カテゴリ:内田樹( 44 )

私たちを幽閉している檻としての言語

内田樹さんが『こんな日本で良かったね』で語る次のテーマは「言葉の力」というものだ。ここにはどのような構造が語られているのか。それはこのエントリーの表題にした「檻」で比喩されるような構造だ。「言葉の力」のイメージが、どのようにして「檻」という構造を見せてくれるのだろうか。

まずは、「言葉の力」という言葉に秘められた様々の意味を考えてみよう。内田さんは、これを学習指導要領の基本理念として提出されていることからまず話を始めている。「言葉の力」こそが「学校のすべての教育内容に必要な基本的な考え方」とされている。これは、国際学力調査の結果として、日本の子供の学力の「二極化」が問題にされたことから、学力の低下をもたらした原因として「言葉の力」が不足しているという発想がされたようだ。

特に低下した学力は、読解力と記述式問題で、この学力調査の結果は非常に悪かったようだ。この問題を解決するために、「言葉や体験などの学習や生活の基礎作りを重視する「言葉の力」をすべての教育活動の基本に置くことになった」という。このことから想像される「言葉の力」の内容は、単に言葉を記憶して、その記憶が正確に早く引き出せるということではない方向を目指しているように感じる。言葉としての記憶ではなく、その言葉が実際の自分の体験や感じ方に基礎を持ち、自分の体の一部のように使えるようになるということが、「言葉の力」を身につけたということになる、という考え方のように思う。そうなれば、読解や記述も自信を持って出来そうだというような予想も立つ。

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by ksyuumei | 2008-11-28 09:12 | 内田樹

言葉と思考の関係

内田樹さんの『こんな日本で良かったね』で語られる最初の文章は「「言いたいこと」は「言葉」のあとに存在し始める」と題されている。これは、まえがきにあったように「人間が語るときにその中で語っているのは他者であり、人間が何かをしているときその行動を律しているのは主体性ではなく構造である」ということを前提とすれば、きわめて論理的な帰結だと感じられる。

内田さんは、「「言いたいこと」がまずあって、それが「媒介」としての「言葉」に載せられる、という言語観が学校教育の場では共有されている」という指摘をしている。表現の前に、何か表現したいものが自分の中にあったという感覚があるというのが、普通に教育現場で考えられていることだという指摘だろう。しかしこれは錯覚であって、正しくは次のようなものとして理解されると内田さんは語る。


「先行するのは「言葉」であり、「言いたいこと」というのは「言葉」が発されたことの事後的効果として生じる「幻想」である。より厳密には、「言いたいことがうまく言えなかった」という身体的な不満足感を経由して、あたかもそのようなものが言語に先行して存在していたかのように仮象するのである。」


自分が表現したかったことは、実は言葉に出してみて初めて自分にも分かる、という感覚は僕にも実感として感じられることがしばしばある。だからここで内田さんが語ることは、経験的に実感として正しいように感じられる。だが、理論的には何か違和感も感じる。それはどのようなところだろうか。

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by ksyuumei | 2008-11-27 00:43 | 内田樹

一般論的主張と現実解釈との整合性

内田樹さんの「私の好きな統治者」というブログ・エントリーがようやくパソコンで読めるようになった。記憶にあるように、ここに書かれた内容は「宰相論」に関する一般論がほとんどだった。その一般論を語る過程で、現実の「宰相」に当たるかもしれない麻生氏について少し言及しているというのがこのエントリーの印象だ。

ここに書かれている一般論に関しては僕はだいたい共感してその通りだと思う。しかし、麻生氏を評価しているように見える部分、


「麻生太郎は総裁選挙前はずいぶんと言いたい放題のことを言っていたが、選挙になるとさまざまなトピックについて明言を避け、失言を抑制し、何が言いたいのかわからない人間になりつつある。
私はこれを彼が「公的責務」の重さを思い知った徴候だと思って、頼もしく受け止めている。
だから、各新聞の社説が「もごもご言うな」といきり立つことに少しも同調する気になれないのである。」


に関しては、この受け取り方(理解の仕方)によっては、自分とは反対の判断をしているのだろうかと思ってしまう。だが一般論からの論理的帰結としては内田さんが語ることが論理的には正しいようにも思える。自分は、論理的な判断ではなく、感情的な好き嫌いから麻生氏の曖昧さに対してマイナスの評価を与えているのだろうか。そのあたりの論理と現実の整合性についてちょっと詳しく考えてみたくなった。また、マスコミが麻生氏の曖昧さを批判する論調と僕の感じ方がちょっとニュアンスに違いがあるのも感じる。このあたりのことも、内田さんの主張をヒントに、そこにある違和感を説明できるのではないかとも感じている。

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by ksyuumei | 2008-09-27 11:51 | 内田樹

内田樹さんの分かりやすさ 10

内田さんの『寝ながら学べる構造主義』では構造主義の四銃士としてレヴィ・ストロースを解説している一章がある。レヴィ・ストロースは、構造主義においては最も重要な思想家の一人として語られることが多い。構造主義の考え方を使って大きな成果を上げた人として有名だ。しかし、レヴィ・ストロースが何をして、そのどこがすごかったのかというのは分かりにくい。

レヴィ・ストロースは親族の持つ構造を明らかにしたといわれるのだが、この理解がなかなか難しい。レヴィ・ストロースが語る言説というのは、現実に存在する親族の現象を説明する解釈としては成り立つような気がする。しかし、それ以外に解釈がないかといえば、解釈するだけならいくらでも別の解釈を持ってくることが出来るような気がする。そうであれば、レヴィ・ストロースが語る言説こそが、親族の意味を明らかにした、つまりそれが真理であるということの理由があるはずで、その理由を整合的に納得できれば、なるほどレヴィ・ストロースが言うとおりだと理解できるだろう。

レヴィ・ストロースの語る命題が真理であるならば、それは科学的に証明されなければならないのではないかとも感じる。そういう見方をすると、どうもレヴィ・ストロースの言説に科学性をあまり感じないことから、それが真理であるということがなかなか理解できないのだという気がする。レヴィ・ストロースは、親族の現象(特に婚姻に関するもの)を取り上げて、それらに共通する構造を図式化することに成功した。しかし、図式化できたということそのものから、それが真理であるという結論は出てこない。図式化したものがなぜ真理なのか。それを納得したいと思う。

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by ksyuumei | 2008-06-22 12:48 | 内田樹

内田樹さんの分かりやすさ 9

内田さんは『寝ながら学べる構造主義』の中で、ロラン・バルトの「作者の死」という概念を説明する。この概念は、非常に分かりにくいものだと思う。この概念に最初に僕が出会ったのは、これを批判する三浦つとむさんの文章でだった。

三浦さんは「東西粗忽長屋物語」という比喩でこの批判を語っていた。落語の粗忽長屋物語では、行き倒れになった死骸が、長屋の熊さんに似ていて、その当の熊さんが死骸を抱いて、自分に対して「しっかりしろ」などと声をかける。そうすると、確かに目の前に見ている死骸は「熊さん」つまり自分だけれど、それを抱いて介抱しているのは誰だということになる。眺められている存在の自分と、眺めている存在の自分とが二人いるのはどういうことなのかということが哲学的な問題として生じてくる。

これを形式論理的に解釈すれば、自分が二つに分裂することはないという前提で考えて、一方が自分であれば他方は自分ではないという結論になる。実際に存在する人間が二つに分裂することはないから、落語の粗忽長屋物語の熊さんは、死骸を抱いているほうが本物で、死骸になった人物は、熊さんに似てはいるが別人であると結論しなければならない。そうでなければ形式論理的な矛盾を生じてしまう。

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by ksyuumei | 2008-06-21 13:43 | 内田樹

内田樹さんの分かりやすさ 8

内田さんは、フーコーによる狂気の考察を『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)の中で解説をしている。これをウィキペディアの「ミシェル・フーコー」などで見ると次のように書かれている。


「フーコーは『狂気の歴史』(1961年)で、西欧世界においてかつては神霊によるものと考えられていた狂気が、なぜ精神病とみなされるようになったのかを研究する。彼が明らかにしようとするのは、西欧社会が伝統的に抑圧してきた狂気の創造的な力である。第2段階は、先に概観した知の変化についての考察が中心となる。この考察は、もっとも重要な著書である『言葉と物』(1966年)にしめされている。」


ここに書かれていることは間違っているとは思わない。たぶんその通りなのだろうと思う。しかし、ここに書かれている内容を具体的に思い浮かべることの出来る人間は、すでにフーコーについて何らかの知識を持っている人間だけだろう。「狂気の創造的な力」というものを、この言葉だけから思い浮かべることが出来るだろうか。もし思い浮かべることが出来たとしても、それは辞書的な意味にとどまるだろう。あるいは、「何とかと天才は紙一重」というような俗っぽい言い方から想像するような「狂気の創造性」が浮かんでくるだけなのではないか。

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by ksyuumei | 2008-06-19 09:51 | 内田樹

内田樹さんの分かりやすさ 7

現代思想というのは非常にわかりにくい内容を持っている。哲学者が語ることでも、古代ギリシアや中世ヨーロッパくらいまでなら、その内容に難しさはあっても、何を言っているのか内容そのものがつかめないということはない。内容を正しく受け止めるのは難しいが、何について語っているのかというのは分かる。だが、現代思想については、何を言っているのかそれすら分からないということがある。

たとえば、ミシェル・フーコーには次のような言葉があるようだ。


「作家の刻印とは、もはや作家の不在という特異性でしかない。作家はエクリチュールの遊び(ゲーム)のなかで死者の役割を受け持たねばならないのです。こうしたすべてはよく知られたことで、もうずいぶん前に、世評と哲学とはこの作者の失踪ないしは作者の死亡を確認し記録にとどめています」


僕は、このフーコーの文章が何を語りたいのかがよく分からない。それは「エクリチュール」「ゲーム」という言葉の概念を正確に把握していないということに原因があるのだろう。「ずいぶん前に」ここで語っているようなことが確認され記録されているということに関する知識もない。おそらくそのような基礎知識を持ってフーコーのような現代思想を読まなければその内容すら受け止めることが出来ないのだろう。

そして、内容を受け止められないと、フーコーが語っていることに論理的な整合性があるのかどうかという判断ができない。なるほどフーコーが言うことももっともだという、納得の理解にいたることが出来ない。現代思想というのは、長い間僕にとってはそのような対象だった。

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by ksyuumei | 2008-06-18 10:32 | 内田樹

内田樹さんの分かりやすさ 6

適切に表現された文章を読んだり、あるいは発言を聞いたりしたとき、我々は「目から鱗が落ちる」という経験をすることがある。これは、今までは何となくそう思っていたという、何かもやもやとしていた事柄が、まるで霧が晴れるかのようにはっきりと見えてくるという経験だ。それまでの、何となくそう思っていたというもやもやした思考は、ソシュールが語る「星雲」のようなものに見えるのではないだろうか。そして、適切な言葉で表現されたものを知ることによって、その「星雲」が明確な判然としたものになるのを感じる。内田さんが語るソシュールの言葉に「なるほど」と感じることが出来るのも、僕が何となくそう思っていたことがはっきり分かるように適切に表現してくれているからだろうと思う。

内田さんが語ることの分かりやすさは、適切な表現であるという要素が大きいのではないかと思う。真理の語り方にはいろいろなものがあるが、複雑な「名」の論理形式をもった真理は、そのまま語ったのでは、複雑な構造を知っている人間にしか伝わらない。適切な表現とは、そこにある複雑な構造が見通せるような、複雑さを可視化出来るような表現になっていなければならないだろう。そのようなものを次の表現にも感じる。


「ソシュールが教えてくれたのは、あるものの性質や意味や機能は、そのものがそれを含むネットワーク、あるいはシステムの中でそれがどんな「ポジション」を占めているかによって事後的に決定されるものであって、そのもの自体のうちに、生得的に、あるいは本質的に何らかの性質や意味が内在しているわけではない、ということです。」


これは、人間が「あるもの」の存在を解釈し、その「性質や意味や機能」を了解するということの複雑さを語っている表現として理解できる。それが物質的存在であれば、人間の意識から独立しているという性質を観察して、それを記述することで「性質や意味や機能」を了解するという了解の仕方がある。それはある意味では客観的な見方のように見えるが、意識とは独立した面を観察しているので、別の観点からは、自分とは関係のない存在としてそれが映ってしまう。

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by ksyuumei | 2008-06-17 09:48 | 内田樹

内田樹さんの分かりやすさ 5

内田さんの『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)でのソシュールの解説には、次のような文章が引用されている。


「それだけを取ってみると、思考内容というのは、星雲のようなものだ。そこには何一つ輪郭の確かなものはない。あらかじめ定立された観念はない。言語の出現以前には、判然としたものは何一つないのだ。」(『一般言語学抗議』)


この文章に関しては三浦つとむさんも『言語学と記号学』(勁草書房)の中で批判的に取り上げている。それは、唯物論の立場からの批判で、ソシュールの主張は観念論的妄想だというものだった。上の文章では、「言語は思想の「無定形の不分明なかたまり」に区切りを作り出し、区別を与えるかのように受け取れ」、「言語とはこの区切りのあり方(すなわち構造それ自体)であるとか、さらには思想のみならず現実の世界に区別を与える機能を持つとかいう解釈」が観念論的妄想に見えるという批判だった。

しかし内田さんが語る文脈で、上のソシュールの言葉を理解すると、三浦さんが指摘するような観念論的妄想のようには見えなくなる。ソシュールが主張したことは、言語の成立によって存在が出現したというような観念論的妄想ではないように僕は感じる。その程度のものであれば、誰もがその間違いを悟り、ソシュールに学ぼうなどという人間はいなくなるのではないか。

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by ksyuumei | 2008-06-17 00:55 | 内田樹

内田樹さんの分かりやすさ 4

内田樹さんによって僕はソシュールの再評価をするきっかけをつかんだのだが、これは内田さんがソシュールの専門家ではなかったからそのような問題意識で内田さんの文章を読むことが出来たのではないかと感じる。ソシュールの専門家というのは、すでにソシュールに対して高い評価をしている人間なので、何でことさらソシュールを再評価するような優れた面を提出する必要があるのか、という前提を持ってソシュールについて書いているのではないだろうか。

また、ソシュールに対して批判的な人は、もちろん再評価するようなところではなく、批判したい面について書くだろう。内田さんは、ソシュールの専門家ではないからこそ、ソシュールに批判すべき欠点があろうとも総合的に見て思想史に影響を与えた優れた面を拾い出すことが出来るのではないだろうか。

内田さんは『街場のアメリカ論』の「まえがき」の中で次のようなことを書いている。


「私はもともと仏文学者であって(今ではその名乗りもかなり怪しいが)、アメリカ史にもアメリカ政治にもアメリカ文化にもまったくの門外漢である。非専門家であるがゆえに、どのような法外な仮説を立てて検証しようとも、誰からも「学者としていかがなものか」という隠微な(あるいは明確な)圧力をかけられる心配がない(そのような禁制の届かない存在を「素人」と言うのである)。この立場はアメリカを論じる場合には、単に「気楽」というのを超えて、積極的に有利な立ち位置ではないかと思い至ったのである。
 私の仮説は、日米関係の本質は現実の水準ではなく、欲望の水準で展開しているというものである。
「日本人はどのようにアメリカを欲望しているのか?」これが、私の研究(というほどのものでもないが)の中心的な関心である。
 だが、この問いは「アメリカ問題専門家」にとってはもっとも意識化しにくい問いの一つではなかろうか。当然ながら、「アメリカ問題専門家」は、彼がその職業を選んだという当の事実によって、すでにアメリカを欲望しているからである。彼らが「アメリカ問題専門家」であること自体が彼らのアメリカに対する欲望の効果なのである。」


ここに語られている「素人」の優れた面というのは、仮説実験授業において、しばしばあまり知識のない生徒の方がかえって最も難しい問題に正解を出せるという事実につながるものだ。中途半端に知識があると、本質的なものよりも末梢的な知識のほうが気になって、複雑な問題の解答が出せなくなる。しかし、知識のない生徒は、そこで迷わせるような知識がないために、かえって本質に近づけるということがある。「素人」は完全な正解を提出することは出来ないが、最も難しい問題で正解に近づくきっかけを与えることがある。これが「素人」の優れた面ではないかと思う。

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by ksyuumei | 2008-06-14 09:29 | 内田樹