2008年 05月 07日 ( 1 )

ラッセルのパラドックスを回避するウィトゲンシュタインのアイデア

ラッセルのパラドックスというのは、「嘘つきのパラドクス」と同様に、自己言及によって矛盾が導かれてしまう種類の論理的なパラドックスになっている。現実を誤って認識したために、現実存在に反する判断が生じてしまったような、「ゼノンのパラドックス」のようなものではない。

現実に反する判断は、どこかに論理的な間違いが生じているのか、論理の出発点となるような現実の把握(つまり事実の認識)において間違っているのかどちらかだということになる。論理的な間違いであれば、それは正しくない論証であり、論理の出発点の把握が間違っているのなら、それを否定した判断が正しいという背理法を示すことになる。ゼノンは運動を否定したという言い方もされるようだが、その真意は空間が多くのもので構成されていて無限に分割できるものではなく、一つの存在として捉えなければならないという主張を証明するための背理法として提出したのだという。存在は「多」という性質を持つという前提を否定しようとしたらしい。

間違い・あるいは背理法として処理できるパラドックスに対して、論理的なパラドックスは、そこに間違いを見つけることが出来ない。ある意味では論理の限界を示すものとして、論理を無制限に適用してはいけないという警告と受け取らなければならない。どのような制限を設ければパラドックスを回避できるのか。ラッセルは「タイプ理論」というもので一つの解答を提出したが、ウィトゲンシュタインはそれとまったく違う発想でもう一つの解決を提出したというのが野矢茂樹さんが『『論理哲学論考』を読む』という本で展開していることだ。これを詳しく考えてみようと思う。そこには、パラドックスというものの本質が見えるのではないかと思う。

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by ksyuumei | 2008-05-07 10:14 | 論理