カテゴリ:誤謬論( 12 )

数学的理解と数学論的理解

『不完全性定理』(林晋・八杉満利子:著、岩波文庫)の「まえがき」の冒頭に「ほとんど予備知識のない人が、入門書だけを読んで不完全性定理の数学的内容を理解することは不可能である」との宣言のような断定がある。そして「この定理を数学的にも理解したいならば、まず数理論理学を理解しなければならない」という言葉が続いている。これは全くその通りだと思う。

しかし、多くの人がそのエッセンスだけでも伝えようと努力をしている。そしてその初歩の論理学の入門のために多くのページを費やして説明しようとする『ゲーデル、エッシャー、バッハ』というような本がかつてベストセラーになっていたりする。この定理はそれだけ魅力あるものであり、人を惹きつけるものなのだろう。

数学的内容を理解することを「数学的理解」と名付けると、もう一つの理解として「数学論的理解」というようなものが考えられると、前掲の岩波文庫では語られている。これは、「数学的理解」というものが、それが認められた理論であるならば、ほぼ一致した見解で「正しい」と判断されるものと捉えられている。そして、その内容はさておいて、とりあえず「正しい」と判断しておいて、その上で数学全体にとってその理論がどのような意味を持っているかという、哲学的な考察をすることを「数学論的理解」と呼んでいるようだ。

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by ksyuumei | 2008-10-10 10:36 | 誤謬論

教育における誤謬論の重要性

二十歳前後の頃、数理論理学を勉強したことでようやく数学についての理解が出来るようになってきた。そのときに、論理学の一分野として弁証法というものにも関心を抱き、いくつかの入門書を読んでみたのだがさっぱり判らなかった。しかし三浦つとむさんの『弁証法・いかに学ぶべきか』(季節社)という本だけは弁証法について初めて分かるような説明をしていたと感じたものだ。「うまい説明」だと思った。

この本の弁証法についての説明も印象深いものとして残っているが、それと同じくらいに心に残っているのは「誤謬論」について語った部分だ。特に、後に教育に携わるようになってからは、教育においては「誤謬論」を考えることが、分かりやすい説明にとって重要だということを思うようになった。

三浦さんの誤謬論は、間違った考えというものが、内容的にどのように正しい考えと違っているかという比較をしただけのものではない。間違った考えが出てくる原因というものを、客観的な現実とそれを認識する人間の頭脳の働きとの両方にそれを求め、合理的に説明がつくような仕方で「なぜ間違えるのか」という「なぜ」を説明するものだった。それは、単に正しいものを言葉として暗記して正しさを獲得するのではなく、誤謬に至る過程を理解することで、「なぜそれが正しいのか」ということを理解するものだった。

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by ksyuumei | 2008-10-09 09:30 | 誤謬論

マルクス主義の理論的誤りについて

社会主義国家に誤りがあったというのは、それが崩壊したという結果からほぼ明らかだろうと思う。前回の指摘が正しいかどうかは異論があるかもしれないが、社会主義という考え方に間違いがあったのは誰もが認めるだろう。もし、そこに間違いがなかったのなら、国家が崩壊するなどという結果を招くはずがないからだ。

国家の崩壊は具体的な事実であり、目の前でソビエトという国がなくなってしまったのを我々は目撃した。しかし、マルクス主義という理論は、ある意味では具体的な存在である国家とは相対的に独立していて切り離すことが出来る。だから、マルクス主義理論そのものは、そこに誤りがあるかどうかというのは解釈に違いが出てくるだろう。

マルクス主義の主張には多くの正しさがあったと思うが、根本的なところで間違っていたのではないかと僕は今では考えている。マルクス主義の場合も、理論は正しかったのだが、その適用においてみんな間違えたという解釈をすることも出来る。しかし、ほとんどすべての状況で適用を間違えたマルクス主義というものは、たとえそれがとても難しいものであったとしても、適用した個人だけに責任があると考えるのはどうも整合的ではないように感じる。

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by ksyuumei | 2007-05-24 09:55 | 誤謬論

社会主義国家の誤りについて

社会主義国家が崩壊したとき、その現象をどう解釈するかというのはマルクス主義の陣営にとっては深刻な問題だっただろうと思う。これが、マルクス主義の理論的な誤りを証明する実験と捉えるのか、理論には誤りがなかったが、その現実の適用において失敗した実践的な誤りと見るのかは大きな違いがあるだろうと思う。

マルクス主義を信奉して、そのパラダイムで自分の思想を形作っていた人々は、その理論が間違っているという前提そのものの否定はなかなか出来なかっただろうと思う。目に付くのは、現実の社会主義国家の指導者たちの具体的な失敗のほうだ。スターリン主義に見られるような大衆の弾圧と強権的な政治に失敗を見たり、特権的な指導者層の物質的な贅沢さに個人的な堕落を見たりすることのほうが多かったのではないかと思う。

マルクス主義理論そのものの間違いを認識するというのはかなり難しいことだったに違いない。理論が間違えているのではなく、人間の認識の中に誤りがあったと思いたくなるのではないだろうか。しかし、社会主義国家が例外なく倒れ、生き残った中国などは、もはや社会主義とは呼べないような国になっている。むしろ資本主義国家以上に資本主義的な生産が浸透し、国家が巨大な資本家になって資本主義を運営しているようにも見える。社会主義国家として唯一残っているように見える「北朝鮮」にしても、資本主義化して生産を発展させなければ国家の存続が危うくなっている。

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by ksyuumei | 2007-05-23 09:49 | 誤謬論

虹は七色ではない

板倉聖宣さんの『虹は七色か六色か』(仮説社)と言う小さな本を買った。文庫サイズで60ページもない本なので30分もあれば読めてしまうのだが、この本のそこに書かれている内容は、とても大きな意味を持つ重要なものだと思った。板倉さんも次のように「はしがき」に書いている。


「『虹は七色か六色か』と題したこの小冊子の主題は、表面的には<虹の色数>を数えるものとなっています。しかし、その<真のねらい>はもっと深いところにあって、人々の「教育」とか「科学」というものについての「考え方」そのものを考えるものとなっています。」


板倉さんが虹の色について考えるようなきっかけになったのは、1978年から79年にかけて「日高敏隆・村上陽一郎・桜井邦朋・鈴木孝夫という、当時の日本を代表するような指導的な4人の学者が、ほとんど時を同じくして、「アメリカでは虹は六色と言われている」ことを報じていた」からだった。

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by ksyuumei | 2007-02-14 09:53 | 誤謬論

権力に対する誤解 -- 特殊性と普遍性を取り違える誤謬

宮台真司氏が『権力の予期理論』(勁草書房)の序章「社会理論が権力概念を要求する理由」の終わり近くに次のようなことを語っている。ちょっと引用しよう。


「第1に、権力と自由とは対立するどころか、権力は自由を要請している。自由を賞揚するためには権力を批判しなければならないとするリベラリストの言説には問題がある。自由こそは、権力を呼び寄せる依代である。この命題のコロラリーだが、権力=悪しきもの、という一般図式は、図式の提唱者がリベラリストであればあるほど、問題的である。「権力なき自由」を構想できるとする発想は甘い。自由は必ず権力を招き寄せる。
 第2に、複雑な社会が諸身体を拘束する高度な超越的審級(道徳など)を要請するとする把握も誤りである。権力工学に基づいて必要な選択連結を供給できれば足りる可能性があるからだ。この命題のコロラリーだが、高度な資本制による道徳的な基礎の破壊を、社会システムの自己破壊に直結させるヒューマニストの議論にも問題がある。高度な資本制は、権力を媒介とするその高度な自己準拠によって、そうした道徳的な基礎を代替し、不要にしてしまうからである。」


「「権力なき自由」を構想できるとする発想」や「複雑な社会が諸身体を拘束する高度な超越的審級(道徳など)を要請するとする把握」の誤解というものは、僕も以前そういうものを抱いていたように感じる。権力は自由にとって、それを邪魔する存在であるようなイメージを持っていた。また、社会が正しく運営され安定するには、正義の実現というような道徳的な基礎がなければならないというイメージも持っていた。

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by ksyuumei | 2007-01-19 09:44 | 誤謬論

不可知論の間違い

不可知論とは、辞書的には次のように説明される。


「哲学で、経験や現象とその背後にある超経験的なものや本体的なものとを区別し、後者の存在は認めるが認識は不可能とする説。また、後者の存在そのものも不確実とする説。」


これは僕は間違った考えだと思っている。なぜなら、この考え方を肯定すると、科学が仮説に解消されることが正しいという結論が導かれてしまうからだ。科学を検証する実験で確かめることが出来るのは、現実の経験的事実の確認であって、それから抽象された法則が確かめられているのではない、とする考えがこの不可知論に通じる考え方だろう。

科学法則は、言葉の上では全て(任意)の対象について当てはまるので、超経験的なものだと考えられる。これは存在はするかも知れないが、現実存在としての人間には決して捉えることが出来ないとすれば、それはいつまでも仮説にとどまると言うことになるだろう。もし不可知論が正しいとするなら、このような科学を仮説に解消する考えも、それに符合するのであるから正しいと言うことになってしまう。

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by ksyuumei | 2007-01-01 22:22 | 誤謬論

斉藤さんの誤読と内田さんの誤読(「フェミニズム」に対する誤解を誤読と解釈すれば)

『バックラッシュ』(双風舎)という本の中の齋藤環さんの「バックラッシュの精神分析」という文章に書かれた内田樹批判を考えてみようと思う。これは「誤読」というキーワードで解釈することが妥当なように僕には感じる。

斉藤さんは、内田さんが「フェミニズム」というものを誤読している(誤解、つまり全然「フェミニズム」でないものを「フェミニズム」だと思って、その間違ったイメージに対して批判している)と受け取っているように感じる。それは、内田さんの「私がフェミニズムを嫌いな訳」という文章から次のような判断を引き出していることからそう感じる。


「一読すれば分かる通り、この一文において内田が批判するのは、正確にはフェミニズムでもマルクス主義でもない。ようは、自らの主張の正しさに対して一切の懐疑を持たない「正義の人」が批判されているのだ。しかし、そうであるなら何も「正義の人」の代表に、フェミニストやマルキストを持ち出す必然性はない。
 内田がほぼ田嶋陽子一人をフェミニスト代表であるかのごとく例示しつつ行うフェミニズム叩きに対しては、今さら無知とか下品とか言っても始まらない。これほどあからさまな「為にする議論」を、今なお自らの公式ウェブサイトで公開し続けるという身振りは、議論や対話を最初から放棄するためになされているとしか思われない。それでなくとも内田は随所で、自分に対する批判には一切回答しないと公言している。」

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by ksyuumei | 2006-12-09 11:25 | 誤謬論

絶対的真理と相対的真理(あるいは絶対的誤謬と相対的誤謬)

エンゲルスは『反デューリング論』の中で次のような記述をしている。


「真理と誤謬とは、両極的対立において運動するところ、全ての思考規定と同様、ごく限られた領域に対してだけしか、絶対的な妥当性を持たない。これはたった今我々が見た通りである。また弁証法の初歩を、すなわち全て両極対立というものが十全なものでないという、ちょうどそうしたことを扱っているところを少しでも心得ておれば、デューリング氏にもそれが分かることと思う。真理と誤謬との対立を右に述べた狭い領域以外に適用しようものなら、この対立はすぐさま相対的なものになってしまい、従って精確な科学的表現法としては役に立たなくなる。だが、もしも我々がこの対立に絶対的な妥当性があるとして、そうした領域以外にそれを適用しようと試みるなら、我々はそれこそ本当に失敗してしまうことになる。対立の両極はそれぞれの反対物に転化し、真理は誤謬となり誤謬は真理となる。」(第一篇 哲学 第九章 道徳と法・永遠の真理)


これは、三浦つとむさんが語っていた、真理とはその条件によって変わりうると言う考えにも通じる。真理は誤謬に転化するという発想だ。エンゲルスが語る「領域」とは、真理関数の定義域のようなものだ。ある命題が語る言明が、その「領域」の対象のみを語っているときには常に真理となるなら、その「領域」は真理関数の定義域になる。

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by ksyuumei | 2006-12-03 18:50 | 誤謬論

誤読をしたくなる心理と仮言命題の理解

witigさんに「排便シグナルが読めて対処方法があればおむつは要らないか」というトラックバックを「必要条件と十分条件」というライブドアのエントリーにもらったのだが、これを読んでも、やはり内田さんの文章の文脈を誤読しているのではないかという印象は変わらない。

内田さんが語る「必要性」は、あくまでも「二歳までおむつをとる必要はありません」という言い方に関連して語られているものだと僕は文脈上の理解をしている。つまり、完全な形でおむつが必要でなくなるまではおむつをつけていてもいい、ということを「おむつが必要だ」という意味に理解し、完全になるまでの過渡期においてもおむつが必要でなくなることもあるよという主張として「おむつが必要ない」という内田さんの言い方を理解している。

問題は、子どもが自立と依存の中間点にいるときに、依存しつつ自立するという状態を作るために、排泄のシグナルを読みとろうという発想をしているのだと思う。自立か依存かという二者択一の発想ではなく、失敗をしつつも上手にシグナルを読みとる道が見つからないかを求めることに価値を見出すというのが、三砂さんの研究であり、それに賛同する内田さんの主張だと僕は受け取っている。

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by ksyuumei | 2006-12-01 10:04 | 誤謬論