カテゴリ:雑文( 196 )

一流の学者の条件

一流の学者について、仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんは、「哲学的な科学者」と言うことを語ったことがあった。ここで言う「哲学的」とは、板倉さんが語る意味での「哲学的」と言うことであって、普通一般に辞書的な意味で語られている「哲学的」ではない。

板倉さんは、「科学」というものを「科」の学問として定義する。それは狭い範囲での法則性を求めるものだが、それが狭い「科」に限定されることによって、法則性の正しさが判定されると考えるのだ。もしも、広い範囲にわたって法則性を求めると、例外が多すぎてとても法則性と呼べるものではなくなってしまう。

板倉さんが語る「科学」とは、ある条件の下で「真理」が確定されるというようなものだ。その条件が厳密に求められていれば、それは「科学」としての信頼性が高いと判断される。

More
[PR]
by ksyuumei | 2006-03-22 15:46 | 雑文

二流問題の考察--簑田胸喜の場合(その3)

「蓑田胸喜の時代」に記述された資料の考察を続けようと思う。まずは、北一輝に対する批判があるので、ここから簑田の具体的思想が読みとれる。僕は北一輝についてはよく知らないのだが、一流の匂いのする人間だと感じる。その一流かも知れない人間に噛みついている簑田の批判が、真っ当な本質を突いているものなら、簑田も同じ一流だと言えるかも知れない。しかし、それが的はずれなものだった場合、そこから思想の二流性も結論される。


「一、『改造』思想は『破壊』思想である

社会は『改造』し得るであろうか?社会の原素は『人間』である。人体または人心は『改造』し得るであろうか?改造を要するものは道具機械の類と雖も積極的価値を有せざるものであるが、生命精神にとっては『改造』はそれ自体その生機の破壊の破壊であり、価値の滅却である。雑誌『改造』は十五年の歴史を似て日本の国家社会に何の積極的建設的貢献をなし得たか?破壊!唯破壊!である、それ以外の何事もなさなかった。『改造』思想は『破壊』思想であり、社会『改造』は社会『破壊』である---ということは理論ではなく事実である。『改造』を要する社会は『改造』の要なき、既にその価値なき社会であるといおう。北一輝氏の『日本改造法案大綱』は『改造』の一語にその消極的価値を自ら不随意に露呈しているのである。」

More
[PR]
by ksyuumei | 2006-03-22 11:46 | 雑文

二流問題の考察--簑田胸喜の場合

「『狂気乱舞』」と題されたページに、簑田胸喜に関する膨大な資料がある。ここに書かれている簑田胸喜の姿を考察することによって、二流問題というものを考察してみようかと思う。考察のポイントは次のような所だ。

1)思想の二流性(本質からはずれた末梢的な部分の考察になっていないか)
2)権力の獲得(思想としては二流なのに、なぜ権力を獲得出来たか)
3)一流の学者に対する攻撃性(どのようなルサンチマンが積み重ねられて、このような行為につながるのか)
4)マイナスの評価だけではなく、プラスに評価出来る部分があるのか(その評価がマイナスだけだったら、多くの人が支持することの理由が分からない。もしマイナスの評価しかしなかったら、それを支持した多くの人は単なる馬鹿だったとしか結論出来なくなる。それはあまりにも浅はかな見方だと思うので、人々がどの面を高く評価して、全体としても優れていると錯覚してしまったのか、その点を考えたい。)

More
[PR]
by ksyuumei | 2006-03-20 10:29 | 雑文

一流の学者と二流の学者をどこで区別するか

この区別は、僕の場合はかなり直感的に、いわば匂いをかぐようにして判断している。それだけに、それを言葉にして説明するのはかなり難しさを感じる。例えば、僕は、宮台真司氏を「超」がついてもいいくらいの一流の学者だと思っている。それは、初めて宮台氏の文章に接して、その1行目を読んだ瞬間にすぐにそう思うようになった。

これはすごい、という感覚はいったいどこから生まれてきたのだろうか。その論理が非常に明晰だという感覚はあった。論理展開に疑問を感じるようなところが一つもなかった。書かれていることがすべて正しいとしか思えないのだ。難しくて理解が出来ない文章も中にはある。しかし、理解出来た文章はすべてその正しさが理解出来る。宮台氏の文章はそういう文章だった。

宮台氏の印象では、もう一つその表現の的確さが深く残っている。宮台氏が語ることが、すでに自分でも考えたことのあるものだった場合は、それは非常にわかりやすい。それと共に、宮台氏に表現してもらうことによって、それまでぼんやりとしか理解していなかったことが、ハッキリとよく分かるようになった。

More
[PR]
by ksyuumei | 2006-03-19 23:59 | 雑文

「賃金」と交換されるのは「労働」なのか

Kawakitaさんの「内田樹氏のエントリー「不快という貨幣」関連の言説は「俗流若者論」か?」というエントリーに引用されているコメントの中に次のような表現がある。


「そもそもの定義からして、「贈与」は見返り(対価)を求めない行為であり、だからこそ、それは市場における「売買」や「取り引き」、「等価交換」に明確に対立します。一方、近代社会における「労働」は、労働者が自らの行為を「賃金」と交換し、あるいはその生産物である「商品」を市場において「売買」する行為です。ですから、「労働は贈与である」という言明は、「丸は四角い」という言明と同様に、端的に背理なのです。」


この中の「丸は四角い」という表現に関連して批判をしたのが前のエントリーだったが、今回は「近代社会における「労働」は、労働者が自らの行為を「賃金」と交換し」という主張を批判的に検討しようと思う。この主張から、表題のような疑問が生まれるのだが、それを先に解答しておけば、

 <「賃金」と交換されるのは「労働」ではない。「労働力」の方である>

More
[PR]
by ksyuumei | 2006-03-16 10:27 | 雑文

コメント・トラックバックの削除

僕は、本格的にインターネットを始めてからはかれこれ7,8年は過ぎただろうか。最初はメーリングリストという、メール中心のネットワークで交流をしていた。そのころから、文章だけでのやりとりは、一度感情的にもつれてしまうと収拾がつかなくなるところがあった。

それでもメーリングリストは、まだ閉じられたネットワークだったのでその影響は他に及ぶことはなかった。やがて、ホームページというものがもっと手軽に持てる時代になってから、掲示板での交流というものを経験するようになった。

はじめは既存の掲示板に書き込みをするだけだったのが、楽天が手軽な日記形式のホームページを提供していたので、それによって自分の掲示板を持つということも出来るようになった。このときに、掲示板に書き込まれたコメントを削除するということで、つまらないやりとりがたくさんあったのを記憶している。

More
[PR]
by ksyuumei | 2006-02-25 14:48 | 雑文