2008年 08月 04日 ( 2 )

論理学における仮言命題と日常言語における仮言命題

仮言命題というのは、「AならばB」という言葉で表現されるような命題のことで、Aを前件(前提)と言い、Bを後件(結論)などと言う。この仮言命題を論理学、特に形式論理学で扱う時は、AやBの内容については全く触れることはない。形式論理は、命題の内容に関係のない、命題が置かれているその位置によって論理的な意味がどうなるかを考えるものだから、命題の内容は捨象される。しかし、現実に日常言語を使って論理を進める場合は、内容を捨象した仮言命題を使うことはない。日常言語での論理の展開は、特定の内容を持った仮言命題を駆使して論理の流れを作っていく。

このあたりの違いは、論理学を専門にしていない人にとってはかなり違和感のあるものではないかと思う。日常言語とかけ離れているように見える形式論理が、それほど役に立ちそうな感じがしないというイメージもそのあたりから作られるのではないかと思う。しかし両者の違いを正しく受け止めると、形式論理というのは、単純ではない論理の流れを把握するのにかなり役に立つということが分かってくるのではないかと思う。

それを二つの側面から考えてみたいと思う。一つは、日常言語を使う時の前件肯定式と呼ばれる、形式論理における推論規則だ。これは、形式論理における妥当な推論として認められているもので、日常言語における推論では最も多く使われているのではないかと思う。

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by ksyuumei | 2008-08-04 21:29 | 論理

「言語の構造に支配される思考」という時の構造とは何か

内田樹さんによれば、現在の社会というのは構造主義的な発想が当たり前になってきた時代だという。我々は構造主義を知らなくとも、構造主義であればこのように発想するというような考え方を自然に持つようになっている。それは内田さんによれば次のように表現されている。


「今の私たちにとって「ごく自然」と思われている振る舞いは、別の国の、別の文化的バックグラウンドを持っている人々から見れば、ずいぶん奇矯なものと映るでしょう。(だから「ここがヘンだよ日本人」というような批判的コメントがほとんど無限に提出できるわけです。)
 それどころか、同じ日本人であっても、地域が変わり、世代が変われば、同一の現象についての評価は一変します。半世紀後の日本人から見たら、今の私たちが何気なく実践している考え方や振る舞いの方の多くは、「21世紀初め頃の日本社会に固有の奇襲」として回想されるに違いありません。
 ですから、今、私たちがごく自然に、ほとんど自動的に行っている善悪の見極めや美醜の判断は、それほど普遍性を持つものではないかもしれない、ということを常に忘れないことが大切です。それは言い換えれば、自分の「常識」を拡大適用しないという節度を保つことです。」


ここで内田さんが語っていることは、現代日本人の多くが賛成する「常識」ではないだろうか。そして、この常識は確かに構造主義的な発想から生まれてくるものだ。何らかの構造の支配によって生み出された常識であるから、その構造が違えば違う常識が生まれるだろうことが予想される。だからそれは「それほど普遍性を持つものではない」。

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by ksyuumei | 2008-08-04 09:41 | 構造主義