カテゴリ:方法論( 20 )

構造の把握の仕方

構造というのは、対象の全体性を把握しなければそれが見えてこない。対象の一部をどれほど細かく観察しても、そこから全体を引き出すことが出来ない。そこで考えられている全体は、まだ観察していない部分を想像している、仮説的な思考になってしまうだろう。その意味で、構造の把握はいつでも思い込みから来る間違いを含んでいる。

数学的な構造は、その思い込みからの間違いが排除できる唯一の構造だ。それは、数学的対象が、現実に存在しているものではないということから来ている。現実に存在しているものは、我々にその一面しか見せていない。必ず観察から漏れる面がある。それはたいていは末梢的なものとして捨象されるのだが、時にそれが論理的判断に重要な位置を占めることがある。そのような漏れがあった部分は、後に理論の間違いを決定づけるものになるだろう。

数学においては、見えない面を最初から意図的に排除するような抽象の仕方をする。それは排除されてしまったので、後の観察で、見落としに気づくというものではなくなる。羽仁進さんのエピソードで、馬が1頭ずつ2つの方向から現れたとき、馬は何頭になるか、という問いを子供の時に考えたというものがあった。羽仁さんは動物が好きで、馬という動物がとても気持ちの繊細な動物だと思っていた。気が合わない相手と一緒にいるのが難しいので、1頭ずつよってきても、必ずしも2頭になるとは限らず、1頭がどこかに行ってしまうかもしれないし、2頭ともいなくなってしまうかもしれないということを想像していた。この想像はとても人間的で文学的(芸術的)にはすばらしい。しかし数学的には間違いだ。数学は、このような具体性をすべて捨象して、しかも捨象した具体性を後の観察でもう一度引き入れることをしない。「1+1」は、普通の意味で抽象された場合(10進法というよく知られた数の記法の上での計算ということ)、誰が考えても「2」になるというのが数学の抽象になる。

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by ksyuumei | 2008-12-02 10:00 | 方法論

世界を広げるための発想・思考

世界というものを命題の集まりであると考えたとき、最も基礎的な命題から他の命題が論理的に導かれるという構造になっていたら、つまり公理的体系になっていたら、その世界は全体像の把握が容易に出来るだろう。数学というのはユークリッドの幾何学を第一歩として、そのような公理的体系を作り出して発展してきた。

このような公理的体系は、その全体像の把握が容易ではあるが、そのことは逆にその世界が完結したものであることも示している。それは完結した世界であるから、もはやそれ以上の広がりを持つことはない。まだ定理として真理性が確定していない事柄であっても、それはまだ確定していないだけであって、それの発見によって世界が広がっていくことはない。それはすでに世界の中にあったものだがまだ知られていなかっただけというものになる。そうでなければ全体像の把握というものにならないだろう。

ゲーデルの定理によって、自然数の公理系にはそれが真理であっても証明することの出来ない命題が存在することが証明された。そのような命題は、未知なるものとしてその発見が自然数の世界を広げることにはならないだろうか。これは、ある特定の命題が、いろいろと調べている内に証明不可能であることが発見されたということなら、その知識が世界に新たな特徴を加えてその広がりをもたらすかもしれない。しかしそれは今ある公理系の世界を、全く違う新たな公理系として違う世界を考えることになり、世界の拡張として捉えるかどうかは微妙なものになるだろう。

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by ksyuumei | 2008-09-18 09:47 | 方法論

解像度の問題

マル激トークオンデマンドに『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)の著者の福岡伸一さんがゲストで出ていたときに、福岡さんが語っていた「解像度」という言葉が印象に残っている。解像度の高い画像では、より細かい部分が鮮明に表現される。福岡さんは、「解像度を上げた」という言い方をしていたが、それは、今までは目に見える範囲の見方で直感的・素朴に捉えていたものを、よりミクロの世界のメカニズムにおいて解明したというふうに僕は解釈した。

その解像度を上げた表現は「動的平衡」というもので、これは福岡さんの著書のタイトルにもあるように、生物と無生物のあいだを分かち、それを区別する指標となる。動的平衡の素朴な表現は、弁証法の教科書にもよく載っているように、生物に対してそれを「同一のものであって同一でない」と表現するものだ。この弁証法的矛盾を実現しているものが生物だという捉え方は、古代ギリシアの時代からあっただろうと思われる。

生物が同一のものであるという捉え方は、個体としての全体は他の生物から識別される同一性を持っているという判断がなされるからだ。私は私であって、他の人間になることはない。ポチと呼ばれる私の犬は、昨日も今日もポチであり、明日もポチと呼ばれる同一の個体であるだろう。ある日突然ポチが、まったく別の個体であるタマになったりはしない。

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by ksyuumei | 2008-01-29 10:00 | 方法論

直感の及ばない対象を論理的に把握すること

量子力学について調べていると、極微の世界などの直感の及ばない対象に対して、どのようにして概念を作るかという問題を感じるようになった。直接眼に見ることの出来ない存在を、我々はどのようにして把握しているのだろうか。これは、極微の世界だけではなく、抽象的な概念であるものの多くも、直接見ることが出来ないものであるにもかかわらず、我々は何らかのイメージを基にそれを理解していると考えざるを得ないだろう。

社会というものは、これが社会だという実体を指し示すことが出来ない。板倉さんは、個人の法則と社会の法則とは違うというようなことを語っていた。社会の法則は、多くの場合統計的なもの・確率的なものとして現れる。だから、社会という存在を科学的に捉えようとすれば、それは確率的な把握の仕方をしなければならないのではないかと考えられる。宮台氏の社会学が確率論を基礎にしているというのは、科学としての意味を強く感じるものだ。

萱野さんが語る国家というものも、国土や国民という実体を指して、これが国家だと言えるものではない。国家という実体は見つからない。だから国家は幻想に過ぎないという言い方も出てくるのだろう。しかし、国家を幻想として片付けたからといって、国家に弾圧される人々にとっては、国家は弾圧する暴力をもった機能としてそこに存在していることは確かだ。国家は、合法的に暴力を行使するという機能としてそれを捉えるしかなくなる。

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by ksyuumei | 2007-06-14 10:37 | 方法論

他者の報告(言語による表現)の真理性はどこで判断するか

最近気になっている問題は、他者の報告の真理性の問題だ。特に、言葉で語られたことに対して、それが正しいことをどうやって確かめるかという問題を考えている。言葉で語られたことは、意図的な嘘である場合もあるし、勘違いをしているときもある。他者の言葉を信じる基準というものをどこに置くかという問題は案外と難しいものだと思う。

他者の表現が論理的なものである場合は、それが論理的に正しいかどうかを判定することは可能だ。複雑な場合はやはり難しさはあるものの、それが判定不可能だということは原理的にはない。問題は、その表現が論理的なものであるかどうかという判断だろう。論理的な表現は、真か偽かがどちらかに決められなければならないので、いくつもの解釈を許すような表現であっては困る。その表現の解釈が明確に一つに定まって、その解釈の論理性を検討できるようなものであれば、論理を判定することは出来る。あるいはいくつかの解釈を許すものであっても、場合分けが出来て、その場合については明確に意味が一つに定まるなら論理的な取扱いが出来る。

問題は事実性を巡る表現の場合だ。ある事柄の報告が事実である、確かにそういうことがあったというものであった場合、それが正しいことをどうやって判断したらいいかということだ。これは原理的には不可能だということを宮台氏が語っていた。

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by ksyuumei | 2007-06-04 10:11 | 方法論

資本主義的搾取の不当性

萱野稔人さんは『カネと暴力の系譜学』(河出書房新社)の中で、資本に関して「他人を働かせて、その上前をはねる」ということとの関連を語っている。これは、かつてのマルクス主義的な用語で言えば、「資本主義的搾取」と呼ばれるものになるのではないだろうか。

マルクスは、この「資本主義的搾取」が、資本主義に本質的に伴うものであることを証明した。萱野さんがここで語っていることも同じことのように見える。「他人を働かせて、その上前をはねる」という行為を伴わない資本主義などは考えられないという記述が見られる。萱野さんは、


「企業の仕組みを例にとろう。企業とは、まとまったカネ(資金)をもとに事業を起こし、従業員を雇って利潤を上げようとする経済主体のことである。
 この場合、企業は売上のすべてを従業員に給与として与えることはない。ある程度の売上は、事業をさらに展開するための資金として(あるいは出資者への配当として)ストックしておかなくてはならないからである。利潤を上げることが目的である以上、事業が展開するにつれ、資金は最初の額より増えていかなくてはならない。」


と書いている。資本主義的生産は、大量生産によるコストダウンを目指す。その大量生産のためには、設備投資という資本投下をしなければならない。その資本投下の金は、最初は起業家が請け負うが、いったん企業が動き出して資本主義的生産のサイクルに入れば、その生産によって得られる利益の中から資金を供出していかなければならない。

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by ksyuumei | 2007-06-01 09:40 | 方法論

萱野稔人さんの国家に関する考察を方法論として読んでみる

萱野さんの国家論というのはたいへんユニークで面白いものだと思う。国家論というのは、どちらかというとこれまではマルクス主義的な観点から論じられたりすることが多く、イデオロギー的な前提を強く持っていたように感じる。国家というものが民衆にとってどのような存在である「べき」かという「べき」論の観点から語られることが多く、対象の客観的認識よりも価値判断のほうが先行してきたように感じる。

マル激で宮台氏が語っていたが、「べき」論で考えてもいいのだが、それが現実にそうなっていなければ、いくら「べき」論を主張してもあまり意味がないということが出来る。価値判断的に、そのような方向である「べき」だと考えたとしても、現実には客観的法則性を認識して、その法則に従う方向で変革を考えなければ「べき」も実現しないと考えなければならない。

価値判断よりも客観的認識のほうを優先させて、まずは対象理解を徹底させるというのは、理科系にとってはごく当たり前の科学的な発想だ。それは、理解系の対象が自然科学的なものを基礎にしているので、価値判断をせずに考察の対象に出来るということもあるのだが、社会科学に関しても、それが「科学」と呼ばれるのなら同じような発想をするというのは、理科系にとっては極めて分かりやすい。萱野さんの論説に心惹かれるものを感じるのはそのせいだろう。

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by ksyuumei | 2007-05-31 10:07 | 方法論

イデオロギーを排した思考の方法論と、イデオロギーに支配された思考の誤謬論

イデオロギーとは、「政治・道徳・宗教・哲学・芸術などにおける、歴史的、社会的立場に制約された考え方。観念形態」と辞書的には定義されている。ということは、イデオロギー的なものに影響された思考というのは、その帰結が「歴史的、社会的立場に制約された」ものであると捉えられている。本来ならば、その時代の特殊性に縛られているはずなのに、それを捨象してしまって普遍性があるかのごとくに勘違いするところに、イデオロギー的な誤謬の本質があるような気がする。

これは、人間の思考がパラダイムという枠組みの影響を免れないということから言えば、そのパラダイムでさえも思考の対象に出来るという、時代の制約を超えた視点を持たなければ克服できない誤謬だ。これは、再帰性というものを反省の対象にすることが出来た近代になって初めて気がつかれたものではないだろうか。近代以前の社会では、どれほど優れた人間であろうとも、時代の制約そのものを反省の材料にして自分の思考の結果を検討した人はいなかったのではないか。

マルクス主義というイデオロギーが人々を支配した時代も、そのイデオロギーそのものが前提として正しいものかということは発想することが難しかったのではないかと思う。おそらく、その時代には、マルクス主義を成り立たせていた条件がほぼ自明なものとして受け取られるような時代的制約があったのだろう。

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by ksyuumei | 2007-05-29 10:32 | 方法論

国家とは何か

萱野稔人さんが『国家とは何か』(以文社)という本を書いている。この本の前書きに当たる部分の「イントロダクション」というところで、この本が目指しているところの全体像について書いている。それは、タイトルにあるとおり、「国家とは何か」ということなのだが、その中に物事を考える方法論のようなものがあるのを感じた。

「国家とは何か」という問いに対して、こういうものだという答を提示するのがこの本の目的ではない。そもそもこの問いは、国家というものがいかに捉えにくい複雑なものであって、単純に答が出せるような対象ではないのだということを自覚させるためにあるような気がする。

国家の捉えがたさは、国家というのは直接目で見ることが出来ないものだからだろうと思う。つまり、実体としての国家そのものはどこにも見出せないのだ。国家を構成するであろう要素や機能は見ることが出来る。国民一人一人という存在は、現実の我々自身であり、これは幻ではなく実体的に存在する。国家を構成するであろう政治的な装置(国会・議員・地方議会など)もその存在を見ることが出来る。

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by ksyuumei | 2007-05-27 16:31 | 方法論

個人としての自分が見てそう思うのか、誰が見てもそう思うのか

久しぶりにすごい人間に出会った。マル激のゲストで語っていた萱野稔人という人物だ。その明快な論理展開は、宮台真司氏の文章を初めて目にしたときと同じ印象を感じた。この人は優れた専門家だと思える人はたくさん見つけることが出来る。マル激にゲストで登場する人々にはそのような専門家としての優秀性を感じる。しかし、全体的な印象として「すごい」という感覚を受ける人は少ない。萱野さんにはそのような印象を感じた。これは宮台氏に感じて以来久しぶりのことだ。

その萱野さんが「~<政治>の思考~」というコラムで、「第6回 価値判断と認識」という文章を書いている。ここで語られていることは、非常に分かりやすいものであるのに、そこに込められている知の深さと豊かさを感じるものだ。単純なことを語っているからわかりやすいというのではないのだ。非常に難しい深みのあることを語っているにもかかわらず、これほど分かりやすい言い方をしているというところにまず目を引かれた。

これは、三浦つとむさんにも共通していたことだが、ある事柄に本当に通じている人は、それを全体的な把握の下で細部を語ることが出来るので、細部に難しさがあるにもかかわらず易しい語り方が出来る。それは、単に用語を易しく言い換えたのではなく、概念の構造を正確に語ることが出来るので易しい言い方になっている。用語を易しく言い換えただけでは、正確な概念が伝わらないが、正確な概念を伝えてかつ易しく語るということが出来る人が、ごく稀にだがいる。僕はそういう人にすごさを感じる。

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by ksyuumei | 2007-05-26 10:46 | 方法論