カテゴリ:雑文( 196 )

ブログ・エントリーのための覚え書き

気になっていながらも、判断するための材料が集まらずに、何となく変だなと思っている事柄がいくつかある。忘れないうちにこれらを記録しておこうと思う。材料が集まって、何らかの判断を引き出すことが出来そうになったら、エントリーとして展開してみようと思う。箇条書きにすると次のようなものだ。


1 ロス事件の被疑者だった三浦さんの再逮捕について
2 北朝鮮に対する「テロ支援国家指定解除」について
3 海上自衛隊員の暴行死に潜む日本社会の暗い一面
4 沖縄密約事件の秘密文書の非開示の意味
5 ウィトゲンシュタインによるラッセルのパラドックスの解決



これらに対してどんなことが気になっているかのメモも記録しておこう。その気になっていることの解答が得られそうなものを見つけたとき、もう一度そのことを考えてみようと思う。

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by ksyuumei | 2008-10-17 08:56 | 雑文

麻生首相の所信表明演説の評価から「うまい説明」を考える

国会では麻生首相の所信表明演説を受けて今論戦が行われている。対立する側が、その不備を指摘してマイナスの評価をするのが当然なら、それを支援する与党の方は、優れている点を指摘してプラスの評価をすることになるだろう。これはどちらにも一理ある議論になると思われる。プラスにもマイナスにも評価できる議論を、総合的に見ればどうなのかということで評価をまとめるのはかなり難しい。

自分の立場がはっきりしていれば、それは反対の立場を考慮する必要がないので分かりやすいだろうが、あくまでも客観的に正しい方に近づきたいと思えば、何が客観的かということにこだわらなければならない。双方の主張の中に、対立する立場からのものではあるが、客観性を感じてなるほどと思えるような「うまい説明」が見つかるだろうか。

専門家でない素人は、その知識量が少なく、しかも提示された資料を読み間違えたり錯覚をしたりする。客観的な真理をつかむ条件はきわめて悪い。この状況の中で、誰が提示する主張が信じるに値するものであるのか、そのことを考えてみたいと思う。普通の人にとって、麻生首相が語ることが正しいかどうかを直接確かめることは難しい。それを説明する、あるいは批判する誰の言説が正しいのかという判断の方が、直接考察するよりもやさしいのではないかと思う。「コロンブスの卵」は、その立て方を知った人は二度目には誰でも出来る。「うまい説明」は、最初に発見するのは難しいが、誰かがそれをしてくれれば、同じようなことを考えようとする二人目は、そのことを容易に理解するのではないかと思う。

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by ksyuumei | 2008-10-06 10:15 | 雑文

うまい説明とは

仮説実験授業研究会の牧衷さんという人が『運動論いろは』(季節社)という本を書いている。牧さんは、いわゆる市民運動の専門家で、そこには長年の経験から得られた豊富な知識と教訓が語られている。運動という予測のつかない、ある意味では混沌とした対象から、いかにして法則性を読み取るかという認識論がそこにはあり、それは現実の持っている複雑性を理解するために、弁証法的発想を利用するというものになっている。弁証法の具体的な応用のすばらしい解説書ともなっている。

そこに牧さんの「慣性の法則」の理解に関する体験が語られている。「慣性の法則」というのは、「静止している質点は、力を加えられない限り、静止を続ける。運動している質点は、力を加えられない限り、等速直線運動を続ける」というふうに語られる。これは、静止の場合については誰でも経験しているのでその理解はたやすいだろう。論理的な思考なしに、体験から直接そのような「感じ」を理解することが出来る。

しかし「等速直線運動」の方は、我々は直接体験することは出来ない。力を与えられていないように見える物質は、地球上ではいつか止まってしまう。(そこには摩擦力などが加えられているのだが、これは目に見えるようにはなっていない。)いつまでも動き続けるということはない。この「等速直線運動」は、それを想像させるようなうまい実験を利用しないとなかなか理解が難しいだろう。言葉の上で、「慣性の法則」は上のように書かれているというのを記憶しただけでは理解に至らないのではないかと思う。言葉で覚えている「慣性の法則」は、それを説明することは出来ても「うまい説明」とはならないだろう。

説明が説明として機能するためには、その説明によって今まで分からなかったところが分かるようにならなければならない。言葉で覚えているだけの、暗記した言葉の説明は、それがすでに分かっている人には分かるだろうが、まだ理解に至っていない人にとっては何を言っているのかさっぱり分からない。それは全く説明という言葉に値しないのだが、そのような丸暗記の言葉であってもテストでは正解になったりする。

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by ksyuumei | 2008-10-03 09:26 | 雑文

ブログ・エントリーのための覚え書き

いくつか気になっていることがあって、いろいろと資料を調べているのだが、なかなか考えがまとまらず資料も集まらないので書けないでいることがある。それを忘れないうちにちょっと記録しておこうと思う。


1 民主党の政策が財源の裏付けがないということについて

民主党が掲げている政策については、ばらまきだという批判が多く、しかもその財源の裏付けがないということが多く語られている。それが本当だろうかと思っていろいろとデータを探したのだが、あまり説得的に語っているものが見あたらなかった。何となくそうなのかなとは感じるが、世間で叩かれているほどひどいという感じがしなかった。あれだけ世間で叩かれているのだから、もっと確信を持って主張できるだけの材料がすぐに見つかると思ったのに。

どうも説得力に欠けるのは、民主党が主張しているような財源の移動が非現実的だということを具体的に語っていないことだ。そんなのは無理だという結論はたくさん見かけるのだが、このような具体的な問題があって出来ないとか、もっと具体的に語っている人がいないものかと思う。

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by ksyuumei | 2008-09-28 18:11 | 雑文

誰が優れた人物なのか

二十歳前後の学生の頃、自分の教養を高めたいと思い、そのためにはどのような学習をすればよいかを考えたことがあった。とにかく優れた人物が語ることを理解して、それを通じて教養を高めるということがいいのではないかという結論に達した。しかし、どの人物が優れているかというのは、その時点ではどうにも判断が難しかった。そこで世界の名著と言われているものを片っ端から読んでいこうと思ったものだ。

手始めに手に取ったものが文学全集だった。数学科だったにもかかわらずと言おうか、あるいは数学科だったからこそ教養と言えば文学かなと思ったのか、世界や日本の文学全集から手当たり次第に読み始めた。世界の方では、ホメロスやダンテから始めて、ゲーテやシェイクスピア、バルザック、ロマン・ロランなどを読みあさっていた。最も気に入ったのはドストエフスキーで『罪と罰』は何度も読み返したものだった。

日本の作家では夏目漱石が気に入った。それまでは数学や自然科学系の本しか読まなかったので、最初は小説を読むのが苦痛だったが、一冊なんとか読み通すことが出来ると、後はそれほど苦に感じず読むことが出来た。最初に読んだ小説は志賀直哉の『暗夜行路』だったが、これは読み終えるのに一ヶ月くらいかかっただろうか。『罪と罰』を読む頃にはかなり慣れてきたのでこの分厚い本も2,3日で読むことが出来た。

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by ksyuumei | 2008-09-19 09:51 | 雑文

汚染米問題に関する論理的な疑問

「<事故米転売>太田農相、事態軽視?「じたばた騒いでない」」という9月12日20時14分配信の毎日新聞の記事によれば、太田農水相は「「(汚染米から検出されたメタミドホスは)低濃度で、人体への影響はないと自信をもって言える。だから、あまりじたばた騒いでいない」と言ったそうだ。これは、太田農水相が言った言葉でなければ、たとえば農薬の専門家が解説したものであれば、ある意味で安心を与える言葉になっただろう。だが、これを太田農水相が言えば、それは結果的に影響がないのだから責任はないのだという、責任逃れの言葉にしか聞こえないだろう。

太田農水相がこのような発言をするというのは、政治家の責任というのをあまり自覚していないのだということを自らが語っているようなものになるだろう。農水省を監督するような立場にありながら、農水省が行ったミスを正しく追求できないことを伺わせるようなものだ。政治家としての資質を疑わざるを得ないと思う。このことから、以前の事務所費問題にしても、その責任の重さを自覚することは難しいのではないかと思われてしまうだろう。未だに説明責任を果たしていない。このようなことで話題になるよりも、まずは事務所費問題をきちんと説明することが大事だと思うのだが、それを国民も忘れずに注視していかなければならないだろう。

さて、汚染米問題は、食品会社が悪質であることはたくさんの報道からはほぼ明らかで、それを見抜けなかった農水省の責任も問われている。どこに最も重い責任があるかは、明らかにしなければならない問題であり、再発防止のためには重要だと思われる。だが、その責任の根幹にあるシステムの問題があまり報道されていないのに違和感と疑問を感じる。

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by ksyuumei | 2008-09-13 11:42 | 雑文

注目していた事柄のいくつかについて

山本一太氏が総裁選立候補を断念したというニュースがあった。残念なことだ。立候補に必要な20人の推薦人が集まらなかったという。以前に河野太郎氏が立候補を表明したときも20人の推薦人が集まらずに立候補そのものが出来なかった。そして、河野氏の時には、立候補が出来なかったことによってその主張をマスコミが取り上げることがなかった。

今回の山本氏の場合もその二の舞になるのではないかという可能性が高いので残念だ。自民党の総裁選が、単なるパフォーマンスではなく有意義な論戦を展開してくれるのではないかというわずかな期待が裏切られるのではないかという落胆を感じる。果たして他の候補だけで、現在懸案となっている本質的な問題が議論に上るだろうか。本質を論じれば、そこには利害の衝突が鮮明に現れる。そのような議論において、いろいろな立場から推薦された人間たちが、その立場を越えて本質を議論できるかどうかに疑問を感じてしまう。河野氏のように、はじめから特定の立場ではない、大きな観点から物事を発想する人間が議論に加わる必要があったのではないかと思う。

河野氏がブログで書いていたように、道路特定財源の一般化という問題がどのように総裁選の議論に登場するかに注目していこう。それが全く登場しないようであれば、そこに利害を持っている誰かの意向が、それを議論しない方向に働いたのだと解釈するしかないだろう。果たしてどうなるであろうか。

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by ksyuumei | 2008-09-09 10:00 | 雑文

マルクス主義批判

僕にとってマルクス主義批判の内容は、ずっと長い間「官許マルクス主義批判」だった。それは三浦つとむさんが展開していた批判で、共産主義政党などの権威あるものが主張していた、権力からのお墨付きをもらったマルクス主義に対する批判というものだった。細かい内容には立ち入らないが、それは論理的にいえば、権威あると言われている正統的マルクス主義がいかにマルクスを「誤解」しているかという批判だった。マルクスやエンゲルスの主張に対する理解の間違いを指摘するという形での批判だった。

三浦さんはレーニンや毛沢東の弁証法に対する理解を批判していた。三浦さんには『レーニンから疑え』という著書があるけれど、当時誰もが正しいと信じて疑わなかったレーニンでさえも間違っているという批判はそれを発表するだけでもたいへんだった。三浦さんがスターリンの言語論を批判したときは、スターリンは当時の最高権威であり、言語学者でもないスターリンが語った言語に関する理論でさえも人々は正しいと信じて疑わなかったようだ。

後にスターリンはソ連でも批判されてその偶像はいっぺんに壊れた。今ではことさらスターリンが間違っているというのは声を上げて言うことではなく、ごくありふれたものとして受け止められているだろう。だが当時の雰囲気から言えば、キリスト教徒に向かってイエスが間違っていると指摘するようなものだったのではないかと思う。それは批判すること自体がけしからんことだと思われたようだ。

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by ksyuumei | 2008-08-24 14:51 | 雑文

人間の社会における「交換」の意味

『レヴィ=ストロース』(吉田禎吾、板橋作美、浜本満 共著、清水書院)には次のような記述がある。これも、ある意味ではレヴィ・ストロースのすごさを伝えるものであるが、社会という、自然科学の対象とは全く違う性格を持ったものを、どう認識するかという見方を語るものとして貴重なものだと感じた。特に、自然科学畑の出身である自分には、このような観点はなかなか持ちにくいのを感じるだけに特に印象に残った。ちょっと長いが引用しておこう。


「レヴィ・ストロースは「社会」を交換の全域的なシステムととらえる。交換の価値は単にそこで交換されるものの価値ではない。それは自己とは異なるものとしての他者の存在を想定すると同時に、自己をそうした他者と結びつける行為である。区別し、かつ関係づけるその行為は、まさに言語によるコミュニケーションにも比せられべき一種のコミュニケーションなのだ。
 この交換の重要性について、再三にわたって繰り返されるレヴィ・ストロースの主張は私が以上の紹介の中では特に強調しては取り扱わなかったテーマの一つである。これが重要ではない、ということではない。私はこの主張の正しさには全く疑問を抱いていない。むしろこの主張を認めた上で、私が紹介しようとしたのは、レヴィ・ストロースが近親相姦の禁止とそれを補完する婚姻規則をこうした全域的な交換のシステムに関係づける、その仕方であった。
 近親相姦の禁止の普遍性は、人間が社会を持つという事実の普遍性と同義である。禁止はそれの裏返しでもある積極的な規定とともに、総体として、交換の全域的なシステムに対応している。もちろんこうした禁止や規定は、婚姻という個々の出来事を規制する規則である。しかし、それがすべてではない。これらの規則は、個々の出来事を規制することを通して一つの全域的(global)な体系を生成する。それらはそれらが生成する全域的(global)な体系の、局所的(local)な表現なのである。レヴィ・ストロースが示そうとしてのはこれであった。」


「「社会」を交換の全域的なシステムととらえる」のは、抽象として妥当だろうかという疑問がちょっとわいてくる。「交換」という人間の行為の一部で社会全体を代表できるものなのか。「交換」という行為こそが、人間を人間たらしめ、社会の必要性を説明する最重要なものになるのかどうか。数学系としては、このあたりに論理の飛躍がないかどうかが気になる。この論理の流れを埋めるスモールステップは発見できるのだろうか。

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by ksyuumei | 2008-08-03 13:37 | 雑文

レヴィ・ストロースのすごさ

構造主義を語るときに、人類学者のレヴィ・ストロースは絶対に欠かせない重要な人物となっている。「親族の構造」の解明こそが、構造主義の歴史における金字塔として紹介されている。だが、今までの僕は、このレヴィ・ストロースの業績に対して、いったいどこがすごいのかということが分からなかった。確かに、世界で初めて構造というものに注目してその理論をまとめたという先駆者性は認めるものの、それは単に一つの解釈を提出しただけではないのかという思いがあった。

インセスト・タブーと呼ばれる近親相姦の禁止の習慣を、それは女の交換というものを生じさせるためだという、人々を驚かせるような意外な理論を提出したところにすごさがあるとも思えない。だいたい、この理論の正しさを僕はよく分かっていないので、これが本当に正しいと確信できなければ、この理論を提出したことのすごさというものが実感としてわいてこない。これは本当に正しいのだろうか。正しいと言われているから、何となく正しいのかなという感じを持ってしまうが、これは論理的にそのような結論が明確に出るのだと、論理の流れを構築できるものなのだろうか。

レヴィ・ストロースは有名で、誰もがそのすごさを口にするから、何となくすごいと思わないといけないような気がしてくるが、実感としてそういう気持ちになれないので困っていた。何とかしてそのすごさを実感したいと思ったが、レヴィ・ストロースの解説書をいくつか読んでもなかなかすごさが伝わってこなかった。しかし、『レヴィ=ストロース』(吉田禎吾、板橋作美、浜本満 共著、清水書院)を読んで、ようやくそのすごさを実感することが出来た。この本の第二章を浜本氏が執筆しているのだが、そこで語られている「親族の基本構造」の解説を読んで、初めてレヴィ・ストロースのすごさを感じることが出来た。

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by ksyuumei | 2008-08-02 23:19 | 雑文