というものを新たに作り直すことによって哲学というものを革新しているように見える。

特に、方法的懐疑というものによってすべてのものを疑い、確実な真理を求めたデカルトに関心を持って調べている。調べているいくつかの哲学史の書物の中で、入門書的な『初めての哲学史』(竹田青嗣・西研:編、有斐閣アルマ)という本の中にちょっと気になる記述があった。板倉聖宣さんは、良い入門書は根源的な問題について書いてあるので、専門書のような細かい記述を求めるのでなければ、その分野の最も大切な本質が学べるようなものが入門書の中にこそあると語っていた。内田樹さんも、入門書の中にこそ誰も扱わないような、しかも誰もが疑問に思うような大きな問題が語られているといっていた。

竹田さんと西さんのこの入門書も、板倉さんや内田さんが語る良い入門書の性格を持っているもののように感じた。これは単に、専門的な細かい知識を、ちょっと薄めて分かりやすく並べただけの入門書ではないように感じる。ここには、哲学というものに潜む根源的な問いが込められているように感じた。そこでデカルトに関する記述についてもちょっと気になるようなものが目についたというわけだ。

More
[PR]
by ksyuumei | 2008-09-21 11:46 | 哲学一般

我々は同じものを見ているのか?

『科学理論はいかにして生まれるか』(N.R.ハンソン・著、講談社)という本の冒頭に、二人の観察者が同一の対象を見ているのかどうかという議論が語られている。細胞を観察する微生物学者の例はちょっと難しい。それは「細胞」というものの厳密な定義を僕がよく知らないからだ。だから、二人の生物学者が、一方は観察した対象を「細胞である」と判断し、もう一方が「細胞でない」と判断した場合、自分はどちらに見えるかということを判断することが難しい。この場合は、定義の曖昧さから、二人の見たものが同じであるかどうかという判断も曖昧になる。

もう一つの例の、ケプラーとティコ・ブラーエの例はもう少し考えやすいだろう。この二人が「明けゆく東の空に同一のものを見ているだろうか」という問いを著者は提出している。これは、細胞の場合と違い、天体という対象は、目に見える実体を「個体」(他のものと区別できる存在)として指し示すことが出来るので、細胞よりも単純な対象として捉えることが出来る。だから、同じであるか違うものであるかを考えやすいだろうと思う。

ケプラーとティコの場合は、視点を違えると「同じである」とも「同じでない」とも、両方とも主張できてしまう。つまり弁証法的な矛盾が生じる。それを写真的な映像という視点で眺めてみれば、二人の目が捉えた映像を比べてみれば「同じである」と結論できるだろう。視覚に異常がなければ、二人の見たものの映像はぴったり重なると考えられる。だからこの二つは「同じもの」だという判断が生まれる。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-12-11 10:12 | 哲学一般

数は実在するか

以前のエントリーで、負の数を実体的に表す物質的存在はないという議論をいくつか展開したが、存在論というのは現実に対して何らかの考察をするときに前提となる重要なことではないかと思う。この存在論の発想が違ってくると、それを基礎にした論理展開も微妙にずれてくるように感じる。特に歴史的事実などの存在をめぐっては、「存在した」「存在しなかった」という判断は、存在論のあり方にかなり規定されるのではないかと思われる。

僕にとって負の数は概念として創りあげたものというイメージが強かったので、そのままの形では実在しないというのはほぼ自明のことではないかとも感じていた。しかし、概念として捉えた物事が、そのままの形では実在しないと結論してしまうと、すべての概念はそのままの形では実在しないのだから、概念と実在との結びつきが考察できなくなってしまう。実際には、現実の存在から正しく抽象されてきた概念と、空想的に概念を結びつけて実在と関係なく創りあげた概念があるだろう。

この両者をどのようにして区別するかということが問題になる。数に関して言えば、自然数というのは文字通り自然の対象に基礎を置いた数であり、実在する物質的存在を観察し抽象して創りあげた概念というものになる。それに対し負の数は、実在の対象の性質を概念として取り出し、その反対の概念と結びつけて新たに概念操作として創りあげた概念というものになる。ここに直接の実在と結びつかない契機が存在すると僕には思える。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-11-12 10:38 | 哲学一般

存在の問題の難しさ--その弁証法性

「『論理哲学論考』が構想したもの8  複合的概念が指し示すものの存在」のコメント欄に、Kさんという方からのコメントが送られてきた。僕は、このコメントを見たとき、最初は「揚げ足取り」をしてきたのではないかという印象をもった。だから、このコメントを反映させる必要はないかなとも考えていた。

しかし、よく読み返してみると、「揚げ足取り」という最初の印象を示すような直接の言葉というのが見つからなかった。「揚げ足取り」というのは、辞書によれば「《技を掛けようとした相手の足を取って倒すところから》人の言いまちがいや言葉じりをとらえて非難したり、からかったりする。」と説明されている。これは単純な対象を指し示して、実体として指摘できるような「名」ではない。その現象を分析して、このような性質を持っているという判断がされたときに、「揚げ足取りだ」と表現される複合概念になっている。

だから、「揚げ足取り」というのは、直接これだといって言葉を指し示して判断できるものではなく、「言い間違い」や「言葉尻」というものを分析して判断しなければならないものになっている。それを僕は、読んだときの自分の印象から最初は判断した。これは、その前のコメントに「罵倒」を表す言葉が含まれていたので、それとの関連から、「存在」という言葉の意味の二重性を捉えて「揚げ足取り」をしに来たのではないかという印象を持ったからだ。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-10-25 10:09 | 哲学一般

「存在」という属性

野矢茂樹さんは直接書いていないのだが、「存在」という属性をどう捉えるかというのを、単純なものと複合的なものという発想からの応用問題として考えてみようと思う。野矢さんの解説によれば、ウィトゲンシュタインが真に存在するとして考えたのは、指し示すことが出来る単純性を持った「対象」に当たるものだけだったように思われる。この真に存在するものが示す事実から切り出されるものが「対象」であり、それを表現する言語が「名」と呼ばれた。

「名」は対象の像として存在するので、それが「名」として存在するためには、本体である「対象」の存在を必要とする。この「対象」の存在は、「名」の前提となるもので、存在そのものを何らかの方法で証明したりすることが出来ない。存在そのものに関しては、ウィトゲンシュタイン的な表現を使えば「語りえぬもの」ということになるのではないだろうか。野矢さんの表現を借りれば、それは「示されるもの」と捉えなければならないのではないかと思う。

存在が証明されないものであるなら、それは経験的なものではなくなる。つまり経験を越えたものとして、ア・プリオリ(先験的)に所与のものとして我々の前に現れていると受け取らなければならない。このア・プリオリ性を直感的に納得するのはかなり難しいのではないかと思う。思い込んでいれば存在することになるのかという問題があるからだ。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-10-24 10:22 | 哲学一般

不可知論と物自体

「不可知論」というものを、認識には限界があることを主張するものだと定義している人がいるかもしれない。「〝学習通信〟040710 ◎「ほんとうのことは分からない」……。」には次のように書かれている。


「不可知論の考え方
 「私たちの知識に原理的に限界がある」という考え方は、哲学では「不可知論」という言葉で呼ばれます。この言葉を文字どおりに読めば、「知ることができない」論です。私たちはたしかにさまざまなことを知ることができるが、私たちの理性にはこれ以上超えることのできない境目があって、そこから先は、どうあがいても、人類史がどんなにすすんでも、人間の英知がどれほど発達しても、越えることはできないのだ、というのがその考え方です。」


「不可知論」というものが、上の定義にとどまる限りでは間違ったことは語っていない。現実の多様性の全てを把握することは出来ない、実無限を完全に理解することは出来ないのだという点で、我々の認識には限界があるというのは同意できる。しかし「不可知論」の主張はここにとどまってはいない。この限界が存在すると言うことから次のような論理を展開させると間違いに陥る。上のページにはこのように書かれている。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-01-03 09:28 | 哲学一般

ウィトゲンシュタインの「論理空間」

僕は、最初「論理空間」というものを見たとき、その言葉のイメージを数学的な空間のイメージと重ねていた。数学的な空間は、点の集合を意味する。それは座標軸を設定したときに、座標の数字の組で表される。3次元空間であれば、3つの数字の組(順序の違いを考慮に入れたもの)で、空間の位置を表す。

数学の場合の空間は、座標軸によって構造が入るものの、座標軸そのものは相対的に決定されるもので、多くの可能性を持つものから選択されるものに過ぎない。だから、空間としての本質は、あくまでも点の集合という、素材が集まったものというイメージがあった。

このようなイメージで「論理空間」を眺めたので、それは素材である対象・つまり物を寄せ集めたものを意味しているのではないかと受け取っていた。「世界」が事柄の集まりである「事実」の集合だったので、「論理空間」が「物」の集合に対応しているとしたら、対応の構造としてもそれは整合性があるのではないかと感じていた。

More
[PR]
by ksyuumei | 2006-07-31 10:33 | 哲学一般

ウィトゲンシュタインの「世界」

ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の最初の命題で


「1 世界は成立している事柄の総体である。」


と書いている。「成立している事柄」とは、現実に成立している事柄のことである。これを「事実」と呼んでいるので、世界は「事実」の総体であるというのが、ウィトゲンシュタインの「世界」と言うことになる。

「世界」という言葉は非常に抽象的な言葉で、人それぞれによってそのイメージが違ってくるのではないかと思う。具体的な「世界」の像には微妙な違いがあるだろうと思う。だから、その具体像から抽象された「世界」という言葉の意味は、人それぞれに微妙な違いがあるものと思われる。

More
[PR]
by ksyuumei | 2006-07-29 11:04 | 哲学一般

真理の客観性について--客観的真理は存在するか

数学の基礎教養の一つに集合論というものがある。これは、ものの集まりというものを抽象して数学的対象にするものだが、単純に何かが集まっていれば集合になるというものではない。基準のはっきりしないものはいくら集まっていても、数学的対象としての集合にはならない。

例えば「大きい」人の集合といっても、人によって「大きい」という基準が違ってくれば、その集合に属するか属さないかが違ってしまう。このような曖昧な存在は数学では排除される。この場合は、身長が180センチ以上とか、体重が100キロ以上を「大きい」と規定して基準をおけば数学的な集合とすることが出来る。

数学が、「大きい」というような曖昧な判断基準を排除するのは、客観性を保つためである。主観によって判断が違ってくるようなことを考えたのでは、同じ結論に達することが出来ない。数学においては、その前提とする事柄も、使われる論理も、数学の世界にいる限りでは誰もが同じものを受け入れなければならない。そうすることによって、正しい事柄はすべての数学者が同じ結論に達するという「客観性」を保つことが出来る。

More
[PR]
by ksyuumei | 2006-07-22 14:05 | 哲学一般

ウィトゲンシュタイン的世界と論理空間--哲学の応用について

学生の頃はさっぱり分からなかったウィトゲンシュタインの哲学が少し分かりかけてきた。これは、はてなダイアリーの方のわどさんのコメントをヒントにして気づいたのだが、年をとるとそれなりに経験を積むことが出来るので、見えるものが増えてきたことによって理解出来ることも増えてきたのではないかと感じた。同じようなことを内田樹さんも語っていたが、年をとると、それだけで分かることも出てくるような気がする。年をとると言うことはいいことだ。

若い頃は、ウィトゲンシュタインが語る「世界」というものが、まったく抽象的なイメージしかなく具体的な自分の周りの「世界」との結びつきがなかったので、たぶんウィトゲンシュタインが語る「世界」と僕が考えていた「世界」とに接点がなく、ウィトゲンシュタインが何を言っているのかさっぱり分からなかったのだと思う。

今ではそれが少し分かるようになったのは、その見ている対象が重なっていると感じているからだ、これはもしかしたら大いなる誤読かも知れない。しかし、誤読が出来ると言うことは、そこに書かれていることを、たとえ間違った理解であろうとも理解は出来たと言うことなので、全然理解出来ていない状態よりはいいのだと思う。誤読も正しい理解への第一歩に出来ればそれなりに役に立つだろう。

More
[PR]
by ksyuumei | 2006-07-12 09:56 | 哲学一般