2008年 08月 03日 ( 2 )

構造主義における「構造」そのものの概念を求めてみる

僕は、構造主義における「構造」という言葉にこだわって、その概念をつかむことが難しかったが故に構造主義についてもよく分からないものというイメージでいた。これが数学的な構造、たとえば代数的構造などと呼ばれるものだったら、それほど苦労せずに理解できただろう。しかし、数学でいう構造は、わざわざ「主義」という言葉をつけるような曖昧なものではないはずだ。それは全体性を支配する基本になるものであり、それをつかんだ人間は、その数学分野における適切な公理を選ぶことが出来る。

構造主義は、主に社会科学の分野で語られたり、ソシュールの言語学で語られたりしていた。だから、それが全く数学と重なるような「構造」の概念を持っているとは思えなかった。もしそうであるなら、社会現象や、言語現象などを数学と勘違いしているだけではないかと思っていたものだ。三浦つとむさんが構造主義を批判するように、ありもしない妄想の影響で人間社会が支配されているとする観念論的妄想にしか見えなかった。

数学の構造は、それが人間が構築したものであるが故に揺るぎないものとして設定できるが、現実に存在する構造はすべて現象に対するある解釈に過ぎないという感じがしていた。そのような構造を見ることにそれほどたいした意味があるのだろうかという疑問をずっと持っていた。すべてを数学として見てしまうことは、数学の抽象性に数学のすばらしさを感じていた人間としては、わざわざその抽象性のすばらしさを殺すものではないかという気がしていた。

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by ksyuumei | 2008-08-03 23:50 | 構造主義

人間の社会における「交換」の意味

『レヴィ=ストロース』(吉田禎吾、板橋作美、浜本満 共著、清水書院)には次のような記述がある。これも、ある意味ではレヴィ・ストロースのすごさを伝えるものであるが、社会という、自然科学の対象とは全く違う性格を持ったものを、どう認識するかという見方を語るものとして貴重なものだと感じた。特に、自然科学畑の出身である自分には、このような観点はなかなか持ちにくいのを感じるだけに特に印象に残った。ちょっと長いが引用しておこう。


「レヴィ・ストロースは「社会」を交換の全域的なシステムととらえる。交換の価値は単にそこで交換されるものの価値ではない。それは自己とは異なるものとしての他者の存在を想定すると同時に、自己をそうした他者と結びつける行為である。区別し、かつ関係づけるその行為は、まさに言語によるコミュニケーションにも比せられべき一種のコミュニケーションなのだ。
 この交換の重要性について、再三にわたって繰り返されるレヴィ・ストロースの主張は私が以上の紹介の中では特に強調しては取り扱わなかったテーマの一つである。これが重要ではない、ということではない。私はこの主張の正しさには全く疑問を抱いていない。むしろこの主張を認めた上で、私が紹介しようとしたのは、レヴィ・ストロースが近親相姦の禁止とそれを補完する婚姻規則をこうした全域的な交換のシステムに関係づける、その仕方であった。
 近親相姦の禁止の普遍性は、人間が社会を持つという事実の普遍性と同義である。禁止はそれの裏返しでもある積極的な規定とともに、総体として、交換の全域的なシステムに対応している。もちろんこうした禁止や規定は、婚姻という個々の出来事を規制する規則である。しかし、それがすべてではない。これらの規則は、個々の出来事を規制することを通して一つの全域的(global)な体系を生成する。それらはそれらが生成する全域的(global)な体系の、局所的(local)な表現なのである。レヴィ・ストロースが示そうとしてのはこれであった。」


「「社会」を交換の全域的なシステムととらえる」のは、抽象として妥当だろうかという疑問がちょっとわいてくる。「交換」という人間の行為の一部で社会全体を代表できるものなのか。「交換」という行為こそが、人間を人間たらしめ、社会の必要性を説明する最重要なものになるのかどうか。数学系としては、このあたりに論理の飛躍がないかどうかが気になる。この論理の流れを埋めるスモールステップは発見できるのだろうか。

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by ksyuumei | 2008-08-03 13:37 | 雑文