カテゴリ:歴史( 7 )

東條英機のイメージ

昨日たまたまテレビを見ていたら、開戦当時の日本を描いたドラマをやっていた。ビートたけしが主人公の東條英機を演じたドラマで、主人公にするくらいであるから、A級戦犯としての東條のイメージとはかけ離れた、その人間的な魅力を描いたドラマとなっていた。

僕はその当時の日本の歴史的事実や東條英機の伝記に詳しいわけではないので、そこで描かれていた事実がどの程度「本当」であるかという判断は出来ない。だが、フィクションとはいえそこに嘘が描かれているという可能性は少ないだろう。ほとんどは、事実として確認出来る「真実」を元にして描かれていると思われる。だが、そこで語られていることがたとえ「事実」であったとしても、それを抽象化して「判断」を求めると、必ずしも「事実」と直結した「判断」が導かれるとは限らない。

ナチス・ドイツの高官たちは、ほとんどが家庭では良き夫であり・良き父親であったと言われている。その面だけを取り上げれば、彼らは魅力的で誠実な人間だったと「判断」されるだろう。しかし、ユダヤ人を迫害した面を考慮に入れるなら、この良き家庭人としての面は総合的な「判断」の中では末梢的な部分を占める「事実」になるのではないかと思われる。テレビドラマに描かれた東條の一面の「事実」も、東條を総合的に評価するには、それが本質を表しているかどうかを考えなければならないだろう。だが、そこまでの詳しい知識がない今の僕の段階では、そのような考察をすることは難しい。そこで、テレビドラマに描かれたことを「事実」だと前提にして、その「事実」を受け取った限りでの東條の印象を考察してみようかと思う。テレビドラマに描かれた東條を見れば、その姿から東條という人間がどのような人間であると受け取れるのか。それを考えてみたい。

More
[PR]
by ksyuumei | 2008-12-25 23:24 | 歴史

小室直樹氏の南京大虐殺否定論

南京大虐殺否定論として語られている言説に対して、今まで僕はあまり関心を引かれなかった。それは事実をめぐる否定論のように感じたからだ。事実というのは、石ころの存在すら主張するのは難しいと哲学で言われるように、それは100%確かだというのは難しい。常に反対を語りうるという、水掛け論の可能性をもっているのが事実をめぐる主張だ。

「あった」か「なかった」かという事実そのものをめぐる肯定論・否定論は形式論理的に見てもあまり面白いものではないと感じる。いくつかの条件を恣意的に選んでしまえば、「あった」という判断を捨象することができて(「あった」という判断に結びつくような事実はすべて誤差として排除する)、「なかった」という結論に結びつけることができるような論理展開ができる。他の前提を選びなおせば、逆に「なかった」という判断に結びつくような条件を捨てて、「あった」という判断を論理的に導くことが出来る。

南京大虐殺と呼ばれる事象に関して、事実として「あった」ことが確認できるのは、おそらく価値判断抜きに客観的に確定できることに限られるだろう。記録された南京市の人口だとか、南京攻略戦という戦闘終了後に埋葬された人の記録から得られる数字のようなものだ。これらの客観的数字は、事実としての信頼性を検討することが出来る。だが、これは「虐殺」そのものを語るものではないから、ここから「虐殺」を語るなら、「虐殺」というものの捉え方を語らなければならない。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-07-09 10:15 | 歴史

歴史教育は物語でいいか

小室直樹氏が『悪の民主主義』(青春出版社)という本で戦後民主主義批判を展開している。この戦後民主主義批判というのは、僕は今までは党派性からくる議論だと思っていた。反体制側が戦後民主主義を肯定し、体制側はそれを否定しようとするのは、自分の立ち位置からくる論理であって、それぞれの前提を認めればどちらも成立する論理だろうと思っていた。

だから戦後民主主義批判というものは客観性を持たないものだろうと感じていた。それぞれの立場を認め、その立場の賛成した人間は立場に従って批判するものであり肯定するものでもあると思っていた。しかし、小室氏の議論を読んでいると、党派性の立場ではなく、その立場を越えて客観的にも批判できる部分が存在するのではないかとも感じてきた。

全体としての戦後民主主義批判は、この本の全部を読んでから全体把握をした上で考えたいと思うのだが、一部に関して気になったところを考えてみたいと思う。それは、小室氏がこの本の64ページで「歴史教育は歴史研究とは違う」と語っているところだ。小室氏は、「歴史教育は、民族精神を確立するために行われるべきである」と主張している。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-04-08 11:35 | 歴史

歴史には流れがある

革命と言う出来事は、社会にとって大きな変化がおこることであり、それは後から見ると何か突発的な急変が起きているように見える。しかし、時間の流れの中で、以前の出来事と関係なく新しいことが生じてくるのはフィクションの中だけの話で、現実には、どんなに衝撃的なことが起ころうとそれはすでに準備されていたことであることが発見される。

明治維新という革命は、それがその以前の日本社会をまったく変えてしまったものだった。だが、その後の日本の軍国主義化と天皇制による絶対主義的な支配があったせいだろうか、近代的な市民革命とは見られていない面があるようだ。歴史に流れがあるのなら、市民革命として成功したと見られる明治維新が、大衆を解放し市民を育成しなかったはずはないと考えなければならない。

大衆を解放することなく、市民を育てなかったと言うのは、その後の日本の敗戦までの姿や、現在の政治状況などを見ると妥当な解釈のようにも感じる。そういう意味では、日本の歴史の流れで、明治維新は真の革命ではなかったと言う羽仁五郎さんの言い方が正しいようにも思えてくる。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-02-17 12:17 | 歴史

論理の流れと歴史的事実

中学校の歴史教科書の年表を見ると、1789年にフランス革命が始まる、1868年に明治維新が始まると書かれている。この年号で書かれた時期に、何か大きな変化が社会にあって、それを革命と呼んだことはなんとなく分かる。何か大きな変化があったというのは、歴史的な事実であろうということは誰も反対しないのではないかと思う。

しかし、それをフランス革命とか明治維新とか呼んでも、それはそう呼んだだけであって、そこでどんなことがあったのかというのはあまりよく分かっていないのではないか。フランス革命とか明治維新とか言う名前を付けると、何か分かったような気分にはなるけれど、それは何か知らないけれど、実体的に指せるような対象に、それを指すための名前を与えたというに過ぎないのではないだろうか。

名前を付けるという行為は、対象を理解したことを意味するのではない。それを他の対象と区別する記号を与えたに過ぎない。名前を付けて、他と区別することによって、その対象の独自の性質を捉えることが出来るようになり、対象に対する認識が深まっていくという図式があるように思う。僕はソシュールにあまり詳しくないのだが、内田さんが紹介するソシュール像などから連想すると、ソシュールが言っていることはこのような言葉の機能であり、それを解明したかったのではないかという感じがする。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-02-04 17:08 | 歴史

歴史における進歩という観点

かつて本多勝一さんは、今の状況を見ているとだんだんと悪くなっていくようで退歩しているように感じていても、100年単位くらいで歴史を振り返れば必ず進歩しているというようなことを書いていた。これも、極めて理科系的な冷めた見方ではないかと感じる。そういえば、本多さんももともとは生物学専攻の理科系だったような気がする。

100年単位で歴史を眺めるなどということは、その歴史の中で生きている当事者に出来ることではない。一つの時代が終わった後に、後からそれを眺めて解釈する人間の視点だ。歴史の真っ只中で生きる当事者にとって、自分が形成しつつある歴史は外から眺めるものではなく、実存的にその中で生きる世界になる。おそらく客観的判断など出来ないに違いない。客観性というのは、原理的に当事者には持てないものではないかと思う。それは第三者という部外者でなければ正しく判断できないものだ。第三者の立場で世界を眺めようとするのが客観性のあり方であり、これが理科系的な見方といえるものだろう。

その冷めた目で歴史の進歩を眺めてみると、一つの時代が終わって新たな時代が始まったときは、古い世界が滅ぼされて新しい世界が生まれたところに「進歩」を見ることになる。これは、道徳的な善悪を抜きにした、改革されたという事実の面を「進歩」と定義するようなものだ。進歩だから「善い」という判断をしているのではなく、またその進歩から利益を得ない、むしろ損害を受けるような立場からは、道徳的な意味で「進歩」に反対したくなるかもしれないが、改革されたという面でのみ「進歩」というのを考えてみたいと思う。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-02-03 13:21 | 歴史

常識をひっくり返すことの楽しさ

以前に宮台真司氏が、理論活動の醍醐味として、当たり前の前提から驚くべき結論が導けることというものを語っていたことがある。誰もがよく知っている当たり前のことからは、普通は平凡なつまらないことしか導かれないように見える。しかし、本質を捉えた理論活動は、当たり前のことが覆い隠していた真理をさらけ出し、その衝撃的な面を見せてくれる。そんなときに理論活動というものの見事さを感じると言うのだった。

今まで隠されていた衝撃的な事実が暴かれるというのは、ジャーナリズムの世界では大スクープとして歴史に残るときがある。しかしそのようなことは少ないし、近代成熟期のように情報が管理されるような社会になったら、おそらくそのようなスクープはもう見られないのではないかと思う。スクープでさえも操作されるような時代が近代成熟期ではないかと思う。

専門家であればまだ隠された情報に接する機会もあるだろうが、それが衝撃的なものであればあるほど、それを発表する機会はなくなるに違いない。権力の側が望まない情報は隠され、権力の側が望む情報は、その情報の真理性を検証することなくマスコミによって大量に流されることだろう。それに対して、どの程度検証されているかと批判することは大切なことではあると思うが、今の時代にあっては批判としてはそれは弱くなってきているのを感じる。「うそも繰り返せば真実になる」というヒトラーの手法は、より洗練されて現在の時代に拡大されているのではないかと思う。

More
[PR]
by ksyuumei | 2007-02-02 09:57 | 歴史