2008年 05月 14日 ( 1 )

論理の前提としての「事実」と現実解釈の真理としての「事実」

野矢茂樹さんが解説するウィトゲンシュタインの発想を考えてみると、「世界」を「成立している事柄」という「事実」から出発していることが分かる。しかし、ウィトゲンシュタインは、この「事実」が何故に「事実」なのか。つまり、どうやってそれが実際に成立していることであるかを確かめるすべについては何も語っていないように見える。ウィトゲンシュタインにとっては、その事がらが「事実」であるかどうかは所与のことであり、関心はそれを使って展開される論理のほうにしかない。「事実」の確認の仕方については何も語っていないようだ。

ウィトゲンシュタインは、原理的には「事実」を現実に100%確認することは不可能だったと考えていたのではないかとも思う。現実を観察して、その現象を言語によって表現するとき、それが本当に現実を反映した表現になっているかどうかは、常に解釈の余地を残すだけに確定しないのではないかと思う。

たとえばある人物を親切で温かい心の持ち主だと受け取って、それが「事実」であると判断したとする。しかし、実はある利害関係から、そのように振舞っていたほうが得だという場合もある。また、以前は本当に親切で暖かかったけれど、困難な状況が訪れて、とても他人のことなど心配していられなくなって今は親切で暖かくなくなっているかもしれない。「事実」は勘違いがあり得るし、変化して違ってしまうことがある。

More
[PR]
by ksyuumei | 2008-05-14 10:28 | 論理