2008年 09月 11日 ( 1 )

世界の存在とその認識

「世界」という言葉は非常に抽象的でありながら日常的にもよく使われる平凡な言葉だ。だがそれは高度に抽象的なので、それがどのような過程を経て具体的属性が捨象されているかに様々な違いが生じるだろう。ある人が考える「世界」と他の人が考える「世界」が概念において全く一致するということは少ないに違いない。自分が今考えている「世界」というものが、いったいどのようなものであるかを明確にするような表現がどの程度出来るだろうか。自分が考えている「世界」はどうやらこのようなものらしいということを表現してみることで、それに至る思考や論理が見えてくるようにならないだろうかと思う。

野矢茂樹さんのウィトゲンシュタインの解説を読んでいると、論理というものはそれについて直接語ることは出来ず、論理を使って思考したものを述べることによって示すことが出来るだけだという指摘がある。論理の正しさは論理によって説明することが出来ない。それは循環した説明になってしまう。論理的に正しいということは合理的に考えたことだと言える。だが、合理的な思考というのは論理に従った思考のことを指す。我々は論理の正しさをア・プリオリに認めなければならないのではないかとも思える。

かつての僕は、論理の正しさを何らかの現実との結びつきで語ることが出来ないだろうかということを考えていた。現実の存在の反映として、その存在構造が論理として捉えられるのだという考えだ。しかし、存在の多様性は、論理をそれと結びつけてしまうと、存在と無関係に成立するように見える命題論理の正しさが説明しきれない。野矢さんは、論理の正しさは言葉の使い方の正しさの判断だと語っている。しかしそれが何故正しいかは、言葉の使い方の正しさを、言葉で語るという自己言及的な循環したものがまた見えてくる。論理そのものの正しさはやはり語り得ないものになるのだろうか。

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by ksyuumei | 2008-09-11 10:20 | 論理