カテゴリ:雑文( 196 )

「猥褻行為」は存在するか

『社会学の基礎』(有斐閣Sシリーズ)という、大学の教科書として書かれた本の「行為と役割」という章を宮台真司氏が執筆している。ここでは行為の同一性に関して議論を展開しているのだが、二つの行為を比べてそれが同一であるか違うかという判断を3つのレベルにおいて考察している。

その3つのレベルは、<物理的レベル><遂行的レベル><帰責的レベル>として捉えられている。それぞれのレベルは視点の違う見方になるので、<物理的レベル>では同一だが<遂行的レベル>では同一ではないという判断も成り立つ。つまり、弁証法的な意味での肯定と否定が同時に成り立つという矛盾が見られる。これは「行為」というものが単純なものではなく複雑なものであることを意味している。

「行為」というものは、物理的に現れた現象にすべての属性が読み取れるのではなく、そこに人間が意味を与えることによって「行為」として受け取ることが出来る。つまり、物理的には同じように見えても、その意味が違うという受け取り方をすれば「行為」も違うという理解をするわけだ。この意味の問題に関連して「行為」は3つのレベルでの解釈が出来るものだと思われる。

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by ksyuumei | 2007-11-21 10:28 | 雑文

囚人のジレンマ--信頼への裏切りがもっとも利益になるという皮肉な判断

ゲーム理論で有名なものの一つに「囚人のジレンマ」と呼ばれるものがある。これは詳しくは「囚人のジレンマ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」で紹介されているが、簡単に要約すると次のようになるだろうか。

共犯だと思われる二人の被疑者AとBの取調べにおいて、二人において次のような条件が提示されたとする。

・A,B二人とも黙秘し、自白しなければ少ない物証によって二人は懲役2年の刑になる。
・どちらか一人が自白し、もう一人が黙秘した場合は、自白したほうは情状酌量されて反省の意を示したと受け取られ懲役1年に減刑される。しかしもう一方は、反省の意を示していないと判断され、懲役15年の厳罰に処される。
・A,Bどちらも自白したなら反省の意を示したという情状を考慮して、その罪に応じた処罰として懲役10年が言い渡される。

このとき、二人の囚人AとBはどのような戦略を立てることが利益を最も大きくするか(あるいは損害を最も少なくするか)ということを考えるのがゲーム理論の問題となる。

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by ksyuumei | 2007-11-09 09:32 | 雑文

支配という現象の論理的考察

今週配信されているマル激のゲストは岡田斗司夫さんで、ダイエット問題から入ったその話はたいへん面白いものだった。岡田さんは、100キロ以上あった体重を50キロも減らしたダイエットで有名になったが、その方法論がたいへん論理的で説得力のあるものだった。岡田さんという人は、その話の展開が非常に論理的な説得力を持った展開をする人だと感じた。

さっそく岡田さんの本を求めて読んでみようと思って本屋へ行ったのだが、ダイエット関係の本は売り切れていて手に入らなかった。代わりに『「世界征服」は可能か?』(ちくまプリマー新書)という本を手に入れた。これがたいへん面白かった。論理的な書き方をしているのでたいへん分かりやすく、そこにちりばめられたユーモアたっぷりな表現が、飽きさせずに最後まで読ませるという効果を生んでいた。

面白おかしく軽く読ませるこの本だったが、そこに書かれている内容は決して軽いものではなく、「支配」という現象の本質をついているものではないかと感じた。「世界征服」などというものは、空想的な物語の中にしか登場しないから、笑い飛ばしてしまえるようなものだが、現実に「侵略」と呼ばれているような「悪」は、この「世界征服」という喜劇に近いものがあるように感じる。「世界征服」なら非現実的な、ある種のユーモアを感じて笑い飛ばせるものが、「侵略」という現実は悲惨でまじめに向かい合わなければならないものになる。しかしその本質はかなりよく似ている。

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by ksyuumei | 2007-11-01 10:16 | 雑文

集団自決という現象のディテール(細部あるいは末梢的なこと)

夜間中学には日本語学級という、日本語を勉強するクラスがある。今でこそ、そこは外国から日本へ来た人々(結婚で来たり、再婚の母親に呼び寄せられたり、仕事で来日した父親の家族として来たり、その理由はさまざまである)が、日本語の授業を受けるために必要な日本語の会話を学習するためのクラスになっているが、発足のころは違っていた。

日本語学級が発足したころは、戦後長いあいだ戦地になっていた中国などから、さまざまな事情で帰れなくなっていた人々が引き揚げてきたことがきっかけだった。いわゆる「中国残留孤児」という呼び方をされていた人々は、幼いころに中国に取り残されてしまったため、日本人でありながらまったく日本語が話せない・理解できないという状況にあった。

これらの人々が日本へ引き揚げて、日本で生活を始めたときに、生活のために必要な日本語を学ぶ場所がなかった。そこで、夜間中学がとりあえずそのような日本語の教育機関として選ばれ、日本語学級というものが設置された。だから、夜間中学の日本語学級は、そもそもの発足のきっかけは、引揚者の日本語学習の問題からであり、教科学習のための基礎的日本語を学習するという問題ではなかった。そのような特殊な事情のある夜間中学校の日本語学級では、中国からの引揚者がたくさん学んできた。その関係者の一人であるNさんの体験談を聞く機会が先日あったのだが、その中で旧満州における「集団自決」の問題が語られていた。

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by ksyuumei | 2007-10-30 09:33 | 雑文

貧困で幸せはあり得ないか?

今週配信されているマル激では貧困の問題が議論されている。現代日本の深刻な問題は、「格差」ではなくて「貧困」だという指摘がそこではされている。この指摘は非常に説得力のあるもので、問題が「格差」ではなくて「貧困」だと設定しなおされれば、それは僕にとっても深刻な自分の問題として迫ってくる。「格差」であれば、そんなものはあまり関心のない現象に見えてくるが、「貧困」というものは、今はその中に落ち込んではいないものの、将来的・あるいは子どものこれからの人生を考えた場合、それに直面する恐れというのは深刻に感じるところがある。

マル激の中では、「貧困」と「貧乏」は違うということも話されていた。「貧困」は、人間にとって基本的な衣・食・住の問題で、生活困窮に陥るほどの窮乏生活に陥ってしまうことを意味するものとして語られていた。それに対して「貧乏」というのは、単に金がないという現象を指すだけのものとして語られていた。

「貧困」というのは、必然的に人間性を破壊するものとして捉えられていた。だからこそ、「貧困」で幸せはありえないという判断も生まれてくる。それに対して、「貧乏」は、たとえ金がない状態であろうとも、それを補う社会的なネットワークさえあれば、「貧乏」の中にいても幸せだということがありうる。この指摘は論理的にとても面白いものだと感じた。

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by ksyuumei | 2007-10-05 09:50 | 雑文

南郷継正さんの「しごき論」

武道家の南郷継正さんの『武道の理論』(三一新書)を読んだのはかなり以前のことなのだが、そこにたいへん面白い「しごき論」がある。「しごき」は、武道の上達のためには絶対的に必要であり、しかも有効に働くということを前提にしながらも、それは行き過ぎる可能性を常に持つものとして、経験主義的に把握するのではなく、いわば実体論的とでも呼ぶような理解の仕方が必要であると主張するものだ。

今話題になっている相撲の時津風部屋の力士の死亡の問題は、行き過ぎた「しごき」の問題としても捉えることが出来る。外から見ている人間からすると、死んでしまうまでしごくような人間たちは鬼のようなひどい人間に見えてくるが、「しごき」という現象は、本質的にそのような危険性を伴うものであるという認識が必要だろうと思う。指導者としての賢さや資質がない人間は「しごき」を上達の手段として用いるべきではないのだと思う。

少年力士を死に至らしめた人々は、鬼のような人非人ではなく、ごく普通の人だったのではないかと僕は思う。そして、そのごく普通の人を、通常では考えられないようなひどい行為をするところまでエスカレートさせるものが「しごき」の中にはあるのだと思う。「しごき」がなぜ行き過ぎてしまうかという構造的な部分を、南郷さんの言葉をヒントに考えてみようと思う。それは、いじめが行き過ぎて人を追い詰める構造に似ているのではないかとも思う。普通の人が、普通でなくなってしまうようなメカニズムを知って、それを自らの戒めにしたいものだと思う。

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by ksyuumei | 2007-09-29 22:43 | 雑文

『論理哲学論考』における「法則」という言葉

野矢茂樹さんが翻訳したウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』(岩波文庫)には、用語の索引がついている。その中から「法則」という言葉に関する命題を拾ってみて、ウィトゲンシュタインが「法則」という言葉をどのように使っているかを考えてみようと思う。「法則」というような、一般性の高い言葉は、日常的にも使われるし、比喩的にも使われたりして、その意味は非常に多様なものがある。文脈から決まってくる意味を読み取ることが難しいとも言えるものだ。

ウィトゲンシュタインは哲学者であり、哲学者というのは非常に厳密な論理を展開する。しかもウィトゲンシュタインというのは、余計な説明を一切省き、その本質だけを凝縮して語るような文体を持っている。「法則」という言葉を用いるときも、僕のように無意識に使ってしまうということはないだろうと思う。吟味に吟味を重ねてその言葉を選んだに違いない。

ただこの『論理哲学論考』は翻訳なので、日本語的なニュアンスと違うものがあるということが考えられるかもしれない。しかし、そもそも「法則」という言葉が、今のような使われ方をしているのは、明治以後に近代科学が輸入されてからのことではないかとも思われるので、もともとが翻訳概念だと言ってもいいかもしれない。ともかく、ウィトゲンシュタインが命題の中で語る「法則」という言葉が、その命題の中ではどのような意味で使われているのかを考えてみようと思う。

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by ksyuumei | 2007-09-27 10:07 | 雑文

用語の使い方とその意味

関さんから「数学的法則性とその現実への適用」のコメント欄に「法則」という言葉の使い方に対する違和感を語るコメントをもらった。これは、その違和感というのは十分理解できる。僕も、「科学的な」という修飾語を付した「法則」に関しては、仮説実験の論理によって証明されたものという意味を含めて使っていたからだ。

このエントリーで「結合法則」という言葉を使ったのは、無意識のうちにそのような用語の使い方をしたのだが、よく考えてみるとやはり使うには使っただけの理由があったことに気が付いた。それは短いコメント欄では説明しきれないので、改めて一つのエントリーとして、どうして「結合法則」という言葉を使ったのかを説明してみたいと思う。

僕が無意識のうちに「結合法則」という言葉を使ったのは、それが数学の中でもごく当たり前に使われているという習慣からくるものが大きい。ウィキペディアでも「結合法則」という項目があって、それが説明されている。これはおそらく「associative law」という英語の翻訳のようなものとして使われているのだろうと思う。これは、他には「結合則」・「結合律」とも呼ばれていることがそこでは説明されている。

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by ksyuumei | 2007-09-26 09:56 | 雑文

抽象概念の直感的理解

今年度の数学の授業では関数を扱っている。関数というのは、数学の中でもなかなかの難物で、これを単にxとyとの数式だと捉えて計算をするだけだと解釈すると、関数本来の持っている深い意味を理解するのは難しい。計算が出来るようになれば、関数を道具として利用することは出来るが、それは定型的なものにとどまる。関数という概念を利用して、それを現実の対象の中に見つけて、現実の把握を深めて実践的にその知識を利用するという積極的な使い方は出来なくなる。

このような本来の意味での「応用」(数学での「応用」は、応用問題が解けること、すなわち計算が出来ることが「応用」だと思われているが、公式の適用をするだけのものは本来の意味での「応用」ではない。新たな発見をもたらすような考察に利用できることが本来の「応用」だ)をするためには概念的な理解が必要になる。そして、この概念的な理解は、抽象的な定義を記憶するのではなく、その構造を直感的に把握することが必要になる。

それが抽象された概念であるにもかかわらず、その概念を運用するという思考の展開をするには直感的な把握が必要なのである。このあたりのことも、人間の思考というものが持つ現実的な弁証法性ではないかと思われる。言葉の定義だけを記憶した概念は、それを変化させて現実に適応させるというダイナミックな思考の展開が出来ない。言葉の定義は固定的で、その抽象概念が、現実の条件によってどのように多様な側面を見せるかが知られていないからだ。

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by ksyuumei | 2007-07-19 09:56 | 雑文

科学と信仰

日曜日に、宗教的なパンフレットを持って訪問してきた人がいた。キリスト教の勧誘のための訪問だったのだが、僕は無神論者であることを理由に断った。そのとき、改めて自分の無神論というのはどういうものだったかというのに気づいた。僕の無神論は、神を必要としていないという状態から生まれたものであり、科学的認識のためには、始めに神がありきという信仰からスタートすることができないということから来ている。

三浦つとむさんは、徹底した唯物論者であり、自らが無神論者であることを公言していた。僕も、三浦さんが語る意味での唯物論者でありたかったと思っていたので、自分も無神論者だろうと漠然とは思っていたのだが、若いころは教会に通って、キリスト教の洗礼を受けようという寸前のところまでいったことがあった。信仰の中で生きることの心地よさに浸っていたいと思うときがあった。

僕は若いころにキリスト教に関心を持って聖書もよく読んでいた。きっかけは「ブラザーサン、シスタームーン」という映画を見たことで、ここに描かれていた聖フランチェスコの姿に感動し、その生き方に魅了されたからだった。すべてを捨て、自分の信じるものに従って純粋に生きることに、若かった僕は最高の幸福感を見たものだった。

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by ksyuumei | 2007-06-05 10:34 | 雑文