カテゴリ:方法論( 20 )

問題のレベルと社会学的な視点

宮台真司氏は「社会学講座 連載第15回:人格システムとは何か?」の中で次のように語っている。


「■心理学は、現行の制度や文化を「前提にする」学問です。社会学は、現行の制度や文化を「疑う」学問です。社会学によれば、「社会」とは私たちのコミュニケーションを浸す暗黙の非自然的前提の総体で、非自然的前提の総体を明るみに出すのが社会学の目標です。
■ゆえに「個人が治ればいい」という心理学と、社会学の対立は避けがたい。現行の制度や文化を前提とする限りで「こうしたらいい」という心理学の提言が理に適っていたとしても、そもそも現行の制度や文化を維持するべきかどうかに疑問を呈するのが社会学です。」


心理学と社会学とは、問題の捉え方のレベルが違うという主張だ。ここで宮台氏は「かつては狐憑きや神降ろしの媒体として珍重されていた心的喪失者が、近代初期には犯罪者や涜神者と同様なノイズとして隔離され、19世紀以降は治療対象として見出されます」とも語っている。

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by ksyuumei | 2007-05-16 23:36 | 方法論

「パラダイム理論」とイデオロギー支配ということ

板倉聖宣さんは、『子どもの学力 教師の学力』という本で、「パラダイム理論」というものに触れている。板倉さんによれば、パラダイムというのは、<物事を考えるときの考えの枠付け>という言葉で説明されている。これは、抽象された結論だけを語っているので、捨象された過程を知らなければ、この用語の本質的な意味を理解するのは難しいが、この用語をまったく知らない人は、まずはこのようなイメージからの理解を図ることになる。

<パラダイム>の概念については、「パラダイム 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」に詳しくかかれているが、そこでは


「クーンの提出したこの概念は、本来は限定された専門分野において用いられることを想定していたにもかかわらず、時としてビジネス書にすら登場するほど一般的な言葉となった。そうした場合、最大公約数的に言うと、パラダイムは“時代の思考を決める大きな枠組み”などと解されていることが多いが、これは誤った解釈であり、そのような“大風呂敷を広げて”いる概念ではないことにまず注意しなければならない。こうした誤謬、また、パラダイム概念の発表とともにクーンが巻き込まれた激しい論争の位置付けを理解するためには、そこまでに至る前史と文脈をおさえておく必要がある。」


と書かれている。<パラダイム>の概念は、それを正確に知るには科学史などの知識を元にして、この概念が抽象されてきた過程を理解するということが必要で、それなしに、現実の現象にすぐに当てはめて解釈しようとすると、捨象されたものを含めてしまったり、抽象したものを捨てたりする間違いをするのではないかと思う。最初の理解の段階では、科学に対して、それも自然科学に対して考察することに限ったほうがいいのではないかと感じる。

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by ksyuumei | 2007-05-11 10:13 | 方法論

「言語ゲーム」の本質

ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という考え方はとても分かりにくい。つかみ所のないものという感じがする。この難しい概念を理解するために、本質という面からこの対象に近づいたらどうだろうかと考えてみた。どのような対象が「言語ゲーム」と呼ばれ、どのような対象がそう呼ばれないかという、対象がもっている特質がつかめれば、この分かりにくい概念が理解できるのではないかと思った。

対象が単純なものではなく、複雑で難しい場合は、現象として見られるものとその本質とが違っていることが多い。だから、複雑で難しい対象を正確に把握するためには、その対象に関する本質論を考える必要があるのではないかと思う。本質論がうまく立てられるなら、それは対象の理解を深めることになり、教育や学習という面で大きな成果があげられるのではないかと思う。

このようなことを考えて、さて「言語ゲーム」の本質はなんだろうかと考えていた矢先に、参考図書として読んでいた『ウィトゲンシュタイン入門』(永井均・著、ちくま新書)に次のような記述を見つけた。


「ところで、言語ゲームがいかに多様だとはいえ、それらがすべて「言語ゲーム」と言われるからには、それらすべてを貫く何か共通の本質があるはずではないか。ここで、それらすべてを「言語ゲーム」たらしめている当のものは何か、というソクラテス的な問いが立てられることになる。
 ウィトゲンシュタインは、この問いを拒否した。同じ名で呼ばれているからといって、そのすべてに当てはまり、他のものには当てはまらないような、何か一つの共通本質があるわけではないのだ。むしろ、相互に別々の点で類似しているものが集まって、一つの家族をなしているのである。彼はこのことを、比喩的に「家族的類似性」と名づけた。一つの家族は、体格、顔つき、目の色、歩き方、気質、といった別々の点で互いに似ているのであって、何か一つの点で互いに似ているのではない、ということである。だから、「ゲーム」と呼ばれるすべてのものに共有されるような本質的特長は存在しないのである。「ゲーム」だけではない。「数」の本質も、「生命」の本質も、「言語」の本質も、「科学」の本質も存在しない。さまざまな言語ゲームの中で、緩やかな家族をなしたそうした語が、実際に有効に使われている--それだけなのである。」

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by ksyuumei | 2007-03-14 09:13 | 方法論

歴史的事実に対する確たる証拠

『涼宮ハルヒの憂鬱』というライトノベルと呼ばれる小説をふとしたきっかけで読んだことがあった。そこには、世界が5分前に創造されたものだったということが語られている部分があった。それは、論理的には証明することは出来ないが、反証することも出来ない命題として語られていた。

世界が5分前に創造されたということは、想像はできるが、それが本当だと信じている人はほとんどいないだろう。多くの人が、ばかげた空想だと思っているはずだ。それ以前の記憶を誰もが持っているのだから、5分前に突然出来たなどということを信じる人はいない。

しかし、それ以前の記憶も実は5分前に創造されたものだと前提すると、5分前に世界が想像されたと仮定しても、論理的なつじつまは合わせることが出来る。このようにして、5分前に世界が創造されたと仮定するとまずいことがあっても、その全部につじつまを合わせるような解釈を見つけることが出来る。だから、ばかげた主張だとは思っても、この『創造説』には、論理的に反駁することが難しい。原理的には不可能だと考えられる。ポパー的な概念を使えば、反証可能性がないので、科学ではないと主張することは出来るだろう。しかし、ポパーが定義する意味での科学ではないからと言って、それが真理ではないということは証明できない。

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by ksyuumei | 2007-02-11 15:22 | 方法論

「社会学入門講座」における数学系的記述

宮台真司氏の「連載・社会学入門」は、その内容の難しさにもかかわらず大きな魅力を与えてくれる文章だ。僕はそこに数学系の匂いを感じる。

宮台氏は、あることばを説明するときに、まずはそれを明確に定義して、他の解釈を許さないような形でその意味を明らかにする。そして、その定義を基礎にして論理を展開し、その定義を受け入れた人間はすべてそう考えなければならないような方向へと導いていく。これは宮台氏がそれを押し付けるのではなく、論理というものを理解すれば、そう考えるのが正当であり、自らそれを受け入れるというようになっていくのだ。

宮台氏はここで社会について語っているのだが、宮台氏はその研究の結果として、社会の全体像を把握した後にもっともふさわしい本質的な定義をそれに与えて、全体が整合的に捉えられるような形で論理を展開していく。これは抽象的に設定された対象であるから、現実の社会そのものではないが、適切に抽象されているので末梢的な部分が捨てられているだけなのを感じる。そして、このように抽象によって単純化することで、混沌とした社会という対象が、初めて全体として一まとまりになったものとしてつかまれる。社会というような複雑な対象は、このようにして単純化しない限り、おそらく全体像を把握することは出来ないのではないかと思われる。

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by ksyuumei | 2007-02-10 10:59 | 方法論

数学系の思考の進め方

小林良彰さんは『明治維新とフランス革命』(三一書房)という本で、「「領主の権力からブルジョアジーの権力へ」、これが市民革命の定理と考えるべきである」と書いている。定理というのは、数学の場合に、ある公理から論理的に導かれる正しい言明(つまり真理)のことを指す。だから、市民革命の定理というのは、市民革命というものが見つかれば、そこには必ず「領主の権力からブルジョアジーの権力へ」という属性が見つかるのだと主張していることに当たるのではないかと思う。

このことから、明治維新は市民革命であるという判断が導かれる。このような思考の進め方は、僕は極めて数学系の発想だというのを感じる。小林さんは定理という言い方をしているが、「領主の権力からブルジョアジーの権力へ」ということが実は市民革命というものの本質であって、考察している対象が市民革命であるかないかという判断は、この本質的属性を持っているかどうかだ、と主張しているように感じる。

まずは抽象的に本質を規定して、その規定に合致していれば肯定判断をし、合致していなければ否定するということが、数学系の判断としては普通に行われている思考の展開ではないかと思われる。そしてそこで重要なのは、肯定・否定の判断において、基準が明確になっているので誰が判断してもほぼ同じ判断に落ち着くようになっていることだ。つまり、個人の思い込みによる判断になってしまうのではなく、客観的な判断になるように基準が工夫されているのも数学系の特徴だといえる。

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by ksyuumei | 2007-02-09 09:23 | 方法論

繰り返し読むことで理解が深まることについて

宮台真司氏の「連載・社会学入門」という文章を、もう10数回読み返しているだろうか。読むたびに新たな発見が出来るということもあり、読み返そうというモチベーションが生まれてくるのだが、新たな発見が出来るということは前に読んだときに比べて理解が深まるということでもある。

繰り返し読むことで理解が深まるというのはいつでも起こることではない。マルセル・プルーストの『失われたときを求めて』は10数回とはいかないが10回近く読み返そうとした本だ。しかしいずれのときも最初の50ページほどで挫折した。何度読んでも理解が深まっていくのを感じない。その面白さがさっぱり分からなくていつも挫折してしまう。文章としては同じようにわけのわからなさを感じるサルトルなどは、面白さは理解できるので何とか読み通すことが出来るので、プルーストについては感性が合わないのだなというのを感じる。

プルーストは文学なので理解の対象ではないかもしれないが、マルクスの『資本論』なども10数回挑戦してなかなか第1巻を読破することが出来ない。これは100ページを越えるところくらいまではいくのだが、そのあたりで大体挫折する。なかなか理解が深まっていかないなというのを感じてしまう。

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by ksyuumei | 2007-02-08 10:09 | 方法論

歴史の本質を理解するための「よい先入観」

図書館で小林良彰さんの『複眼の時代』(ソーテック社)という本を借りた。これは昭和51年(西暦1976年)に出版されたものだが、今読んでも新鮮さを感じるすごい本だと思った。この時代にこれだけの本を書いていたのに、板倉さんが小林さんを知ったのは1985年のことだった。ここにかかれている小林さんの主張も、ほぼ板倉さんのものと重なるように思えるのに、板倉さんの目にとまることがなかったのだ。

小林さんの知名度はそのくらいこの当時は低かったのではないかと思う。小林さんは、時代の先を行き過ぎていたのではないかと感じる。この当時に正当な評価を得るには、その主張があまりにラジカルでありすぎたのではないだろうか。そして、今でもそれほど有名になっているようには見えない。小林さんの主張がごく当たり前のようになっているとは思えないのだ。

しかし僕には、小林さんが言うことのほうが本当だという確信のようなものを感じる。これはいったいどこからくるものなのだろうか。かつて「新しい歴史教科書を作る会」では、歴史は物語であって科学ではないと主張した。そのように考えている人は今でもかなりいるのではないだろうか。歴史は立場や国によって違うのが当たり前で、誰もが賛成するような事柄にはあまり価値あることはないと考えているほうが主流なのではないだろうか。

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by ksyuumei | 2007-01-30 10:29 | 方法論

機能主義について

機能主義については、僕は長い間ある種の偏見を抱いていた。「悪い先入観」を持っていたといってもいいだろう。それは、三浦つとむさんが機能主義に対して常に批判的な見方をしていたからだ。三浦さんは唯物論の立場だから、機能よりも実体の方が基礎的なものだと考える。唯物論の立場からすれば、機能主義は本質を外れるように見えるだろうと思う。

しかし唯物論というのは絶対的に正しいものではない。そのような観点から見れば対象を実体的に把握する際には間違いが少ないという、視点を提出する発想法のようなものと捉えたほうが正しいと僕は思うようになった。あるときには観念論的に見える視点の方が本質を捉えている場合もあるだろうと思うようになった。

現象を観察するときに、そこに実体を把握することが極めて難しい場合がある。たとえば社会というような対象を考える際には、社会そのものは実体としては見えてこない。社会を構成する人間一人一人は実体的に把握できても、その人間が構成する社会というのは、人間の実体的な身体を延長しても解明できることは何もない。

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by ksyuumei | 2007-01-29 10:08 | 方法論

「よい先入観」とは

仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんに『近現代史の考え方』(仮説社)という本がある。この中に「明治維新とフランス革命」という文章がある。ここで主張されているのは、「明治維新とフランス革命とは基本的に同一の革命であって、フランス革命は完全だったが明治維新は不完全だなどとはいえない。もし明治維新がブルジョア革命として不完全だというなら、フランス革命もそうだ」というものだ。

板倉さんは、世界史の授業を科学的に考えるにはフランス革命を教えるといいと考えていたそうだ。しかし、フランス革命について「フランス革命の結果、フランスの社会はどう変わったか」ということがはっきりと書いてある本がなかったそうだ。フランス革命は、民主主義へ至る革命として知られているが、恐怖政治をもたらしたり、その後王政復古があったりと、何が革命なのか、何がその成果なのかがわかりにくいというのだ。

それに比べると明治維新は、日本の出来事ということもあるが、それまでの何が否定され、何が新しく興ってきたかというのが分かりやすい。しかし明治維新は、その中で民衆の活躍という場面が見つからないので、何か革命らしくないように見える人もいるようだが、これを革命と呼ばなくて何を革命だというのだろうかというのが板倉さんの感想だったようだ。

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by ksyuumei | 2007-01-28 18:45 | 方法論