カテゴリ:内田樹( 44 )

内田樹さんの分かりやすさ 3

ソシュールに対する再評価を教えてくれたのも内田さんの『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)という小冊子だった。ソシュールについても、僕は三浦さんの批判を通じてまず知ったために、何となく間違っているのかなという思いを抱いていた。特に当時養護学校での障害児教育において、「内言語を育てる」ということが理論的に語られていて、この「内言語」という概念がソシュールに通じるものだといわれていたので、障害児教育における「内言語」の概念に疑問を感じていた僕は、ソシュールもどこか間違っているのではないかと感じていた。

しかしソシュールは構造主義の祖と言われ、言語学に革命的な進歩をもたらした者として敬意を払われ支持されている。それが明らかな間違った理論であれば、なぜそのようなことが起こるのか合理的に理解できなくなる。支持した人間はみんな間違っているし、みんな馬鹿だったのだとでも思わなければ理解できなくなる。そんなことはないんじゃないかという思いが一方ではあった。

三浦さんの批判は、主として三浦さんが定義する「言語」の概念に照らして、ソシュールが提出する「言語」の概念が、言語としては認められないということが中心だった。三浦さんはあくまでも言語を「表現」として定義していた。「表現」だからこそ、その「表現」が生まれてくる過程的構造(現実に存在している何を認識し、何を考えたかが「表現」とのつながりで把握されなければならない)が問題になる。この前提を持てば、「表現」ではない言語規範を言語として定義したソシュールは、その時点でもう間違っていることが論理的に導かれる。

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by ksyuumei | 2008-06-13 09:29 | 内田樹

内田樹さんの分かりやすさ 2

内田さんの『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)の中から、なるほどそのとおりだと思えるような説明を抜き出して、それがどうして分かりやすいのかということを考えてみようと思う。

内田さんは第1章で構造主義に先行する思想史を作った巨人として、マルクス・フロイト・ニーチェについて書いている。このうち、フロイトを語った部分での「抑圧」という用語の説明が実に分かりやすかった。「抑圧」という言葉を辞書的に解釈すれば、「抑制し圧迫すること。むりやりおさえつけること」と書かれている。だが、この概念ではフロイト的な「抑圧」を理解することが出来ない。

フロイトが語る「抑圧」とはあくまでも「無意識」という心の領域の働きのメカニズムとして提出されている。この辞書的な解釈では、「無意識」の働きで起こっているのではなく、自分で自覚して「無理やり押さえつける」ということをしているように受け取れる。この「抑圧」は無意識の「抑圧」ではなく、自覚的な有意識の「抑圧」になってしまう。

辞書的な意味を心理学的なものに拡張しても、それは「心理学で、不快な観念や表象・記憶などを無意識のうちに押し込めて意識しないようにすること」と書かれているだけだ。これは「無意識」を考慮した概念のように見えないこともないが、よく考えるとおかしいところがある。「押し込めて意識しないようにすること」は、「意識しないようにする」ことを意識してしまうのではないだろうか。「無意識」というのは、このようなことが自覚できない、自分には決して分からないからこそ「無意識」だと呼ばれるのではないだろうか。

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by ksyuumei | 2008-06-12 09:44 | 内田樹

内田樹さんの分かりやすさ 1

僕が内田さんの文章に接した最初のものは、『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)という本だった。僕は、この本を読んで初めて「構造主義」というものがどういうものであるかという具体的イメージをつかむことが出来た。それまでは、三浦つとむさんの「構造主義者批判」を読んでいて、何となく「構造主義」は間違っているのかなあという感じを抱いていた。三浦さんは、構造主義者の言説を批判して、構造主義「者」を鋭く批判はしていたが、「構造主義」そのものの批判はなかったような気がしたからだ。

しかし「構造主義」そのものに間違いがあるのなら、しかもそれが簡単にわかるような間違いであれば、あれだけ多くの人を魅了して支持されたということが分からなくなる。「構造主義」に魅了された人々はすべて馬鹿だったということなのだろうか。僕にはそうは思えない。むしろその時代の最も優れた知性の持ち主たちが「構造主義」を支持していたようにも見える。

もちろん「構造主義」を細かく分析すれば、そこにいくつかの間違いはあるだろう。何から何まですべて正しい理論などというのはない。時代的な制約・地理的な制約などさまざまな制約のもとで人間が考えることに間違いがないということはあり得ない。そういう意味での間違いを批判するなら、「構造主義」も他の思想と同じように批判できるだろう。だが、そのような末梢的な批判ではなく、本質的にどこが優れていたのかということを僕は知りたいと思った。優れていたからこそ多くの人を魅了したのだと思った。

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by ksyuumei | 2008-06-11 09:34 | 内田樹

内田樹さんの語る中華思想 2

内田さんが語る中華思想のまず第一の特徴は、それが「ナショナリズム」ではないということだった。内田さんは、なぜ「ナショナリズム」ではないことを強調したのだろうか。この帰結そのものは、内田さんが定義するイメージから引き出せる論理的な帰結であって、実際の中国の歴史を見て、事実から引き出した観察結果ではない。つまり、中華思想というものが中国の行動の中に中心的な位置を占めていた時代は、それが「ナショナリズム」として、国家の一体感を感じる人々が出てきたり、国家の利益のために一丸となったりするという現象が出てこないだろうということが予想できる。中華思想は「ナショナリズム」ではないのだから、「ナショナリズム」の発露のように見える行為が人々の間に生まれないということが、その時代の常識だっただろう。

最近の中国を見ていると、オリンピックの聖火リレーでの異様な盛り上がり方といい、「ナショナリズム」を感じさせるようなところがある。この事実の解釈に、それは中華思想が薄れて近代国家主義が浸透したために「ナショナリズム」の傾向が高まったのだとするものも考えられるだろう。中華思想が薄れたために「ナショナリズム」の傾向が高まったと見るのは、一つの論理的展開になるだろう。

また、中華思想が薄れたとはいえ、それがまだどこかに残っているなら、西欧的な近代国家としての「ナショナリズム」、たとえばナチス・ドイツに見られるようなものや、アジアの中で西欧に近い近代化を遂げた日本の軍国主義下での「ナショナリズム」とは、どこか性格が違うものが見られるのではないかとも考えられる。現代中国の「ナショナリズム」の、中国的特性を理解するのに、中華思想というメガネは有効性を持つように思う。内田さんの「ナショナリズムではない」という指摘も、このようなメガネとの関連で評価できるのではないかと思う。

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by ksyuumei | 2008-06-08 12:29 | 内田樹

内田樹さんの語る中華思想 1

内田樹さんは、2008年04月21日に書いた「中国が「好き」か「嫌いか」というような話はもう止めませんか」というエントリーの中で、そこに書かれた事柄を「書いていることは『街場の中国論』の焼き直しで」と言っている。

中華思想について、このブログのエントリーで紹介されている短い文(「週刊現代」に載った)だけで内田さんが何を言おうとしているのかを判断すると、それはかなり単純化されて理解するしかなくなるだろう。短い文章の中に入ってしまっているので、かなり大雑把な、本質だと思われる一側面についてしか語られていないだろうと思う。だから、そこに「あれが書いていない」ということが気になっても、書いていないから内田さんの中華思想の理解が不十分だとすぐには結論できないだろう。

内田さんは、それが『街場の中国論』(ミシマ社)に書いたことの焼き直しだと言っているので、この本に書かれていることから、内田さんが本当は何を言おうとしていたかをもっと詳しく知ることが出来るだろう。『街場の中国論』では、69ページから105ページまでに一つの章を設けて「中華思想」について語っている。これならある程度まとまった主張としてその内容を詳しく受け取ることが出来るだろうと思う。これをもとにして、「週刊現代」の記事についても、内田さんが言わんとしていた本質は実はどういうものだったかということを考えてみたいと思う。

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by ksyuumei | 2008-06-07 11:43 | 内田樹

内田樹さんの2008年04月21日のエントリーの論理的な分析

内田樹さんが2008年04月21日に書いた「中国が「好き」か「嫌いか」というような話はもう止めませんか」というエントリーについて、この文章の内容を論理的にどう受け止めるかということを詳しく考えておきたいと思う。

僕のエントリーにコメントを寄せてくれた佐佐木さんという方が「現代「中華帝国」と中華思想 チベット問題」というページでこの文章に関連した主張を展開していたからだ。佐佐木さんの文章はかなりの長さで、しかも内容が多岐に渡っているので、それをまず理解するのも大変だ、だから、まずは内田さんの短いエントリーを自分なりに確認しておこうと思う。その上で改めて佐佐木さんの文章も読んでみたいと思う。

文章の読解というのは、論理の範囲であれば、誰が判断してもそのようにしか読めないという結論が得られるだろうと僕は思っている。人によって解釈が違ってきてしまう部分というのは、論理だけでは読み取れない、現実とのかかわりのある「事実」の判断が入り込んでくるのではないかと思う。内田さんの文章で、論理の範囲で結論付けられることは何かを考えてみようと思う。

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by ksyuumei | 2008-05-19 23:50 | 内田樹

内田樹さんへの共感

内田さんの一番新しい本『ひとりでは生きられないのも芸のうち』(文藝春秋)を読んでいる。この本も随所に共感できる言葉があふれている。まずは、まずは長い「まえがき」からそれを拾い出してみよう。

内田さんは、この「まえがき」を「「あまりに(非)常識的に過ぎるので、あえて言挙げしないこと」があまりに久しく言挙げされずにいたせいで、それが「(非)常識」であることを忘れてしまった方がずいぶんおられるように見えます」ということから書き始めている。僕が年をとって保守的になったせいもあるかもしれないが、このような語りにうなずいて共感する自分を感じる。

同時に、今まで常識とされてきたことに抵抗し、それを改革してきたところに進歩を見ることもできるので、それがちょっと行き過ぎて非常識が蔓延するのも、進歩の代償として仕方のないものかという思いも感じる。両方の思いがあるということは、そのことをあえて言葉にすることに価値があると言えるだろう。常識を壊されたと思う人は、その常識を壊すことを非難するだけだろうが、それが進歩だと考えている人は、それは古いものを無批判に守っているだけにしか見えないだろう。

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by ksyuumei | 2008-02-21 10:03 | 内田樹

共感することと理解すること

僕は内田樹さんと宮台真司氏とが好きな著者で、その著書のほとんどを持っている。内田さんの本で持っていないのは、翻訳をしたものくらいだろうか。ただ、内田さんには「さん」をつけて呼び、宮台氏にはいつも「氏」という敬称をつけて呼んでいるように、この両者に対する感覚的な受け止め方の違いというのがある。内田さんが年上で、宮台氏が年下ということも関係しているかもしれないが、内田さんは共感を感じる対象であり、宮台氏は、その語ることをぜひ理解したいと思う対象になっている。

宮台氏に対しては、僕はその天才性をリスペクト(尊敬)している。論理的にほとんど間違えることのない人間として、その天才性を感じている。宮台氏も人間であるから、時には間違えることもあるだろうが、その間違いはすべて末梢的なものであり、単純な言い間違いのようなものだと思っている。本質的な部分では決して間違えることのない人間が宮台氏だと思っている。

だから、宮台氏が語ることはまず理解したいと思うことが先行する。共感よりも理解の方が先になる。それだけ宮台氏が語ることは難しいということでもある。それに対して内田さんが語ることは非常にわかりやすい。僕が内田さんの本を読んだ一番最初のものは『寝ながら学べる構造主義』という本だったが、構造主義を語った本で、これほど読みやすく理解しやすい本はなかった。これで僕はいっぺんに内田ファンになってしまった。

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by ksyuumei | 2008-02-11 14:15 | 内田樹

自己実現幻想の弊害--いつまでも子どもから脱しきれない若者たち

内田樹さんが「人生はミスマッチ」というエントリーでたいへん面白い文章を書いている。このエントリーの冒頭で内田さんは次のように書いている。


「リクルートの出している「RT」という冊子の取材が来て、「高校の先生に言いたいこと」を訊かれる。
中高の現場の先生には基本的に「がんばってね」というエールを送ることにしている。
現場の教師の士気を低下させることで、子どもたちの学力や道徳心が向上するということはありえないからである。
現場の教師のみなさんには、できるかぎり機嫌良くお仕事をしていただきたいと私は願っている。
人間は機嫌良く仕事をしているひとのそばにいると、自分も機嫌良く何かをしたくなるからである。
だから、学校の先生がすることは畢竟すればひとつだけでよい。
それは「心身がアクティヴであることは、気持ちがいい」ということを自分自身を素材にして子どもたちに伝えることである。」


学校という現場にいる人間として、たいへんありがたい応援の言葉をもらったようで嬉しく感じるし、その基本的な発想に共感するものだ。教師という職業の人間に出来ることは高が知れている。その中で何を一番大事にしなければならないかという発想で、内田さんが語る「「心身がアクティヴであることは、気持ちがいい」ということを自分自身を素材にして子どもたちに伝えることである。」ということは、たいへん共感できることだ。

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by ksyuumei | 2007-11-08 09:26 | 内田樹

格差は悪いことなのか

内田樹さんの「格差社会って何だろう」というエントリーが話題を呼んでいるようだ。はてなのブックマークも300近いものがつけられていた。これが話題を呼んでいるのは、内田樹ともあろうものがなぜあのような駄文を書くのか、という見方をされているからのようだ。

これは面白いことだと思う。もし、あの文章を内田さんが書いたのでなければ、ほとんど注目もされずに黙視されたのではないだろうか。これはひどいと思った人が多かったのだが、その文章を書いたのが内田樹だったというのであれだけのブックマークがつけられたようだ。

この現象を解釈するには二つの方向があると思う。一つは、内田樹はもともとひどいことを書く人であって、たまたま本が売れて気の利いたことを言っているように見えているだけで、実際には多くのベストセラー作家と同じように、通俗的で浅い見方だからこそ本が売れているに過ぎないのだという解釈だ。誰にでも分かるような大衆受けする、宮台氏的な表現を使えば、俗情に媚びるようなことを書いているからベストセラーになるのであって、今回は、たまたまボロが出てひどいことがそのまま出てしまっただけだという解釈だ。

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by ksyuumei | 2007-07-28 15:50 | 内田樹