カテゴリ:真理論( 2 )

立場によって「真理」は違うか

本多勝一さんは、かつて「事実と「真実」と真理と本質」という文章で、これらの言葉を比較して、その意味を論じたことがあった。そのときに、これらの言葉の辞書的な意味を調べた部分で次のように書いていた。


「そこで平凡社の『哲学辞典』を引いてみますと、「真理」の項目にはギリシャ語 aletheia 、ラテン語 veritas 、ドイツ語 Wahrheit 、フランス語 verite 、英語 truth 、というふうに、まずヨーロッパ語が並べられていて、真理についての歴史的経過が述べられています。これを読むと、真理というものはそれぞれの立場によって違うということが分かる。キリスト教の真理、スコラ哲学の真理、カントの真理、弁証法的唯物論の真理……。当然ながら、ニクソンの真理、佐藤栄作の真理、殺し屋の真理、殺される側の真理……と、それぞれ違うことになります。」


この部分に書かれている、<真理がそれぞれの立場にとって違う>ということは、本多さんのここでの論説の本論となっているものではないが、これはちょっと説明が必要なものではないかと僕は感じた。本多さんが主張していることは間違いではないと思う。しかし、この主張を文字通りに受け取って、真理はそれぞれの立場によって違うのだから、客観的に誰もが賛成するような真理はないのだと解釈してしまうと間違えると思う。

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by ksyuumei | 2007-03-06 10:26 | 真理論

直接確証できない事柄の真理性をどうやって判断するか

虹が七色であるのか六色であるのかは、虹という現象を人工的に作り出して実際に数えてみれば確かめることが出来る。そのときに、錯覚をするという可能性もありうるが、とりあえずは自分の感覚を信用して判断するということが大事なことだ。権威ある言説が、自分の感覚を否定していようとも、まずは自分の感覚のほうを信じて考えてみる。

そして、権威ある言説と自分の感覚のどちらが正しいかを、論理的な整合性があるかで判断をする。もし、虹が七色だと断定することが正しいなら、自分が錯覚しているのは圧倒的少数派となるだろう。多くの人は正しいとされるほうを感覚するはずだ。しかし、七色に見えないほうが多数派であるという結果が出ている。これは論理的にどう整合性が取れるだろうか。

圧倒的多数が同時に錯覚しているという可能性は論理的には考えることが出来る。水の中に入れた棒が、上から見ると曲がっているように見えるというのは錯覚だが、これはほとんどすべての人が見ることが出来る錯覚だ。だがこの錯覚は、錯覚であることが証明できるからこそ錯覚だと判断される。水の中から棒を抜き出せば、それが曲がっていないということを確かめることが出来る。

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by ksyuumei | 2007-02-15 10:04 | 真理論