カテゴリ:言語( 17 )

言語の「価値」という概念は、思考の展開にどのような新しさをもたらすか

内田さんが語るソシュールには言語の「価値」という概念が登場する。この「価値」は辞書的な・日常的な意味とは違うものを含んでいる。そこには新しい概念が表現されている。この「価値」という言葉によって新たに発見された概念は、思考の展開においてどのような利用のされ方をしているだろうか。そして、この概念があるおかげで、言語現象の複雑な側面がよりはっきりと見えてくるということがあるだろうか。もしそのような有効性をこの概念がもたらすなら、人間は新たな概念を生み出す言語によって、現実世界を人間に理解できる形で切り取ったといえるのではないだろうか。

さて「価値」というのは、それが何か貴重な、人間にとって大事だと思えるような性質を持っているというときに「価値がある」という言い方をする。だから、「言語の価値」という言い方を辞書的に受け取ってしまえば、「言語がいかに貴重で大事か」ということを指し示すものと解釈されてしまう。しかし、このような意味ならばわざわざ新たな概念として考える必要はない。辞書的な、それまであった概念で理解していても十分だ。

ソシュールが語る「価値」は、それが個別的な性質として大事だとかいう感覚を生むものとして捉えられているのではない。つまり、自分にとっての個性的な「価値」を語っているのではない。社会の中で、誰もがそれを欲するというとき、多くの人がそれを欲望するということが確認されるとき、その対象は、他の欲望されないものよりも「価値がある」という判断をされる。この「価値」は、他の存在との比較によって相対的にそれが高いか低いかが判断されるものとして想定されている。

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by ksyuumei | 2008-07-04 10:14 | 言語

もし、言語化する以前の概念が存在するとして、果たしてそれの差異を認識できるか?

言語化する以前の概念というのは想像することがたいへん難しい。どのような概念を思い浮かべても、その概念を示す言葉が頭に浮かんできてしまうからだ。何か分からないがぼんやりと頭に浮かぶようなもの、というものが想像できない。言語のあふれる世界の中で生まれて育った僕には、言語のない世界などは想像を絶するものだ。なぜなら、想像の対象でさえ、それは言語によって思考しているからこそ想像できるのだと言えるかもしれないからだ。概念は、言語化するからこそその差異を認識できるのであって、言語化する前のラベルのない概念は、混沌として差異を認識できないのではないだろうかという思いが消えない。したがって、概念をまず捉えて、その後に言語で名付けるという過程はありそうもないような気がしている。我々は対象を言語で名付けることによってその概念も同時に獲得しているというソシュールの考えが正しいような気がしている。

その想像が困難な「何か」としての名付けられない概念は、どうしたら想像可能になるだろうか。それは、名付けられるまではどこまでも「何か」としか表現できない概念だ。この「何か」は、名付けられる以前に、果たして僕の認識の中に「あらかじめ与えられた概念」として存在することが可能かどうか。それは名付けることが出来ず、「何か」としてしか表現は出来ないが、「何か」だという認識を持っていたら、「あらかじめ与えられた概念だ」ということが出来るだろうか。

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by ksyuumei | 2008-06-30 09:24 | 言語

示差的であることは言語の本質か

みつひろさんという方から「ソシュールの命題(主張)の論理的理解」というエントリーのコメント欄に、「示差的」ということに関するコメントをもらった。このコメントは、「示差的」という言葉の意味を理解するにはたいへん分かりやすい指摘になっている。「示差的」というイメージは、おそらくここで語られているような内容を指すのだろう。言語のもっている「差異」のイメージが、その概念理解をもたらすということは納得できる。

これはこれで納得できるものの、ある種の引っかかりも感じた。それはこのエントリーの表題にもあるように、「示差的」という性質は、言語の現象を事後的に観察して得られる解釈なのか、それとも言語現象にはなくてはならない、それを欠けばもはや言語としての性質を失うというほど重要な「本質」なのか、という問題だ。ソシュールは、この「示差的」という性質を「本質」として捉えているように感じる。それならば、僕も同じように、これを「本質」だと感じられるだろうか。

「本質」に対立する言葉に「現象」というものがある。「本質」でない性質は「現象」を記述しているだけと解釈される。それは事物の一面的な真理ではあるが、全体を貫く強い真理ではなく、末梢的な・捨象してもいいような真理として捉えられる。「本質」という概念を理解するのに、このような対立的な「現象」という概念の理解が役立つというのは、ソシュールのいう、言語が「示差的」であるということの一つの証拠にもなっているような気がするが、事実としてそういうこともあるなあという理解では、それはまだ解釈の段階にとどまる。それが確かに真理であるという確信に至るには、論理的な整合性をもう少し詳しく確認する必要があるのではないかと思う。それを考えてみようと思う。

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by ksyuumei | 2008-06-28 10:06 | 言語

ソシュールの命題(主張)の論理的理解

内田さんの『寝ながら学べる構造主義』には次のようなソシュールの言葉が引用されている。


「もし語というものがあらかじめ与えられた概念を表象するものであるならば、ある国語に存在する単語は、別の国語のうちに、それとまったく意味を同じくする対応物を見出すはずである。」


これは一つの命題として考えられる。この命題は仮言命題の形になっており、「ならば」でつながれている。この仮言命題は、「ならば」の前の条件が成り立つとき、必ず結論が成立すると言えるだろうか。つまり、この仮言命題は真であるということが論理的に確認できるものになるだろうか。それを考えてみたい。

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by ksyuumei | 2008-06-27 00:47 | 言語

日本語を学ぶことは日本的なもの(考え方・感覚)に同化することを伴う

僕は夜間中学に勤務をして今年で18年になるが、その間大部分を日本語を教えるということをしてきた。夜間中学には外国籍の人が多く、まずは普通の会話が出来るようにして、日常生活が送れるようにしなければならないという要求がある。そのために、本来は義務教育の中学校では教えない日本語を教えるようになっている。

この日本語教育はすでに長い歴史を持っているのだが、昔から言われてきたことは、彼らの外国人としてのアイデンティティを大事にしなければならないという主張だった。日本語を教えることは現実的な要求からなので仕方がないが、その事によってアイデンティティを失わせて、日本に同化させるような結果になってはいけないということだった。これは一理ある考え方だが、「同化させる」という内容をどう捉えるかで、もしかしたら不可能な遂行的命題になっていないかということが疑問として湧いてきた。

「同化」ということを、一切の日本的なものを排除して、あくまでも自分の国のものの考え方の枠を守っていくという純粋なものと捉えると、日本語の学習はまったく出来なくなってしまうのではないかと感じるようになった。ソシュールが語るように、言語というのは、それを学ぶことによって認識の仕方や思考の仕方に大きな影響を与え、その言語を使うことによって世界が変わるような経験をする。そして、それが意識せずに行われるところに、その言語を自由に扱うという現象が見られる。意識的にその言葉を使うことを考えながら話している時は、実はそれはその言語を自由に扱っていることにはならない。

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by ksyuumei | 2008-06-26 09:59 | 言語

素人がソシュールを学ぶ意義

僕は、日本語教育に携わり、専門としていた数学も数理論理学という、どちらかといえば言語学に近いものだった。その意味ではソシュールを「言語学」の象徴と考えれば、僕はまったくの素人とは言えないかもしれない。だがソシュールを専門に勉強してきたわけではなく、ソシュールに関する知識も乏しい。ソシュールが語ったことを直接読んだこともない。すべて誰かの解説を読んだだけだ。その意味で自分を素人と呼んでもいいだろうと思っている。

このような素人が、何か専門領域にかかるような事柄を学ぶということにどのような意義があるかを考えてみたい。一つ思いつくのは内田樹さんが、自分の専門外のことについて語るときによく言っていたことだが、素人の目が専門家が見逃していたところに注目することがあるという意義だ。内田さんは、『街場の~』という名前の著書がいくつかあるが、そこで語られているのは、専門家は最初から自明の事としてあまり顧みない、ほとんど解説しないことについて自分は考えるということだ。そのようなことを「まえがき」などに書いている。

内田さんが入門書を書くのもそのような意識からだ。専門家の書いた入門書は、ある程度予備知識がある人が全体をまとめるような感じで、要約しているような入門書になる。教科書的と言えばいいだろうか。そのような入門書は、教科書であるから、誰かが教えてくれなければよく分からないところが多いだろう。

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by ksyuumei | 2008-06-25 10:14 | 言語

思考と言語の関係

ウィトゲンシュタインは、思考の限界を確定するために、言語の有意味性の限界を確定しようとした。言語表現において、それに有意味性を与えるという行為が、人間が思考をしているということを示していると捉えていたのではないかと思う。このあたりは、言語表現の基礎には人間の思考があり、ひいては認識がなければならないという三浦つとむさんの言語過程説にも近いものを感じる。

だが、ウィトゲンシュタインが語るのは、言語の基礎にある認識一般ではなく、あくまでも思考の展開と関係のある認識だけだ。現実化していない可能性を表現するという面における言語の機能を思考の展開と結び付けて、可能性を表現することこそが思考の現れであると考える。もし認識一般を取り上げるなら、可能性を扱う像の操作だけではなく、対象を受動的に反映するという像の性質についても言及しなければならないだろう。しかし、ウィトゲンシュタインには言語のその側面での議論はないようだ。

思考の限界と言語の限界を厳密に一致させようとすれば、それが1対1に対応するという構造を示さなければならないだろう。認識と言語の関係を考えると、認識は表現の基礎になっているものだから、それを表現する言語との関係でいえば、認識の領域のほうが言語の表現の領域よりも広いだろう。言語にならない、言語に出来ない認識というものが存在することが予想される。

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by ksyuumei | 2007-12-08 11:12 | 言語

南京における虐殺という現象を「言語ゲーム」的に考えてみる

本多勝一さんの『中国の旅』から南京事件に関する記述を拾って、そこでの「虐殺」の現象がどのように考えられるかを、「言語ゲーム」的な発想で考えてみようかと思う。「言語ゲーム」の概念については、まだ充分わかったわけではないが、真理の決定における言語の影響という観点が大きいのではないかと感じている。

普通唯物論的に物事を捉えると、真理というのは対象である物質的存在をよく観察することによって、存在と認識との一致ということから得られるものと考えられる。初期のウィトゲンシュタインの考え方からすれば、言語が現実を映し出すという「写像」という考え方が、真理関数というものにつながり、現実の事実が言明の真理を示すと考えられる。

しかし、言語による言明が、現実の事実と完全に一致しなければ真理の判断は違うものになってしまう。言語の言明は、言語とは独立に存在している対象に属するものとしての真理と対応しているのではなく、言語を使うことによって真理が影響されるという関係にあるのではないか。それまでは真理の対象とならなかった事柄が、それについて語ることによって何らかの意味で真理と考えられるようになる。そのような現象が「言語ゲーム」として語られるのではないだろうか。

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by ksyuumei | 2007-03-17 23:30 | 言語

ことばは「ものの名前」ではない

「ことばは「ものの名前」ではない」というのは、内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』という本の中の一章だ。そこでは構造主義の先駆者としてのソシュールの業績を紹介している。

ソシュールについては僕はよく知らなかった。三浦つとむさんが批判している文脈に出てくるソシュールしか知らなかったといっていいだろう。構造主義についても、三浦さんが批判する文脈におけるものしか知らなかった。いずれについても、一度はもっとよく理解したいと思って、ソシュールや構造主義について書かれた本を読んでみたのだが、さっぱり理解できなくて、やっぱり三浦さんが批判するような観念論的な妄想なんだろうかと感じたものだ。

しかし、何かが僕の中で引っ掛かりを持っていた。ソシュールも構造主義も、現代思想の中ではもっとも優秀だと思われる人々がとりこになったものだ。それが単なる妄想だとはどうしても思えなかった。誰かが、これらの本当の価値を教えてくれるような文章を書いていないだろうかと思っていた。そのような思いに十分すぎるくらい応えてくれたのが内田さんの『寝ながら学べる構造主義』だった。

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by ksyuumei | 2007-02-06 00:06 | 言語

言語における使用価値と交換価値のアナロジー

シカゴ・ブルースさんの「貨幣の使用価値」というエントリーを読んで、自分の論理というか、言葉の使い方である語彙に混乱があるのに気がついた。交換価値と言うべきところで使用価値という言葉を使ったりしているような気がした。これは、頭の中では思考が先へ行っていたにもかかわらず、表現がそれに追いつかずに、言葉が混同してしまったようだ。

そこでもう一度、言葉の使い方に気をつけながら、自分が何を言いたかったのかを考えてみたい。言いたいことの中心は僕がソシュール的だと思ったもので、具体的な国語の違いから来る言語規範のずれが、思考のずれにも影響を与えると言うことだ。これは、ソシュール的と表現はするものの、ソシュール自身が語ったかどうかは分からない。内田さんが紹介するソシュールの言説を基に、そのようなものだろうと僕が想像したものだ。

言語規範のずれを、語義がかぶっているにもかかわらず意味に違いがあると言うことから、内田さんはそれを「価値が違う」と表現していた。そこで表現されていた「価値」というものを、僕は商品の価値との類推で理解しようとした。僕は、そこで言われている「価値が違う」というものを、ある意味では、交換するときの価格が違うという意味で理解していたような気がする。その連想から貨幣の価値というものの考察が出てきたのだと思う。

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by ksyuumei | 2006-10-01 00:31 | 言語