カテゴリ:教育( 24 )

アルゴリズムの心地よさ

ナンバープレイス・イラストロジック・ループコースというパズルに共通するのは形式論理のみを使ってそのパズルの解答を求めるということだ。ナンバープレイスで言えば、ある数字がその枠に「入る」か「入らない」かという排中律と、同時に両方が成立しないという矛盾律を駆使して、その数字を決定する。イラストロジックでは、ある格子のマスを「塗りつぶす」か「塗らない」かということに形式論理を適用する。ループコースでは、正方形の4つの辺のうち、どの辺を実線で引くかという個数が示されている。この場合は、実線に「する」か「しない」かということに形式論理が適用される。

このパズルをやり始めた初心者の時は、どこに数字が入るか、どこが塗りつぶされるかを、一つずつ考えながら形式論理を展開していく。しかし、慣れてくるとそのうちに、このパターンは必ずこうなるはずだという法則のようなものがつかめてくる。一つのアルゴリズムが見えてくるのだ。そうなると、そのアルゴリズムに従う限りでは、そこでは最初にいろいろと試行錯誤をしたときのような思考の展開は無くなり、機械的に解答を書き入れていくようになる。

パズルというのは、マニアにとっては、考える過程が面白さを感じさせてくれるものなのだが、ほとんど考えることなく、機械的に解答を書き入れていくアルゴリズムが思った以上に心地よいことに気が付いた。それは、かなり面倒な作業で、しかも機械的であるから、やっているうちにいやになるのではないかとも思うのだが、そんなことは無く、同じことの繰り返しが非常に心地よい気分を与える。何時間繰り返していても飽きないと感じるくらいだ。

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by ksyuumei | 2007-07-11 10:56 | 教育

みんな仲良し教育の欠陥

楽天ブログでmsk222さんが「みんなで仲よし、って…」というエントリーを書いている。ここに書かれていたことに、以前から問題意識を感じていたので、コメントを書かせてもらった。それは、みんな仲良し教育が、共同体主義を助長して、個人の主体性を育てることを阻害するという考えだった。

共同体の中で、よく知り合った仲間が阿吽の呼吸ですごすというのは、その中で何も問題が生じない時は、非常に幸せな気分をもたらしてくれるだろう。少々貧乏であっても、助け合って生きていくことに喜びを感じ、何が価値あるものであるか、何が善であるかがはっきりと決まっているという安心感を感じながら生きていくことが出来るだろう。

しかし、このような幸せな共同体は、前近代的な社会で過ごす場合にしか残らない。近代社会を構成する原則は、このような共同体を形式的には破壊してしまうことになる。近代社会は、さまざまな自由が認められ、もはや、生まれてから死ぬまで、一つの共同体の中で暖かい雰囲気の中ですごすということが出来なくなっている。共同体の中で安定してすごせる時代ではなくなってしまうのが近代社会というものだ。

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by ksyuumei | 2007-06-24 10:59 | 教育

シェーマとしてのたとえ話

シェーマというのは故遠山啓先生が、水道方式という計算体系の教育に際して、数という抽象的対象を教えるために考案したタイルという教具の特徴を指して使った言葉である。タイルという教具は、10進法の構造を教えるための教具であり、加減乗除の計算アルゴリズムの構造を教えるための教具として考案された。

タイルは、風呂の壁などについている正方形の板であり、これをつなぎ合わせ10個の細長い棒状にしたものや、縦横10個ずつの大きな正方形にして100を表したりしたものを使って数を教える。タイルの特徴は、つなぎ合わせたときの10個の塊や100個の塊を判別しやすく、10集まると桁が大きくなるという位取りの原理を、目で見て理解することが出来ることだ。

それまでは、計算棒というマッチ棒のようなものをたくさん集めたものや、お金を使って数を教えることが多かったらしい。しかし、計算棒は、10ずつ集まったという集合的な把握のイメージが難しく、10進法という位取りの原理だけを引き出すにはふさわしいものではなかった。お金は、すでに10進法の原理を知っているからこそその大小などが理解できるのであって、お金の価値と大小関係が混同される恐れもある。

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by ksyuumei | 2007-06-23 11:36 | 教育

教育は手段か目的か

教育を手段か目的かと考えるとき、それを自分にとってのもの・あるいは自分の子供にとってのものというふうに個人的な立場で考えると、個人にとっていいものという価値判断的な要素が入ってくる。そうすると、手段というのは何か価値的には貶めてしまうように感じるので、教育そのものが価値をもつような目的的なものとして捉えたくなるのではないかと思う。

しかし個人を基礎にして物事を考えると、個人によって感じ方の違うものは主観に左右されてしまい、客観的な判断というものが出来なくなる。科学的に扱うことが難しくなってしまう。教育を目的として捉えた場合、ある個人にとってはいいものが、別の個人にとっては最悪のものになる可能性もある。特にイデオロギーに支配された思考から目的が決まってくるような教育はその傾向が強くなるだろう。

これは右でも左でもそれほど違いはない。右にとっていいものである日の丸・君が代も、その押し付けを最悪の教育と捉える個人がかなり存在する。逆にいえば、左の側から正しい歴史だと思われるものも、それを自虐史観と呼んで、それを押し付けられることに大きな恨みを抱く個人がたくさんいる。

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by ksyuumei | 2007-05-15 10:02 | 教育

ジョン・テイラー・ガットさんはどんな教師だったのか

ジョン・テイラー・ガットさんは、義務教育学校の欠陥を鋭く指摘し、それ以上ないくらいの悪口でそれを批判している。しかし、ガットさんは最優秀教師として表彰されてもいるのである。日本的な感覚では、たとえ欠陥がある制度であっても、その制度の下で最優秀だと評価されるなら、ある意味ではその精度の維持に貢献しているのではないかとも考えられる。口を極めて学校の悪口を言っているガットさんは、その欠陥に協力したという悔恨からこのような批判を展開しているのだろうか。

しかしそれは考えにくい。もしガットさんが、その制度に貢献したということで高く評価されたのであれば、それを批判している姿勢から言って、その評価をそのまま受け取るのは誠実さに欠けることになるだろう。表彰されたとしてもむしろ返上することが正しい態度になる。また、そのような人間に対して、もし制度への貢献を宣伝したいのなら、始めから表彰などの対象にしないだろう。

『バカを作る学校』には「私はこうして教師になった」とガットさんが語る章がある。これを読むと、ガットさんは教師としては、ガットさんが批判する制度をそのまま維持するために貢献したのではないことがよく分かる。むしろその制度がおかしいことを告発するような仕事を数多くこなしている。このような面が評価されて最優秀教師として表彰されたということは、アメリカという国の懐の大きさと社会に通用する論理性の健全さを物語るものだろう。

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by ksyuumei | 2007-05-08 10:48 | 教育

学校教育の「第四の目的」

ジョン・テイラー・ガットさんは、『バカをつくる学校』の中で「アメリカの伝統的な教育制度には、建国当初から次のような明確な目的があった」と語って、次の3つの目的を挙げている。


1 善良な人間を育てること
2 善良な市民を育てること
3 生徒一人ひとりの能力を最大限に伸ばすこと


これはまことに理想的な目的で、1と2は社会のために有用な教育という面での目的であり、3は個人のために有用な教育という面を語っている。個人と社会の両方にとって利益となる、調和的な存在となるような理想的な目的である。この目的が本当に実現されるような学校ならば、学校も混乱することなく、社会の腐敗堕落も招かなかっただろう。

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by ksyuumei | 2007-05-07 09:39 | 教育

学校という制度の欠陥

我々の社会にはさまざまな問題がある。学校の問題もその一つだが、その問題を生み出した原因が個人に帰するのか・制度に帰するのかは重要な問題だ。もし学校の問題が教師という個人に帰するのであれば、それは現政府や文科省が言うように、教師の資質の向上で解決する問題になるだろう。しかし、それが個人ではなく制度に帰する原因を持っていれば、制度を改革する以外に問題を解決することは出来ない。

ジョン・テイラー・ガットさんは、学校の問題は制度の問題であり、個人の問題ではないということを主張している。実際に教師個人というのはまじめで誠実であり、善意にあふれているのは同僚として働いている人々を見るとよく分かる。そして、彼らはそれなりに有能な人間たちばかりだ。しかし、このように優れた人材がそろっていても、学校が持っている問題の解決には程遠い。

ジョン・テイラー・ガットさんも「優しく、思いやりのある多くの人々が、教師として、助手として、管理者として働いているにもかかわらず、彼らの努力は学校の抽象的な論理に押しつぶされている」と書いている。「抽象的な論理」というのは、システムの問題であり制度の問題であるということだ。個人の努力では解決不可能な要素があるということをこの言葉で表現している。

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by ksyuumei | 2007-05-05 23:14 | 教育

学力は下がったのか?

メーデーの帰りに寄った書店では、もう一冊面白い本を購入した。板倉聖宣さんの最新刊で『子どもの学力 教師の学力』(仮説社)という本だ。板倉さんの論理と主張はますます明快ではっきりしてきている。ここまですっきり言ってくれると爽快な気分になる。

子どもの学力が下がってきたと言われている昨今だが、学力というものの本質を見直すことによって、本当に下がったのかということに疑問を呈している。下がったということを主張するには、以前の学力が今よりも高かったということを言わなければならないのだが、実は以前だってたいしたことはなかったというのであれば、下がったという表現はふさわしくないだろう。

子どもの学力は下がったのではなく、そもそも学力そのものがたいした能力を測ったものではなかったのに、以前はそのことが隠蔽されていて、今はたいしたことないということが明らかになっただけなのではないだろうか。理解などしていなくても、暗記さえしていれば点数が取れる学力などは、実はまったくたいしたものではなかったのだ。暗記しようという動機さえあれば、その程度の学力はいくらでも上げることが出来る。だから、今は単に動機が失われただけのことではないのか。

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by ksyuumei | 2007-05-05 10:35 | 教育

義務教育における7つの教育方針 3

義務教育学校の6つ目の弊害は「条件つきの自尊心」という言葉で語られている。ジョン・テイラー・ガットさんはまず次のように書いている。


「六つ目の教育方針は「条件つきの自尊心」である。親から無条件に愛されている子どもは、自尊心が強く、従わせるのが難しい。しかし、こういう自信家が大勢いては、社会は維持できない。そこで私は、子どもたちに、自分の価値は専門家の意見に左右されるということを教える。つまり、彼らは常に教師に評価され、審査されるのである。」


僕は子どものころから、人間の正しい評価など誰にも出来ないと思っていた。だから、たいていの評価は間違っていると思っていたので、ある意味ではどのような評価をされようともそれに驚くことはなかった。的外れな評価をする人間は、まあ「見る目がないんだな」と思っていた。

僕の両親も、教員の評価よりも自分の目で見たほうを信じていたので、学校がどのような評価をしようともそれに影響されることはなかった。もっとも僕の評価はずば抜けていいものでもなく、ずば抜けて悪いものでもない平凡なものだったからそれほどの影響を与えなかったのかもしれない。

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by ksyuumei | 2007-05-04 15:17 | 教育

義務教育における7つの教育方針 2

ジョン・テイラー・ガットさんの『バカをつくる学校』で語られている義務教育学校の3つ目の弊害は「無関心」というものだ。ジョン・テイラー・ガットさんは、「私は、たとえ子どもたちが何かに興味を示しても、あまりそれに夢中にならないように教える」と語っている。それは、学校というものが、一貫性のないカリキュラムを持っているので、満遍なく全部をやらせるには、偏った関心を持たせることはまずいからだ。

この「無関心」は学校においては制度的にそうなるように工夫されている。ジョン・テイラー・ガットさんの授業が子どもたちを夢中にさせていても、チャイムがなればその気持ちをすぐに切り替えて別の学習に気持ちを振り向けなければならなくなる。そのときにいつまでも夢中になった気持ちを引きずっていれば、次の学習に支障が生じて落ちこぼれることになるだろう。天才といわれたエジソンのエピソードなどには、そのような気持ちの切り替えが出来ずに学校で落ちこぼれる姿というものがうかがえる。

この弊害の最も大きなところは、ジョン・テイラー・ガットさんが語る次のような点ではないだろうか。


「それどころか、子どもたちはチャイムを通して、やり遂げるだけの価値のある仕事はないと教えられる。そのため、何かに深く興味を持つこともない。何年間もチャイムに従って過ごすうち、一部の耐性のある子を除いて、もはや社会にはやるべき重要な仕事はないと思い込むようになる。
 チャイムは時間割の隠れた原則で、その原則は絶対だ。チャイムは過去も未来も打ち壊し、どの時間も均一なものにしてしまう。それは、自然の山や川が実際にはそれぞれ違うのに、地図上ではどれも同じように抽象化されるのと似ている。チャイムによって、授業はすべて無意味なものになるのだ。」

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by ksyuumei | 2007-05-04 11:02 | 教育