2008年 08月 15日 ( 1 )

言葉の約束である論理がなぜ現実の合理的な理解をもたらすのか

かつては、論理は現実世界の反映であり、論理の正しさといえども現実にその基礎を持っているのではないかと僕は考えていた。ウィトゲンシュタイン的な、写像による現実世界の像としての論理空間というイメージを抱いていた。今ではそのような理解をやや修正している。論理の法則の発見のきっかけは、現実世界との対応だったのではないかと思うが、いったん論理の法則が理解されると、それの考察はもはや現実世界と関係なく行われる。それは言葉を対象にして考察することによって理解されるようになる。

論理というのは、現実の法則ではなく、言葉の法則であるという理解の方が今では自分のものになっている。論理の正しさも、言葉の使い方のルールとして合理的だからだと思える。だが、この合理性は論理によってそう言えることなので、論理の正しさを論理によって理解するというところにやや危うさも感じている。循環論法的な雰囲気を感じるからだ。

いずれにしても、言葉の法則だと思われる論理が、何故に現実世界の理解においても有効なのかということは単純には納得できないように思われる。現実を無視して抽象されている論理という言葉の世界が、どのようなつながりで現実を正しく反映することが出来るのだろうか。論理に従わなければ我々は合理的な思考を行うことが出来ない。目の前の事実を見たままに記述するだけでは、その今の見えている側面のことだけしか語れない。今見えていないことは思考の中に入ってこないし、過去や未来のように、今見ていないことも思考の中に入ってこられない。

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by ksyuumei | 2008-08-15 10:10 | 論理