カテゴリ:雑文( 196 )

現代中国の実相

マル激の第218回 [2005年6月4日]では「今中国に何が起きているのか」というテーマでゲストに興梠一郎氏(神田外語大学助教授)を招いて議論している。ここで語られている現代中国の姿というのは、ある意味では驚くべきことばかりで、そんなふうになっているとは知らなかったというものが多い。これは、『中国 隣の大国とのつきあいかた』(春秋社)という本にも収録されていて、箇条書きにしてみると、次のような話題が語られている。


1 鄧小平体制や江沢民体制は、ずっと金持ちよりの路線でやってきたために、かなり階層分化が進んでしまった。貧乏人(農民と下層労働者)はいつまでも貧乏なままだ。

2 中国には流動性がない。1958年に出来た戸籍に関する法律によって固定化されている。農民は都市の市民になれない。教育も社会保障も戸籍のあるところでしか受けられないので、都市にとどまって高い賃金のもとに働くことは出来ない。農民はいつまでも低所得のままになる。

3 現在の体制は官僚や企業家にとって都合が良く、彼らは大きな利権を持っている。親の官僚が権力を使って子どもに儲かる商売を回す。独裁国家の独裁権力が金儲けも独占しているので、彼らだけが儲かる構造になっている。

4 労働者はすべて国家のコントロールのもとにあるので、賃金は安く押さえ、労働争議も鎮圧してくれる。そのため外資にとっては、効率のいい労働市場となっている。

5 警察の腐敗。居住地以外から来た人は臨時居住証を持っていなければならないが、それを持っていないことを摘発されると罰金を払う。これが警察の金づるになっていて、狙われることが多い。そのときのトラブルで殴られて死んだ人間もいるが、それは闇に葬られてしまう。

6 国有企業はその生産と就業人口はともに30%にしか過ぎないのに、それへの投資や銀行融資はそれぞれ60%、70%に上っている。まったく効率の悪い金の使い方をしている。やがて破綻することは目に見えているが、国家の財政収入のほとんどが国営企業からのものなのでそれを見捨てることが出来ない。

7 出稼ぎ労働者への賃金未払いがある。これは直接労働者を抱える末端の企業よりも、最上位にある企業の責任が大きい。そこが金を払っていないことが多い。そしてその企業はたいていが政府系だという。


これらの事実を見ると、その権力の腐敗ぶりのひどさにあきれてしまう。そして、そのような社会体制のもとで、底辺の労働者・農民が、いかに惨めな生活を強いられているかという理不尽も感じる。まさに「けしからん」ことのオンパレードといった感じだ。

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by ksyuumei | 2008-05-24 22:46 | 雑文

チベット問題の合理的な理解

チベット問題を合理的に理解するということは、中国の姿勢・態度を理解してそれを是とするということではない。むしろその逆で、チベットに対する中国の姿勢・態度は明らかに間違っていると思われる。しかしそれにもかかわらず、中国には間違っているという自覚がない。論理的にはおかしいと思われる理由でチベット支配の正当性をごり押ししているに過ぎないように見える。

中国はかなり多くの部分で論理的に正当だと思われる行動をしているのに、チベット問題に限っては、かなり無理をしてでもエゴイスティックな自分の利益を守ることに固執しているのだろうか。それは結果的には世界的な不人気を呼び、自らの利益を守る方向に働かないのではないかと、論理的には考えられるのに、その可能性を考えることが中国政府の目からは完全に消えている。この非論理性が、中国内部ではなぜ正当化されるのか。その合理的な理解をしたいというのがこの考察の目的だ。

中国はもともとそういう国なのだと受け取ってしまうと、合理的に思考する必要はなくなる。「嫌な野郎だ」という感情的な反応で終わってしまう。それを、結果的におかしいと思われる行動の中にも、なるほどこの原因があればこのような行動に結びつくのも無理はない、と合理的な理解が出来るように論理を構築したいと思う。そのような論理が見つかれば、その原因を取り除けば問題は解決すると思われるからだ。変なことをする人間も、もともとその人間が変なのではなく、普通の状態であれば合理的で納得できる行動をするという前提で考えるのが合理的な理解だろうと思う。変な行動に結びつくのは、そこに普通ではない何らかの原因があると思われるからだ。その論理的な結びつきが、チベット問題における中国には、どのようなところにあるのかを考えてみたいと思う。

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by ksyuumei | 2008-05-23 10:23 | 雑文

「東シナ海ガス田問題」における中国政府の政策への批判

マル激の238回[2005年10月14日] の放送では「まちがいだらけの東シナ海ガス田開発問題」というテーマでゲストに猪間明俊氏 (元石油資源開発取締役)を招いて議論していた。これがたいへん面白い議論で、マル激の紹介文には次のように書かれている。


「東シナ海のガス田開発をめぐる日中対立に解決の兆しが見えない。先の日中局長協議で日本側は、中国側が開発したガス田が日本が主張する権益境界線をまたいでいる可能性があるとの理由で、共同開発、地下のデータ提供、中国による開発の中止を求めている。
 しかし、石油・天然ガスの探鉱開発の実務に40年携わってきた猪間氏は、境界線については日中双方に言い分があるとしても、日本の要求は国際的基準や業界の常識からはずれたものだと懸念する。また、日本にとっては日中中間線の東側での共同開発を受け入れることが日本がこの海域に眠っているかもしれない資源を手に入れることのできる唯一の道であり 、中国が既に巨額の費用を投じているガス田にこだわればその機会を逸するとも主張する。
 なぜガス田をめぐる日中対立は続いているのか。なぜ中国側が提案する共同開発ではいけないのか。日本側が意図的に対立を長引かせている面はないのか。ナショナリズムのはけ口になる気配すら見せている東シナ海ガス田開発問題の深層を探った。」


専門家から見れば非常識な要求を日本が突きつけている理由は何だろうか。そこに戦略的な合理性はあるのか。上の紹介文からは、日本の外交姿勢が、日本の利益を損なうのではないかという懸念が語られている。もしこの外交政策の方向が合理的な思考から出てきたものでないなら、それは「煎じ詰めれば」中国に対して「けしからん」という感情で対応しているに過ぎないものと解釈できるのではないだろうか。上の文中には「ナショナリズムのはけ口になる気配すら見せている」という言葉がある。これは、嫌いな中国を非難して貶めることで溜飲を下げるということにならないだろうか。もしそうであれば、好き・嫌いで外交政策を考えていることになるのではないかと思う。

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by ksyuumei | 2008-05-22 10:22 | 雑文

大岡信 「青空」について

msk222さんのエントリーへの書き込みで、大岡信の「青空」という詩を思い出した。この詩は、詩という芸術の面白さに気がつき始めたころ、青春の輝きを感じさせてくれるような、思い出深い詩だった。ずいぶん前のことなのに、この詩は小さいノートに書き込んで取ってあった。今では、インターネットで検索してもヒットしないので、どこかで探そうとしてもなかなか見つからないだろうと思う。当時(1970年代半ば)の通信高校講座で取り上げられたものだった。

全文を載せてしまうと著作権のことが気になるので抜粋を紹介したいと思う。もし関心をもたれた方がいたら、プライベートなメールなどで紹介させてもらおうかなとも思っている。それなら、誰でも見られるところに公表しているのではないので、著作権を侵さずにすむのではないかと思う。さて、この詩の冒頭の部分をまずは引用しよう。


「 一
 最初、わたしの青空の中に あなたは白く浮かび上がった塔だった。あなたは初夏の光の中で大きく笑った。わたしはその日、河原に降りて笹舟を流し、あふれる夢を絵の具のように水に溶いた。空の高みへ小鳥の群れはひっきりなしに突き抜けていた。空はいつでも青かった。わたしはわたしの夢の過剰で一杯だった。白い花は梢でゆさゆさ揺れていた。」


この冒頭の部分はすべて過去形で語られている。それがすでに終わってしまったことであることが示されている。「あなた」の存在が「わたし」にとっていかにすばらしいものであったかが、ここではこれ以上ないくらいの過剰な表現でなされている。青空の中の白く浮かび上がった塔は、それ以外の存在が目に入らない、「わたし」にとって存在するのは「あなた」だけだと言っているように感じた。

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by ksyuumei | 2008-02-10 10:44 | 雑文

空気と文脈

宮台真司氏が「昨年の映画を総括しました〔一部すでにアップした文章と重なりますが…)」という文章で


「携帯小説の編集者によれば、情景描写や関係性描写を省かないと、若い読者が「自分が拒絶された」と感じるらしいんです。情緒的な機微が描かれていない作品、単なるプロットやあらすじの如き作品が望まれる。「文脈に依存するもの」を語らず、「脊髄反射的なもの」だけを描く作品です。」


と語っている。文脈というのは、前後の文章の関係や、それが表現する現実とのかかわりから、見ただけの視覚的世界を越えた意味を読み取ることを指す。単に見たものから直接引き出される感情に寄りかかるのではなく、それが意味するもの・隠された伝えたいものを読み取ることが文脈を読むということになる。

したがって文脈というのは、そこに書かれた文章に関するある種の予備知識を必要とし、しかも論理的につながりのある事実を想像できなければ読めないものとなる。すぐに分かるものではなく、何度も読み返してやっとほのかに見えてくるようなものになる。このようなものに対して、若い読者は「自分が拒絶された」と感じるのは、自分の知らないことを元に話されていることに対して排除されていると感じるのだろうと思う。

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by ksyuumei | 2008-01-22 10:13 | 雑文

他者への伝達

2回ほど前のマル激トークオンデマンドでは、生物学者の福岡伸一さんがゲストに招かれていた。そこでなされていた議論の中心は生命についてなのだが、それ以上に印象に残った言葉は、福岡さんがスキーを習ったときのエピソードだった。そこに、教育というものの最も大切な要素である「他者への伝達」の本質が語られていたように感じたからだ。

福岡さんがスキーのインストラクターについて習ったときに、まずは見本のように滑って見せて、さあこのようにやってくださいというようなことを言われたらしい。しかし、自他ともに認める運動音痴の福岡さんにしてみれば、「見たように身体を動かす」ということがいかに難しいことであるかが、インストラクターには伝わらない。

だから、もちろん見たような動きでは滑れないのだが、それを見てインストラクターは、「どうしてこんな簡単なことがあなたにはできないのですか?」というような目で福岡さんを見ているように感じたという。ここにある「他者への伝達」の難しさを、福岡さんは次のように解説していた。

インストラクターになるような人は、子どものころからスキーがうまくて、おそらく基本的なことはそれほど苦労せずに習得してしまったのだろうと思う。つまり、どのような過程を経れば、基本的な動作が合理的にうまくいくかという過程を自覚することが出来ないのではないか。無自覚に過程を通過した人間は、その過程を他者に説明することが出来ないのだ。その事をやって見せることは出来るのだが、それがどんなメカニズムで動いているかということは説明できないのだ。

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by ksyuumei | 2008-01-20 15:27 | 雑文

加速度は見えるか?

我々は物理学でニュートン力学の法則を学ぶときに、力は加速度と比例することを教えられる。それは真理であることが確定しているもので、それをちゃんと確認することなく、言葉の上でそれが正しいものだと思い込んで覚えることになる。我々には加速度というものがちゃんと見えていないにもかかわらず、それが言葉として表現されているために、概念としてまず頭の中に生まれることによって、その法則があたかも現実に存在するような錯覚を起こしているように感じる。

教科書などには自然落下の説明とともに、簡単な実験が書かれているときもある。自然落下は地球の重力が常に働いているために、その力が加速度を生じさせ、時間とともに落下する物体の速度が大きくなっていく。これは、地球の重力が常に働いているという前提を認めれば論理的な理解は出来る。しかし、人間が引っ張ったりする現象なら、そこに力が働いていることが見るだけで分かるが、どの物質も地球が引っ張っているという「万有引力」は、見ただけでは分からない。これも言葉の説明の概念を理解した後で、現実をそのめがねで見ることによって理解するということになる。言葉の上だけでの理解になる可能性もある。

言葉の上で、その言葉の意味として概念理解をしているものは、実は本当の科学的理解ではないのではないかというものは他にもいくつか想像できる。例えば、地球が丸いことは現在の日本に住んでいる人はほとんど誰でも「知っている」。だが、地球が丸いことを確かめた人はどれくらいいるだろうか。この知識は、誰もが言葉の上で知っているだけではないのか。それは果たして科学的な理解といえるだろうか。

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by ksyuumei | 2007-12-21 09:54 | 雑文

関数は見えるか?

中学校の数学教育において関数の概念を教えることはかなりの難しさがある。関数の計算を教えるのはそれほど難しくはない。グラフと式の対応関係は方程式に還元できたりするので、一定の手順を覚えるアルゴリズムとして教えることが出来る。掛け算の意味がわからなくても九九を覚えておけば掛け算の答えを出せるように、関数の概念をよく理解していなくても、式からグラフを求めたり、グラフから式を求めたりすることは反復練習を積むことによって出来るようになる。

だが関数がいったいどのようなもので、どんな役に立つのかということの「意味」はなかなか伝えることが難しい。関数の理屈というか合理性を理解することはかなり難しいのではないかと思う。これは、関数というものが、目に見える直感的な理解が図れる対象ではないことが原因しているのではないかと感じる。

以前に負の数同士の掛け算が正の数になることの理解の難しさを考えたが、そのときに重要だと考えたのは、負の数というものが、それを実体的に示すような存在が現実に見当たらないことではないかということだった。思考の対象を具体的につかむことが出来ないために、負の数同士の掛け算が正の数になることは論理的に把握するしかなくなる。この論理的な把握というのは、どうしても複合概念の把握になるために、直感的な単純な理解が出来ない。これが難しさの根本にあるのではないかと思った。

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by ksyuumei | 2007-12-19 10:20 | 雑文

因果関係は見えるか?

因果関係というのは、<原因>と<結果>のあいだに結びつきがある、関係があるということを認識するものだが、これは認識論的にはかなり難しいことではないかと思う。単純に外界を像として反映しているだけでは関係という認識は出来ないからだ。因果関係では<原因>と<結果>という二つのものの結びつきを考えるが、一般に関係では二つ以上のものの結びつきというものを見なければならない。

この関係は、直接目に見える形を取っていない。つまり静止画像としてはそれを確認できないわけだ。時間的・空間的な隔たりを持った二つの存在が、何らかの結びつきを持っていると「見えた」時に、その二つの存在のあいだに「関係」が成り立つ。この「関係」は、直接像として認識できないので、どうしても論理の力を借りてそれが成立することを見なければならないのではないかと思う。

例えばインド洋の給油を継続させるためのテロ特措法を考えると、ここにはアメリカの強い意向が働いて、それを受け入れざるを得ない現政府が、国会の会期を延長して衆議院で再議決してでも通そうとしているように「見える」。これはアメリカと関係しているように「見える」。それもアメリカの圧力が<原因>として働いて、<結果>的に現政府がテロ特措法の成立を至上命題としているように「見える」。

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by ksyuumei | 2007-12-16 11:00 | 雑文

「ノーミソの目」で見る

「ノーミソの目」という言葉は、仮説実験授業研究会でユニークな発表をしていた徳島の新居信正さんがよく使っていた言葉だ。僕は、新居さんが語っていた「ノートはノーミソを写す鏡である」という言葉が、自分の体験ともぴったり合ったこともあって、この言葉が特に印象に残っていた。

僕は数学の試験問題を解くときに、答案用紙が真っ黒になるくらいに書き込みをしていた。これは、自分が頭の中で考えたことをほとんどすべて書き込むようにすると、考えたことを客観的に眺めることが出来るような感じがして、書かないで頭の中の思考をめぐらせるだけにしたときよりも多くのことが発見できるような気がしたからだ。その体験を、「ノートはノーミソを写す鏡である」という言葉は、まさに適切に言い表していると思った。

また、計算をしているときも、計算の過程をすべて書き込むようにしていた。しかも、どの数式がどのように変換されたかがすぐに分かるように、計算した数式のすぐ下に変換された結果の式を書き込むようにしていた。このようにすると、うっかり計算を間違えたときもその事にすぐ気が付くようになる。今から振り返ると、誤謬論としても合理的だったように思う。間違いをすべて避けるということは出来ないのだから、間違えたときに、その間違いを容易に発見できて、間違いを避ける手立てを持つということが誤謬論においては重要だろうと思う。

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by ksyuumei | 2007-12-15 11:02 | 雑文