カテゴリ:科学( 23 )

社会「科学」の可能性

自然科学の分野が「科学」であるという共通理解は、自然科学系(日本では理科系、宮台氏の言葉でいえば数学系)の人間にはだいたい共有されている認識だと思う。それは、板倉さんが語る意味での「科学」という概念で考えても、確かに「科学」だと納得できるものだ。

自然科学で対象になるものは一般的な抽象的存在になる。物質の運動の法則を理論化しようとしても、それは目の前にある具体的な物質にのみ当てはまる経験的な法則ではない。その物質がこのように運動したからという経験を記憶しておいて、この次もたぶんこうなるだろうというような形で記述されるものではない。

運動を考察する力学では、物質一般としてある「質量」を持った対象について成立する法則を求める。もっとも単純で考えやすいものは、その質量が1点に集まった「質点」というものを想定して、その質点にかかる力を考察する。「質量」や「質点」という概念が、力学の対象を一般的に扱うことを可能にし、その概念操作としての思考が力学のさまざまな命題を発見させ、それを「仮説」として考える。その「仮説」が常に成り立つ命題であるという「実験」を考案して、「仮説実験の論理」を経ることによって力学の「仮説」は、現実的な真理(相対的真理)となり「科学」になる。

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by ksyuumei | 2008-07-06 10:13 | 科学

心理学や言語学は「科学」になりうるか

ソシュールは言語学を科学として確立したといわれている。それまでの事実の寄せ集めを解釈していただけの言語理論を、科学という理論体系として打ち立てたと評価されているのだろう。この解釈学から科学への飛躍は、その研究対象として「ラング」というものを提出したことに求められている。「ラング」の発見こそが言語学という科学を生む基になったというわけだ。

「科学」という言葉の概念は、人によってかなり違うところがあるだろう。僕は、仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんからその概念を学んだ。その概念は、「科学」と科学でないものを明確に区別し、科学の有効性をはっきりと分からせてくれるものとして、僕は板倉さんが語る以外の概念で「科学」を捉えることが出来なくなってしまった感じがする。そこで、板倉さん的な概念でソシュールが語る言語学が果たして科学になるものかというのを考えてみたいと思う。

板倉さんが考える「科学」というのは、「仮説実験の論理」というものを経て、それが一般的・普遍的な真理であるということが確立された命題あるいは命題群(理論体系)のことを指す。「科学」というのは、現実の対象に対して成立する「真理」を意味する。そして、その真理は一般的・普遍的であることが特徴で、ある時間・場所・対象がたまたまそうであったという偶然成立した真理とは区別される。

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by ksyuumei | 2008-07-05 21:35 | 科学

慣性の「原理」

板倉聖宣さんは、『科学と科学教育の源流』(仮説社)という本の中で、<慣性の法則>ではなく<慣性の原理>という言葉を使っている。「慣性」と呼ばれるものが現実世界の法則性を認識したものであれば当然「法則」と呼ばれてしかるべきなのだが、なぜこれを「原理」と呼んでいるのだろうか。板倉さんの語るところを考えてみようと思う。まずはその部分を引用する。


「ガリレオの力学における最大の業績は何かというと、<慣性の原理>と<質量不滅の原理>の確立ということが出来ます。彼が落下の法則や振り子の法則を発見しなくとも、ニュートンはその力学を完成させることが出来たでしょうが、<慣性の原理>と<質量不滅の原理>なしには、ニュートン力学も何もあったものではありません。
 いま私は<慣性の原理>と書き、<慣性の法則>とは書きませんでした。どうして、「法則」ではなくて「原理」なのでしょうか。そもそも「原理」と「法則」とはどう違うのでしょうか。私はその違いを、次のように考えています。
 「法則」というのは、実験によってその真偽が決められるものだが、「原理」というのは個々の実験には関係なく「疑い得ない真理」とみなされるものだ、というのです。
 そのことは、「実験的に慣性の原理を証明することは極めて困難だ」ということを考えてみると了解していただけるでしょう。」


板倉さんが語ることを、そのまま素直に受け取ると、「法則」というのは実際の実験によって証明される真理であるが、「原理」のほうはその証明が極めて困難であって、「疑い得ない真理」とみなされるものだから真理なのだというふうに読める。これは、表面的に受け取ると、科学ではなく宗教的ドグマを語っているようにも聞こえる。板倉さんをはじめとする多くの科学者は、証明することが困難な「原理」をどうして真理だと認識できるのだろうか。

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by ksyuumei | 2007-09-18 10:03 | 科学

弁証法は科学ではない

三浦つとむさんは『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)という本を書いている。僕も若いころに何度もこの本を読んだ。そのときには「科学」という言葉にさほど注意をすることはなかった。だが、板倉さんを通じて仮説実験授業を知り、板倉さんが語る仮説実験の論理による科学の成立ということに科学の本質を見るようになってからは、三浦さんが弁証法を「科学」と呼んだのは間違いではないかと思うようになった。

板倉さんの解釈では、三浦さんが弁証法を「科学」と呼んだのは、比喩的な意味で言ったのであって、それは観念的なでたらめとは違うというようなニュアンスで「科学」と言ったのだと受け取っていたようだ。弁証法的な言説はたいていの場合は詭弁となり、でたらめになってしまう。しかし、対象の弁証法性を正しく捉えているときには正しい言説になる場合もあると理解したほうがいいということを語っているものとして解釈していたようだ。弁証法においては、どのようなときに正しくなるかを判断することが大切だというわけだ。

だが、板倉さんは後に、三浦さんが本当に弁証法を「科学」と考えていたようだと語っていた。三浦さんは、板倉さんが言う意味での仮説実験の論理を基にした「科学」の概念を持っていなかったという。三浦さんの言語学は、言語に関するあらゆる知識を求めて、その知識の中での整合性を取っているが、実験によってその正しさを確認するという手続きはない。三浦さんは、あらゆる角度から対象を眺めて、よく考え抜いた末の結論は、その思考の深さによって真理を与えると思っていたようだ。これは板倉さんが語る「科学」の概念とは違う。僕は三浦さんを師と仰ぎ尊敬しているが、弁証法に関する理解では板倉さんに賛同する。

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by ksyuumei | 2007-06-13 10:12 | 科学

人間の主観を客観的に理解できるか

主観と客観は対立するものとして現前する。主観は、ある個人の頭の中に存在するもので、その個人を離れて外に飛び出すものではない。それに対して、客観と呼ばれるものは、個人との結びつきを断ち切って、個人とは独立に存在するものとして対象化される。だからこそ、個人の単なる思い込みではなく、誰もがそれを同じように対象として認識できるので、その属性を誰もが認めうるような一般性を獲得することが出来る。

個人の好き・嫌いに関する感情は、客観性をまったく持たない主観だけの範囲で語られてもかまわないものだ。好き・嫌いという感情は、そのこと自体が悪いというような価値判断は出来ない。その感情が生まれてくるのはある意味では仕方のないものとして受け止めなければならない。

例えば、ある芸術作品が自分の好みに合っているという、好きという感情は自分の主観である限りでは、誰も間違えるということはないだろう。この、好みの感情は、個人の生育暦などに影響されて決まってくるものだと思われるが、かなり偶然性の高いものだ。同じ環境で育っているように見える個人でも、その好みはまったく違うということがありうる。

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by ksyuumei | 2007-05-16 09:58 | 科学

仮説実験の論理

仮説実験の論理とは、仮説が科学になるという飛躍をもたらす論理のことである。僕はこの論理を板倉聖宣さんを通じて知った。科学というのは、一般的・抽象的な意味での真理のことを指すのだが、これは全称命題の形を取る。したがって厳密に考えれば、それが現実に成立することはあり得ないと考えられる。

だから、科学というのはどこまでいっても仮説に過ぎないもので、真理とは呼べないという主張も出てくる。だが、このような認識で科学を捉えてしまうと、例外的な事実が一つ見つかっただけで科学の信頼性は失われてしまう。もし科学が語る命題に反するような事実が見つかったとしても、それが捨象と抽象を経て得られた命題からは例外的なものだと判断できれば、例外であるがゆえに捨象できるはずだ。そうすれば、その事実は科学を否定するものではなく、科学の適用の限界を知らせるものとして役立てることが出来る。

仮説を科学として理解するというのは、論理的には飛躍が存在する。現実の世界というのはすべてを把握することは出来ない。いつでも知られない側面・未知の側面というものが存在しうる。新たな発見がなされる可能性があるという点で、現実は無限に多様なのである。だから、その現実に対してベタに「すべて」を主張することは間違いになる。「すべて」を確かめる手段がないからだ。

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by ksyuumei | 2007-05-09 09:47 | 科学

カラスが黒いことを科学的に証明できるか

schneewittchen さんという方から、「立場によって「真理」は違うか」というエントリーのコメントをもらった。そこに紹介されていたページの掲示板に、表題にあるように、カラスが黒いことを科学的に証明するということをテーマにしたものがあった。

ここで展開されている議論そのものに言及するのではないのだが、このテーマは、直感的に何か引っかかるものがあった。それは、「カラスが黒い」というような主張は、科学的に証明するという対象としてはなじまないのではないかということが頭に浮かんだからだ。

「カラスが黒い」という命題自体の判断はさておいて、これを証明するということを通じて「科学」というものを改めて深く考えるきっかけのようなものが得られるのではないかという思いも浮かんできた。結論から先に言ってしまえば、個別的な事実を語る命題は科学として成立するものにはならないということを僕は考えている。

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by ksyuumei | 2007-04-30 10:49 | 科学

武谷三段階論における「本質」

武谷三男さんの三段階論を辞書で引くと「科学的認識は「現象論・実体論・本質論」の三段階を経ながら発展するとしたもの」という説明があった。ここに書かれている「本質論」の「本質」とはいったいどのようなものを指すのだろうか。それは、「現象」や「実体」とどのように違うのか。この「本質」はやはり関係として捉えられるものなのだろうか。

武谷さんの三段階論は『弁証法の諸問題』という本に納められた「ニュートン力学の形成について」という文章の中で語られている。まとめてみると次のようになるだろうか。


現象論的段階
第一段階:現象の記述(実験結果の記述)
「この段階は現象をもっと深く他の事実と媒介することによって説明するのではなく、ただ現象の知識を集める段階である。」……個別的判断、個別的な事実の記述

実体論的段階
第二段階:現象が起こるべき実体的な構造を知る。この構造の知識によって現象の記述が整理されて法則性を得る。
「ただしこの法則的な知識は一つの事象に他の事象が続いて起こることを記述するのみであって、必然的に一つの事象に他の事象が続いて起こらねばならぬとゆうことにはならない。」……特殊的判断、その法則は実体との対応において実体の属性としての意味を持つ

本質論的段階
第三段階:実態的段階を媒介として本質に迫る。
「諸実体の相互作用の法則の認識であり、この相互作用の下における実体の必然的な運動から現象の法則が媒介し説明しだされる。」……普遍的判断、概念の判断(任意の構造の実体は任意の条件の下にいかなる現象を起こすかということを明らかにする)

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by ksyuumei | 2007-03-12 00:02 | 科学

社会科学の科学性について

大塚久雄さんの『社会科学の方法』(岩波新書)というとても面白い本を見つけた。大塚久雄という名前は、学問の世界ではビッグネームだったようだが、今では一般にはあまり知られていない人なのではないだろうか。僕も初めて手にしてみたのだが、内容の面白さと分かりやすさは、かつて三浦つとむさんの本を初めて読んだときのような感じがした。

三浦さんはアカデミックの世界とはまったく無縁の人だったから、その分かり易さはむしろ当然だと思っていたのだが、アカデミックの世界の巨人とも言える人が、これほど分かりやすい文章を書く人だとは意外だった。まだ最初の部分を読んだだけなのだが、そこだけでも「目から鱗が落ちる」というような経験ができることにあふれている。

大塚さんは、冒頭で「科学的認識である以上、それは因果性の範疇の使用ということと、どうしても関連を持たざるを得ない」と書いている。これは、「因果関係」というものを「仮言命題の成立」と言い換えると、<ある出来事が成立したなら、必ずこういうことが起きると正確に予想できる>ということだと解釈できる。

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by ksyuumei | 2007-02-27 09:49 | 科学

社会にも法則はあるか

仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんと、社会科の仮説実験授業の研究をしていた長岡清さんの共著の『社会にも法則はあるか』という面白い本を手に入れた。新書程度の軽い本なのだが、ここに含まれている社会科学というものを捉える視点というのは、数学系としては非常に納得のいくすっきりしたものに感じる。

哲学的な科学論としては、ポパーが提唱した「反証可能性」というものが有名なようだが、「反証可能性」というものを視点としたときは、考察している対象が「科学ではない」という判断は出来るものの、それが「科学である」という肯定判断はどうしたらいいかわからなくなる。「反証可能性」があるということが確認できたとしても、それは単に真偽を確かめる方法があるということがいえるだけで、それが真理であるということが確かめられたわけではないからだ。

科学というのは、それが真理であることがいえなければ、「科学である」という肯定判断は出来ない。仮説実験の論理は、その肯定判断を下すための一つの視点なのだ。表題にあるような、「社会にも法則はあるか」という問いに肯定的に答えることが出来れば、その法則こそが社会科学なのだと言うことが出来る。

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by ksyuumei | 2007-02-23 00:39 | 科学