カテゴリ:雑文( 196 )

新しい概念の獲得は思考の展開にどのような影響を与えるか

ソシュール的な発想で考えれば、言語は、混沌として区別のはっきりしない現実に対して、言語で表現することによって概念の差異をはっきりさせ、現実にある構造を持ち込んでそれを理解しようとする。言語の発生と同時に、現実の対象を概念的に捉えることも可能になり、それが思考の対象ともなると考えているようだ。

それを言語で捉える前は、それが存在していたとしても、その言語を持たない人間にはそれが見えていない。devilfish という言葉を持たない人間には、devilfish という存在は見えていない。従ってそれを考察の対象にすることも出来ない。思考の展開には言語が必要だというのは、野矢茂樹さんが語るウィトゲンシュタインの発想でもあった。三浦つとむさんは、かつてヘーゲルを説明した文章で、思考の展開というものを概念の操作で説明していたように記憶している。概念を操作するとしたら、そのラベルとしてつけられている言語を操作することにもなり、ウィトゲンシュタインが語る「論理形式」に従った操作のようなものになるのではないだろうか。違う側面から思考というものに切り込んださまざまな発想が、最終的には似たところに落ち着くというのは、それが真理である可能性が高いのではないかと思う。

概念の獲得は、思考の展開に影響を与え、豊富な概念を理解している人間は、現実を広く深く捉えて思考することが出来るようになるだろう。そして概念が言語を通じて理解されるとしたら、語彙を豊かに持っている人間ほど思考も豊かになるといえるのではないかと思う。この語彙というものは、現在生きている我々は、言語の意味も言語を通じて教育される。その概念の理解は、現実の経験を通じてやられた方がより深い理解が出来るようになるだろうが、言語なしに経験を反省して言語を作り出すというやり方ではなく、まず言語としてのある言葉の提出があって、その言葉の意味を理解するために経験に助けを求めるという順番になる。

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by ksyuumei | 2008-07-03 09:58 | 雑文

他人の原稿に赤を入れることの容易さ

マル激の中で、神保哲生さんが何かの折に「他人の原稿に赤を入れるというのは誰でも出来るんですよね」というようなことを語っていたことが、妙に印象的で頭に残っている。これは神保さんが経験的にそういうことがよくあったということで語っていたことだった。

記者の原稿というのはデスクに回されていろいろと修正されて完成するのだが、そのときの修正に赤ペンが使われるので、それを「赤を入れる」などと言う。これは、そのままの原稿があまりよくないので、よりよいものに修正するというニュアンスで受け取ると、「赤を入れる」方が元原稿を書いた記者よりも優れていると考えたくなる。しかしそうでないことも多いという。

取材力も文章表現能力も記者のほうが上でも、その元原稿に赤を入れるのは可能だという。そして、それは決して恣意的に、デタラメに修正して「赤を入れる」のではなく、ちゃんとした方針に添って修正できるという。この方針は、必ずしもジャーナリズムの原則にのっとったものではなく、商業的に「売れるニュース」になるような方針で修正するとなれば、元原稿を書いた記者のほうがジャーナリストとしてはるかに優れていても、その方針に従った正しい修正が出来るということだ。

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by ksyuumei | 2008-07-02 09:55 | 雑文

原子概念誕生の瞬間を想像してみる

原子論というのは、「すべての物質は非常に小さな粒子(原子)で構成される」という主張の事を指す。これは今では科学的に正しいということが証明され、すべての科学者はこのことを前提として科学的な考察をしている。だから「原子論」については、それが正しいということや、その正しさが確立されてきた歴史というものはいろいろと解説してくれる資料は多い。

僕の尊敬する板倉聖宣さんも、『原子論の歴史(上)(下)』(仮説社)という本で原子論の正しさとその「論」の歴史については詳しく書いている。だがここで想像したいのは「論」の正しさではなく、「論」の意味を正しく受け取るための「原子」の概念がどのように誕生してきたかということだ。

「目に見えないほど小さい」とか「すべての物質の構成単位としての極限的なもの」であるとかいう「原子」のイメージがどのようにして生まれてきたのかということを想像したい。これはそのような問題意識で書かれた解説はまったく見つからなかった。「原子論」の正しさを解説する本はたくさんあるけれど、その元になった「原子」という言葉の概念はどのようにして獲得されたかということが書かれているものは見つからなかった。それで仕方がないので自分で想像してみようと思う。この想像が、ソシュールが語る「言語と概念は同時に生まれた」ということの理解に何らかのヒントを与えるのではないかと思うからだ。

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by ksyuumei | 2008-07-01 09:59 | 雑文

概念獲得の過程を反省してみる

ウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』を


「1 世界は成立していることがらの総体である。」


という言葉から始めている。この命題は、「世界」について語っていて、「世界」の定義でもあるといえる。つまり「世界」の概念を説明する言葉になっている。ウィトゲンシュタインが語る「世界」は、どうも普通によく使われる「世界」のイメージと違う。それは多くの人が持っている「世界」の概念と違うもののように見える。

「世界」というのは素朴なイメージでは、我々の周りに見えるもの全体を把握してそう呼ぶような感じがする。だから「ことがら」だけに限るウィトゲンシュタインが定義する「世界」は、どうも「世界」としては狭いのではないかという感じもする。素朴なイメージに近い「世界」の定義を辞書に求めると「(梵)lokadhtuの訳。「世」は過去・現在・未来の3世、「界」は東西南北上下をさす」というものが近いのではないかと思う。

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by ksyuumei | 2008-07-01 00:53 | 雑文

解釈(仮説)はどのようなときに事実(真理)となるか

現実に起こったある出来事を観察したとき、それが確かに「事実」であると判断できるのは、二項対立的な問いに明確に答えられるかどうかで決まる、と僕は考えた。グリーンピースをめぐる事件において、彼らが鯨肉の荷物を「持ち出した」か「持ち出さなかった」かという二項対立的な問いには「持ち出した」と明確に答えることが出来る。だから、「持ち出した」ということは「事実」だと判断できる。

これに対して、その行為を「窃盗だ」「窃盗でない」という二項対立的な問いを立てると、それに対しては明確に答えることが出来ない。「窃盗だ」という解釈も出来るし、「窃盗でない」という解釈も出来る。どちらか一方の解釈をする余地がなければ、これは「事実」として確定するが、それが出来ない時は「事実」にはならない。「解釈」の段階にとどまる。

この両者の違いは何に由来するのだろうか。それは「持ち出した」という言葉の概念(意味)と、「窃盗だ」という言葉の概念(意味)の違いからそのような判断の違いが出てくるように思う。「持ち出した」という言葉が正しいかどうかの判断には、その行為者の意図というものを考慮する必要がない。外から観察する行動面だけで判断が出来る。物理的な情報データのみで結論が得られる論理展開がなされていると考えられる。

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by ksyuumei | 2008-06-24 09:52 | 雑文

事実(真理)と解釈(仮説)をどう区別するか

マル激では、神保哲生・宮台真司の両氏がその週のニュースについてコメントをする時間が最初にある。本編の議論に入る前に、今日本で起きているさまざまな出来事の中で、流通している情報とその解釈に対して、それは違うのではないかという注意を向けるようなコメントをそこではしている。今週もいろいろなニュースを扱ったが、それに共通するものとして、「事実と解釈」というものが頭に浮かんできた。さまざまなニュースの中で、そこで語られていることのどれが「事実」で、どれが「解釈」に過ぎないものなのかを見分けるリテラシー(読解能力)が重要ではないかと感じた。

「事実」というのは論理的に言えば「真理」と重なるものだろうと僕は思う。それは、それを言語として語る命題と、その命題の内容が現実に成立しているということから、「事実=真理」だと判断される。それに対して、「解釈」のほうは、現実に成立しているかどうかがまだ決定されておらず、現実に成立している事柄を、我々がどう受け止めているかという、我々の認識の方を指す概念だ。

だから解釈の方は、それが「事実」として確認されれば「真理」と呼ぶことが出来る。「事実」はわれわれの外の世界に対する判断であり、「解釈」は我々の頭の中(認識)に対する判断だと言っていいだろう。

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by ksyuumei | 2008-06-24 00:26 | 雑文

メディア・リテラシーについて

マル激にもよくゲストで出ている森達也さんの『世界を信じるためのメソッド』(理論社)という本を読んだ。とても面白い内容だった。副題に「僕らの時代のメディア・リテラシー」とあるように、現在の発達したマス・メディアの時代に、そこから送られてくる情報をいかに有効に受け取るかという「メソッド(方法)」を論じたものだった。

その語り口はとても分かりやすいもので、専門的な話は何もなく、まったく予備知識がなくても「メディア」というものの本質がどこにあるかを的確に理解させてくれるものだと思った。メディアというものの代表は今ではテレビによる動画になっているが、これはたいへん分かりやすい媒体(メディア)として情報を伝える。マス・メディアそのものに分かりやすさがあるので、その危険性や本質を語るにもやはり分かりやすさがなければ多くの人には伝わらない。森さんはそのようなことを考えて、この本で書いたような語り口を使っているのだろう。

リテラシーというのは本来は「読み書き能力」のことを指した。これは印刷技術の発達によって、文字情報が多くの人に共有された時代に、情報を正しく受け取るための技術として考えられたらしい。これは、文字に書かれた情報というのが、直接体験を、いわば完全に離れた形での間接体験として受け取られるからではないかと思う。このような情報を受け取る時は、リテラシーという技術がなければ、それを正しく受け取ることが出来なくなるのだろう。

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by ksyuumei | 2008-06-09 10:10 | 雑文

正義を実現するためには手段が正当化されるという思想

マル激の366回では、チベット問題を論じて、中国がなぜあれほどまでチベット支配に執着するのかということを議論していた。外交的な利益というものを考えれば、直接支配をしなくても交易などの交渉で有利な手打ちが出来れば、形の上で高度な自治を認めても十分見合うのではないかと宮台氏は語っていた。

それなのに、国際的に悪者のイメージが強くなっていくような、あからさまな侵略行為をしていながら開き直るのはなぜなのか。その事の合理的な理解、つまり中国は、そのような行為によって自らの利益の何を守ろうとしているのか、という点を理解することに議論を集中していた。

中国が嫌いという人は、中国は「そういうひどい国なのだ」という怒りを表明することで済ませてもすむのかもしれない。しかし、好き・嫌いということで判断するのではなく、中国にも頭のいい人間がいるはずなのに、ちょっと考えれば何が論理的に正当かが分かっていいような問題で、あえて間違った判断を主張しているように見えるのは、何が目を曇らせているのか、ということを考えてみたくなる。普通に考えて論理的に正当な展開をしている結論なら、それを理解することはた易い。しかし、そのようなた易い論理とはまったく違う、むしろ正反対の結論を提出している時は、それがどのようにして導かれた主張なのか、その論理的な前提を知りたいと思うものだ。

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by ksyuumei | 2008-06-01 23:03 | 雑文

佐佐木さんの「現代「中華帝国」と中華思想 チベット問題」への考察 2

佐佐木さんの「現代「中華帝国」と中華思想 チベット問題」についてその「(1)はじめに ― 現代中国は単なる「中華帝国」ではない ―」を読んだ限りでの、佐佐木さんの主題と主張について、僕は次のようなものだと受け取った。


1 中国のチベットに対する侵略行為の正当化について、それは「中華人民共和国がマルクス・レーニン主義を党是とする共産主義者党(中国《共産党》)の統治する特殊な<イデオロギー的中華帝国>である」という点を考慮することが重要で、この前提から論理的に帰結される。

2 現代中国を理解するのに中華思想は重要ではあるが、それのみを理解の中心に据えることは出来ない。「中華思想一本で論じきれるほど現代中国の諸問題とりわけ政治的外交的軍事的諸問題は単純ではない」。


カギ括弧で引用しているのは、佐佐木さん自身の表現で書かれている部分で、この二つが、この長い文章の全体を貫いているテーマではないかと僕は理解している。

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by ksyuumei | 2008-05-27 10:29 | 雑文

佐佐木さんの「現代「中華帝国」と中華思想 チベット問題」への考察 1

佐佐木さんの「現代「中華帝国」と中華思想 チベット問題」について考えてみたいと思う。まずはそこに書かれている内容の理解に努力を注ぎたい。何らかの主張に対して、それに賛成するにせよ・反対するにせよ、その主張の内容を正確に受け取った上で自分の意見を提出しなければならないだろう。誤解を前提にして論理を展開しても、それは一つの別の見解にはなりうるだろうが、ある主張に対する関連のある主張にはなりえない。

佐佐木さんの主張は非常に多岐に渡り、しかも専門的な用語の使い方も多いので、そこで何が語られているかを正確に受け取るのは難しい。まずは細部にこだわらずに、大筋の主張において、本質的には何を語っているのかということを考えてみたいと思う。この理解にはかなり時間がかかりそうだが、まずは分かる部分と分からない部分をはっきりと分けて、分かったと思える部分が正確な理解になっているかを考えてみたいと思う。ポイントになるのは、論理的な言葉の使い方において、解釈が唯一に決定出来るかどうかで、それを考えたいと思う。解釈が複数出来そうな表現では、どの解釈が、前後の文脈から考えて妥当なのかという自分の受け取り方を考えてみたいと思う。

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by ksyuumei | 2008-05-25 11:23 | 雑文